怒りと悲しみのイタリア半世紀の記憶


「1900年」

- ベルナルド・ベルトルッチ Bernardo Bertolucci -
<これぞ超大作>
 第一部、第二部合わせて5時間16分の超大作です。思えば、最近は「前編・後編」の作品や「三部作」で公開される作品は珍しくありません。とはいえ、5時間を超える映画を一挙に上映することは今でもありません。そして、1970年代当時には、それは二部作だとしてもありえないことでした。そのため、当時、アメリカでは一時間短縮された別バージョンが公開され、日本でも当初は公開されませんでした。1981年公開の「天国の門」は、3時間39分でしたが、これすら映画会社は大幅なカットを要求しています。
 日本での初公開は、6年後、1982年にフランス映画社の配給に変ってからのことになります。その頃には、すっかり忘れられた映画になっていたこともあり、僕は結局この映画を見ずにいました。DVD化されたことも知らずにいましたが、先日、数字のタイトルのコーナーで偶然この作品の2枚組DVDを見つけ、ついに40年後になった初めて見ることができました。
 デジタル・リマスターされたこの作品は、まったく古さを感じさせないはずです。5時間を超える上映時間もけっして長くは感じないはずです。DVDを見る場合は、無理に一気に見なくてもいいので、じっくりと集中して見てもらいたいものです。その価値のある内容です。

<動く歴史絵画大作>
 動く絵画ともいえるこの作品は、文字通り一枚の絵画のアップ映像から始まります。
 イタリアの画家ジュゼッペ・ペッリッツァ・ダ・ヴェルペード(1869年~1907年)の「第四身分」という作品です。1898年にミラノで起きた民衆暴動に感動した作者が4年の歳月をかけて書き上げたこの大作は、まさにこの映画のテーマと共通しています。そこには、民衆(この映画の場合は農民)の団結心、闘争心、力強さ、美しさが見事に描き出されているのです。
 19世紀から20世紀へ、ヨーロッパでは「貴族」という名の支配階級による富の搾取の時代が、その終焉へと向かいつつありました。「労働者」の時代であり、「共産主義」がトレンドの社会の誕生が迫っていたのは、ロシアだけではなくイタリアも同様でした。第二次世界大戦前のドイツがそうだったように、イタリアでもファシストと共産主義が紙一重の競り合いをしており、もしかするとイタリアもまた共産圏の一員になっていた可能性がありました。そんな混沌とした20世紀前半を動く絵画のように映像として再現したのがこの映画です。
 そんな半世紀におよぶイタリアの歴史を描くという巨大なプロジェクトを可能にしたのは、なんといっても監督であるベルトルッチの世界的な評価と興行収入の実績のなせる技でした。
 強烈なセックス描写で世界を驚かせた映画「ラスト・タンゴ・イン・パリ」の大ヒットによって、国際的な名監督としての評価だけでなくヒット・メーカーとしての評価も獲得したベルトルッチは、巨額の製作費を許される数少ない巨匠の仲間入りを果たしました。それにより、彼はある程度自由に巨額の製作費を使える10年に一人の地位?を獲得していました。
 シナリオの執筆には2年以上かけられ、製作の開始は1973年で、1974年から翌1975年の4月まで、ほぼ丸一年かけて北イタリアの四季をカメラに収めながら撮影が行われました。(この作品は、1900年からの半世紀のイタリア史を描いていますが、それを春、夏、秋、冬、そして春へと移り変わる季節に例えています。そこにもご注目を!)
 撮影場所は、イタリア北部の街パルマ周辺で、ローマのチネチッタでも撮影が行われています。その後、編集作業が行われますが、前述のとおり、さすがに長すぎると映画会社からクレームが入ったため、編集作業は難航することになり、当初の6時間15分のバージョンは1時間分カットされ、アメリカ公開版はなんと2時間もカットした4時間バージョンになりました。(この編集もベルトルッチ本人が行ったそうですが、その気分は最悪だったことでしょう)

<いま一つの評価>
 この作品は1976年に完成し、カンヌ国際映画祭で公開されたものの、内容が左翼的過ぎたのか、その評価はいま一つだったようです。思えば、この映画の中の革命家たちの時代は、すでに過去のものとなり、ソ連と革命の思想に対する評価も過去のものになろうとしていたのですから・・・革命の故郷であるソ連国内ですら、あまり高い評価を得られなかったようです。あと五年早く公開されていれば、もう少し反応は違ったのかもしれません。
 主役を無名の農民たちにしたことで、ロバート・デニーロという当時最高の若手俳優だった存在が引き立て役に回ることになったのももったいなかった気がします。いっそのことドナルド・サザーランドが演じた悪役を演じた方がデニーロらしかったかもしれません。(興行的にはあり得ない判断だったのでしょうが・・・)
 魅力的なキャラクターである主人公の祖父(バート・ランカスター)と使用人頭(スターリング・ヘイドン)や主人公の妻(ドミニク・サンダ)などの出番がもっとあれば・・・とも思いました。(ノーカットだともっと見られたのかもしれません)

<美しい映像の秘密>
 この映画の美しさを支えている二人の女優、ステファニア・サンドレッリとドミニク・サンダは、ベルトルッチの「暗殺の森」でも共演していて、当時その美しさは絶頂期にありました。ボッティチェリやラファエロの絵画に登場しそうな女優たちの映像だけでもこの映画は美学的価値があると思います。(欲を言うなら、ドミニク・サンダの声が、もう少し高くて美しければ・・・・)
 美しいと言えば、やはりこの映画に収められている北イタリアの風景でしょう。特に春から夏にかけて、映画の前半部の映像はマジック・アワーに撮られたであろうスペシャルな映像ばかりで溜息がでます。撮影期間が長くなければ、これだけ美しい映像を撮りためることは不可能だったでしょう。森の中で、農民たちがダンスを踊っている場面はまるでおとぎ話の世界のようです。どの場面も美しく静止画にして保存したくなります。
 この映像を撮ったのは、イタリア出身のカメラマン、ヴィットリオ・ストラ―ロです。彼が関わった作品を並べただけでも、その美しい映像が思い浮かぶのではないでしょうか?
暗殺の森」(1970年)、「ラスト・タンゴ・イン・パリ」(1972年)、「地獄の黙示録」(1979年)、「レッズ」(1981年)、「ラスト・エンペラー」(1987年)、「シェルタリング・スカイ」(1990年)・・・フランシス・フォード・コッポラ、ベルナルド・ベルトルッチ、ウォーレン・ビーティの作品を中心にいずれも歴史的傑作ばかりです。

<リアリズム演出>
 ベルトルッチは、上映時間の長さ以外にも様々な部分でリアルにこだわるがゆえの今では再現困難な演出・表現を実行しています。ノーカットの裸の描写は「ラスト・タンゴ・イン・パリ」に比べれば大人しいものですが、当時はまだボカシが必要でした。
 それ以上にリアルなのは、生きた蛙の帽子、豚の解体、馬の生糞の顔面乗せ、残虐な少年の殺害方法など、強烈なインパクトの場面の描写です。どれも今なら絶対に映像化が困難なものばかりです。とはいえ、その多くは当時としては実に当たり前の出来事で、けっして珍しいものではなかったはずです。少なくとも、馬糞に関しては、僕は子供の頃は街の中を馬橇が走っていて、馬糞はどこにでも落ちていたものです。(さすがにぶつけられた経験はありませんが、人によってはありだったはず)
 多くの歴史大作が戦争や貴族の生活、アーティストたちの生き様を描く一方で、普通の人々の日常を、記憶の中から蘇らせてくれる作品は意外に少ない気がします。その点、この作品は、農民たちの日常の仕事や祭り、収穫などをを丹念に映像化している記録映画としての価値も高いと思います。何度も登場する農機具とその進化は、実にわかりやすい例です。
 ルキノ・ビスコンティのネオリアリズモの名作「揺れる大地」はイタリアの漁村を舞台にした作品で、イタリア共産党の全面協力で作られましたが、「1900年」はその農村版であり、オマージュ的作品だともいえます。同じビスコンティの「山猫」で主人公の貴族を演じたバート・ランカスターが、この映画では同じように没落しつつある貴族を演じ、その息子を演じたロモーロ・ヴァッリもまた「山猫」に出演していました。さらに同じビスコンティの名作「夏の嵐」でヒロインを演じていたアリダ・ヴァリもこの作品で破産した貴族の妻ピオッピ夫人を演じています。
 この映画のオープニングでピエロの衣装を着た人物が「ヴェルディが死んだ!」と叫びながら現れます。1901年にこの世を去った作曲家のヴェルディは、イタリアのオペラを代表する作曲家です。歌のないオペラのように第一幕、第二幕と二幕構成で作られたこの作品は、オペラの時代の終わりをもって始まります。そして、皮肉なことにオペラの終わりは、そのまま20世紀を代表する娯楽である「映画」の誕生とも重なっていました。

<無名の人々の映画>
 この映画の印象的な場面を思い浮かべてみました。
 森の中で農民たちがオカリナの美しい音色に合わせて踊る夏の日の午後。
 騎馬警官隊の侵入を阻止しようと土手の道に横たわる農家の女たちの雄姿。
 ファシストに焼き殺された老人たちのための葬送行進。
 アッティラと手下による農民たちの虐殺。
 終戦後、巨大な赤旗を広げて行われた集会と人民裁判。
 これらの場面が、どれも無名の農民たちが主役なのは、偶然ではなく、彼らこそが主役であることの証明です。ロバート・デニーロの俳優としての輝きがいま一つなのに対し、彼ら農民たちが一人一人輝いている。それがこの映画の目指すところだったということです。
 俳優個々の演技にフォーカスするのではなく集団として演技をさせているかのような構成の映画は、21世紀に入ってからはもちろん、映画史においても貴重です。20世紀末にソ連が崩壊して以降、左翼思想は時代遅れの過去のものになってしまっただけに、この映画が描いている左翼思想に基づく文化・風俗は新鮮にさえ見えるかもしれません。
 21世紀に入り、こうしたイデオロギーが主役となった映画はもう登場しないのでしょうか?
 マルクス・レーニン主義は確かに過去の思想かもしれません。しかし、バート・ランカスター演じる古き良き時代の経営者に代わって登場した新しい時代の経営者が、人をモノ扱いする経営によって革命を呼び込んだように、トランプのような自分さえ良ければ・・・という思想が前面に出る時代。再び古くて新しい歌「インターナショナル」が歌われる時代が来るかもしれません。

「1900年」 1976年
(監)(脚)ベルナルド・ベルトルッチ
(脚)フランコ・アルカッリ、ジュゼッペ・ベルトルッチ
(製)アルベルト・グリマルディ
(撮)ヴィットリオ・ストラ―ロ
(音)エンニオ・モリコーネ
(美)ジャンニ・クァランタ、エツィオ・クリジェリオ
(衣)ジット・マグリーニ
(編)フランコ・アルカッり
(録)クラウディオ・マイエッリ
(出)ロバート・デニーロ、ジェラール・ド・パルデュー、バート・ランカスター、ドミニク・サンダ、ステファニア・サンドレッリ、スターリング・ヘイドン、ドナルド・サザーランド、ラウラ・ベッティ、アリダ・ヴァリ、ヴェルナー・ブルーンス
<あらすじ>
 イタリア北部の農村で地主の子として生まれたアルフレード(ロバート・デニーロ)と小作人の子オルモ(ジェラール・ド・パルデュー)。二人は世紀のはじめ、1900年の同じ日に生まれました。身分は違うものの二人は、いつしか親友となっていました。しかし、のどかだった農村の暮らしは、アルフレードの祖父が死に、その息子が後を継ぐ頃から、急速に変わり始めます。小作人たちを人間扱いしない父親にアルフレードは反発。村を離れて遊びまわりますが、そんな生活の中で美しく進歩的な女性アーダ(ドミニク・サンダ)と出会い母親の反対を押し切って結婚します。
 結婚式の当日、小作人の子供の一人が暴行を受けた後、惨殺されるという事件が起きます。共産主義者としてファシストたちに目の敵にされていたオルモは、犯人ではないかと疑われ、リンチに遭いますが、アルフレードはそれを止めようとしませんでした。この頃、すでにイタリアではファシストたちが実権をつかみつつあり、アルフレードは彼らに反抗する勇気がなかったのです。そんな夫アルフレードの態度にアーダは失望。二人の関係は早くも危機に向かい始めます。・・・

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