
1900年
- アール・ヌーヴォーの街、パリ -
<1900年という年>
20世紀の歴史を旅するにあたって、1900年という19世紀の終わりの年は実にエポック・メイキングな存在です。なぜなら、その年フランスのパリで行われた万国博覧会は、ある意味19世紀ヨーロッパ文化の総決算であり、栄華を極めたヨーロッパ経済の象徴でもあったからです。パリ万博を語ることは、「ヨーロッパの世紀」であった19世紀を語ることであり、新たな世紀に入って訪れることになる「ヨーロッパの凋落」や新しい国々の台頭を語ることにもなるのです。
さらにこの年、19世紀を代表する思想家のニーチェが梅毒からきた狂気の果てにこの世を去りました。「神は死んだ」と言った偉大な思想家の死から20世紀は始まったともいえます。
<19世紀とは?>
19世紀とは、「大航海時代」にいち早く海外へと進出し、アジアやアフリカから富や文化を収奪した国々、イギリス、スペイン、ポルトガルなどの時代でした。ただし、その後に起きた産業革命の波に乗り遅れたスペインやポルトガルは世紀末にはすでにその勢いを失っており、20世紀に入った時点での勝ち組はイギリスとフランスだったといえるでしょう。だからこそ、1851年にはじめた開催された万国博覧会の開催地は、産業革命の故郷イギリスのロンドンだったわけです。そして、第一回の万博から半世紀後、19世紀の終わりというよりは、20世紀の始まりを記念するべく行われた万博はもうひとつの経済大国フランスの首都パリだったわけです。当時のフランスとイギリスはライバル国ではありましたが、その経済発展の原動力についてはかなり異なっていました。
イギリスはいち早く進められた産業革命のおかげで築き上げられた工業力と最強の海軍力によって守られた貿易によって、海外から富をかき集めていました。それに対してフランスは長い伝統に支えられた美術工芸の技術とセンスが生み出す、ジュエリー、ガラス工芸、陶器、家具、彫刻、テキスタイル、繊維製品などを主力製品として、世界トップクラスの輸出大国になっていました。
だからこそ、万国博覧会という美術、産業、技術の世界的な見本市はフランスという国にとって最高のお祭りである以上に最高の販売促進イベントだったわけです。おまけにパリ万博は20世紀の最初を飾る万博ということで、その注目度はそれまでの万博の比ではありませんでした。
<アール・ヌーヴォーの街、パリ>
国家の威信をかけてこのイベントを成功させるべくフランス政府は万全の準備でこの博覧会に望みました。すでに近代都市としての街作りを終えていたパリの街は、さらに時代を象徴する意匠としてアール・ヌーヴォーのスタイルを取り入れ、街全体が博覧会場となるように仕掛けられました。
近代都市の象徴ともいえる地下鉄がこの年ついにパリの街に完成、駅にはエクトール・ギマールがデザインした鉄工芸品が用いられ訪れた人々を驚かせました。さらに、アール・ヌーヴォーを代表するデザイナー、アルフォンス・ミュシャが手がけた美しいポスターが街を飾り、建物の中にはエミール・ガレによるガラス工芸品が並べられ、ルネ・ラリックがデザインした美しい宝飾品の数々はそこにさらなる輝きを与えていました。パリはまさに20世紀を先取りする未来都市としてそこにありました。その意味では、この万博における最大の見ものはずばりパリの街だったといえるのかもしれません。
<アール・ヌーヴォーの由来>
1895年に工務店「ラール・ヌーヴォー」を作ったサミュエル・ビング。彼はビアズリー、ガレ、ティファニー、マッキントッシュらのイラストや工芸品を展示販売し一躍その名を知られるようになりました。彼はパリ万国博にも出店。7つの部屋からなるその美しいパビリオンは大人気となり、このイベントを代表する存在となります。そのために彼の店の名前から「アール・ヌーヴォ」がこの万博を表す名前として使用されるようになったのでした。
<芸術家をひきつける街、パリ>
20世紀初めのパリの街には、世界各地から優れた画家たちが集まって来ていました。ロシアからシャガールやカンディンスキー、オランダからはモンドリアンやヴァン・ドンゲン、イタリアからモディリアーニ、セヴェリーニ、ブルガリアからパスキン、ポーランドからキスリング、日本からは藤田嗣治、スペインからはもちろんピカソ、彼らは詩人や音楽家などの芸術家たちとカフェで語り合い、刺激を与え合うことでそれぞれの才能を磨いてゆきました。
ピカソが住んでいたモンマルトルの「バトー・ラヴォール(洗濯船)」やシャガールの住んでいたモンパルナスの「ラ・リューシュ(蜂の巣)」など、ビートニクにとってのチェルシー・ホテル(ニューヨーク)のような存在もありました。
そのうえ、パリには審査も賞もなく誰でも自由に出品できる「サロン・デ・ザンデパンダン」のような他の街にはない斬新な展覧会もありました。
<世界に広まったアール・ヌーヴォー>
街を飾ったアール・ヌーヴォー独特の有機的で複雑かつ華麗なデザインは、パリの街を訪れた人々を驚かせ、感動を与えました。当然、その影響はそれらの人々に大きな影響を当てることになり、その種が世界各地へと蒔かれてゆくことになりました。
例えば、この時はるか遠く日本から万博を訪れていた浅井忠も、アール・ヌーヴォーに大きな衝撃を受けた一人でした。1854年に開国し、海外に工芸品の輸出を行うようになっていた日本は、一時期ヨーロッパ各地にジャパニズム・ブームを巻き起こしました。しかし、当初はヨーロッパの人々に衝撃を与えた日本の製品でしたが伝統にこだわるために変化がなく、しだいにあきられつつありました。実際、1900年の万博でに出品された日本の工芸品は、アール・ヌーヴォーの勢いにも押され、かつてほどの注目を集めませんでした。この結果に衝撃を受けた前述の浅井忠は、日本に戻るとさっそくヨーロッパの美術工芸を学び、そこから新しいデザインを生み出してゆくためのグループを結成します。それが1903年に結成された京都の図案家や陶芸家たちからなる図案の研究グループ「遊陶園」でした。
同じ考えから、1901年には日本初のグラフィック・デザイン雑誌「図案」が出版され、この後日本の工芸品はアール・ヌーヴォーの影響などを取り込みながら、より新しいデザインを生み出すようになって行きます。
<パリ万博の見所>
(1)エッフェル塔のエスカレーター
1889年のパリ万博において最大の目玉となったギュスターヴ・エッフェルによって建てられたエッフェル塔は、万博の象徴というだけでなく近代都市として再構築されたパリの街、そしてフランスという国の象徴となりました。
この年、1900年の万博では、そこにエスカレーターが登場。単なる高い展望台だけでなく空中散歩を楽しめるエンターテイメントとしてもパリを象徴する存在となりました。
(2)映画の登場
1895年にリュミエール兄弟がオープンさせたグラン・カフェ地下の映画館は、世界初の映画館としてヨーロッパ中の話題となりました。当然、この年の万博においても、彼らが上映したシネマトグラフは大きな話題となり、映画の魅力が世界中に発信されてゆくことになりました。
(3)オリンピック
19世紀最後の記念すべきパリ万博には、大きなおまけがありました。なんとこの万博の付属として第二回目の近代オリンピック大会(夏季大会)が開催されていたのです。1896年に長い空白の後、クーベルタン男爵の努力によって復活したオリンピックは、かつてオリンピアが開催された故郷の地ギリシャのアテネで開催されました。そして、第二回目の開催地として万博が開催されることになっていたパリの地が選ばれたのでした。
当時のオリンピックは種目も少なくあくまで万博のおまけ的なスポーツ大会だったこともあり、選手の意識も低いものでした。その良い例は、決勝戦の盛り上がりのなさでした。観客の集まりやすい日曜日を決勝戦に選んだものの、選手たちの多くがキリスト教の安息日であることを理由に、決勝への参加を断ってきたのです。
さらに、この時のパリ・オリンピックで特筆されるべきなのは、史上初めて女性が選手として競技に参加したことです。そのために、それまで存在しなかった女性用のスポーツ・ウェアが生まれ、後の女性ファッションの変化にも大きな影響を与えることになります。
20世紀は人類が急激にその科学力、知識力を発展させた「科学の世紀」とも呼べる時代でしたが、同じように肉体を鍛錬することで、その能力の限界を押し広げた「スポーツの世紀」になって行くことにもなるのです。
(4)貞奴&川上音二郎
今では信じられませんが、この万博で世界的アイドルになった日本人がいました。それは20世紀最初の世界的アイドル、貞奴です。ナンバー1芸者から日本初の女優となった彼女は夫の川上音二郎とともにアメリカへ公演旅行に出ます。しかし、彼女は一度も舞台に上がったことはなく、女優になる気もありませんでした。ところが、運命は彼女を舞台に上げ、一気に世界的なアイドルにしてしまいました。そんな彼女がアメリカからヨーロッパへ、そしてこのパリ万博に登場。一躍世界の注目を集めることになったのです。美しき芸者ガール、貞奴の存在も、この万博の目玉となりました。
<万博の意義>
最近では万博の存在意義を問う声も多く、巨額の費用をかけて国の税金を使い、なおかつ地域の環境を壊す「万博」はもうその役目を果たし終えたのではないか。そう考えている方も多いでしょう。僕自身、この間行われた名古屋万博に行きたいとは正直思いませんでした。でもかつて大阪万博が行われた1970年、当時小学6年生だった僕は万博が見たくて見たくてしかたありませんでした。結局連れて行ってはもらえなかった僕は、その代わりに買ってもらった万博のガイド本を穴が開くほど読み、いつしか参加国の名前や首都や特産品などをすっかり覚えてしまいました。この時の世界の国々について知りたいという強い思いがもしかすると未だにこのサイトの原動力になっているのかもしれません。そう考えると、ちょっとお金はかかるけど、オリンピックやワールドカップ・サッカー同様、子供たちに与える夢という観点から見ると、まだまだ人や国によては大きな意義をもちうるのかもしれません。
<ガウディーとピカソ>
1878年パリで行われた万博のあるブースに皮手袋を飾る小さなショーケースが置かれていました。ところが、このショーケースが実に美しいデザインだったため、いつの間にか手袋ではなくショーケースを見るために観客がこのブースを訪れるようになりました。なかでもスペインにおける繊維業界ナンバー1の大物実業家エウセビオ・グエルは、そのショーケースの美しさに見せられてしまい、作者の招待をつきとめ、自分の仕事をさせようと思い立ちます。こうして、後にあの有名なサグラダ・ファミリアを建てることになるアントニオ・ガウディは生涯最大のパトロンとなる人物とであうことになったのです。
もうひとつ象徴的な出来事があります。20世紀を代表する画家パブロ・ピカソがこの年、故国スペインを旅立ち、万博に沸く芸術の街パリへと移り住んでいます。彼は日本からやって来た川上音二郎一座の公演に釘付けとなり、さっそく彼らの絵を描いていたそうです。
インターネットもなく、テレビもなく、飛行機もまだ飛んでいなかった19世紀、「万博」は世界一の情報発信イベントであり、数多くのアーティストたちに出会いと成功のチャンスを与える存在でもありました。
こうして実質的に20世紀の始まりとなった1900年は、パリ万博という輝かしいイベントによってその幕が切って落とされたわけです。しかし、ヨーロッパの栄光の時代は、その後長くは続きませんでした。それどころか、その十数年後にはヨーロッパ中が戦火に見舞われ、かつて栄光を新興国アメリカに奪われることになるのです。栄華を極めたヨーロッパは、この時すでに崩壊への道をゆっくりと歩み始めていたのです。
<1900年という年>
「ヨーロッパにとって、十九世紀は『勝利の時代』で、そこに『新しい二十世紀』がやって来る。『新世紀の到来』とは、『ヨーロッパ栄光達成百年記念』のようなものであり、、『十九世紀の終わりになってから”新世紀”という発想がヨーロッパには定着した』という事実は、『その時ヨーロッパは十分豊かになっていた』という事実と重なるものであろう」
橋本治著「20世紀」より
<映画「1900年」>
なお、「1900年」という年についてはベルナルド・ベルトルッチ監督の超大作「1900年」という映画があります。上映時間316分という映画史に残るこの作品は、1976年に公開されましたが、あまりに長い作品のため、再上映されることもめったになく僕も未見です。しかし、監督、脚本がベルトルッチで音楽がエンリオ・モリコーネ、撮影がヴィットリオ・ストラーロ、さらに出演者がロバート・デ・ニーロ、ジェラール・ド・パルデュー、ドミニク・サンダ、バート・ランカスター、ドナルド・サザーランド、アリダ・ヴァリ、ステファニア・サンドレッリ、スターリング・ヘイドンとくれば傑作になっていないわけがないと思われます。

ツェッペリンが世界初の飛行船を建造(ド)
マックス・プランクが「量子論の基礎」を発表
パブロフ博士による条件反射の研究(ロ)
ニューヨークで黒人暴動発生(都市部で初)
インドで大飢饉が発生、多くの死者が出る
義和団事件をきっかけに列強国が軍隊を北京に侵攻させる(中)
治安維持法公布(日)
<文学、思想など>
「オズの魔法使い」L.F.バウム著
夏目漱石が英国に留学
「武士道 Bushido The Soul of Japan」新渡戸稲造著
「笑い」アンリ・ベルグソン著

<音楽>
ジャコモ・プッチーニのオペラ「トスカ」初演
スコット・ジョップリンの「メイプルリーフ・ラグ」が大ヒット
万博のため滞在中の川上音二郎一座が義太夫、芝居などをパリで録音
イヴェット・ギルベール Yvette Guilbertなどシャンソンの人気スターがカフェ・コンセールで活躍
「鉄道唱歌」「花」「軍艦マーチ」(日)
<時代を変えたモノ>
日本初の公衆電話が設置される(新橋、上野、熊本)
ビクターのキャラクター、犬の「ニッパ」誕生
イーストマン・コダックがブローニー・カメラを発売(米)
日本楽器がヤマハ・ピアノを発売
オーヴィル・ギブソンがギター・メイカー「ギブソン」を設立
<1900年の物故者>
アーサー・サリヴァン(作曲家)
オスカー・ワイルド(英国の文学者)
ジョン・ラスキン(思想家)
フリードリヒ・ニーチェ(ドイツの哲学者)
黒田清隆(元内閣総理大臣)
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