1902年

- エンリコ・カルーソー Enrico Caruso -

<レコードの誕生>
 エジソンが蓄音機を発明したのが1877年、ただし当初は一回きりしか聞けなかったり、蝋管のようにすぐ音が劣化したりするため、一般に普及するためには至っていませんでした。しかし、1887年に同じアメリカの発明家エミール・ベルリナーがレコード・プレイヤーの原型となる円盤式蓄音機を発明。この方式はレコードという円盤状の記録媒体を用いることで繰り返し再生することができ、なおかつ同じものを大量に製作するできるという大きなメリットをもっていました。
 その発明者ベルリナーは自らこの方式を実用化するためにグラモフォン社を設立。その円盤式蓄音機をグラモフォンと名づけると、その製造と販売を開始します。しかし、グラモフォンを売るには、その機械を用いて聞くためのソフト(レコード)がなければしかたがありません。そこでグラモフォン社はグラモフォンではなくレコードを製作、販売する業務を展開することになります。社内にはさっそくレコードを製作するための人材が求められるようになります。しかし、その仕事は現在のレコード・プロデューサーの仕事はずっと広い範囲に及んでいました。先ず初めにやることは、レコードに吹き込むための音源を捜さなければなりません。それも現在のように単純にタレントを探せばよいというわけではありません。もともと音楽業界というものが存在しないので、タレントを探すといっても地道にライブを生で聞いて判断するしかないわけです。もちろん、タレントを見つけた場合、彼は録音技師の役目だけでなく、ピアノ伴奏者も担当し、すべてを仕切る立場でもありました。さらには、グラモフォンを購入する人の聞きたい音が単純に音楽とは限らない場合もあるので、世界中を巡って珍しい音源ならなんでも録音するという仕事もありました。もちろん、録音スタジオなどはまだほとんどなかったのですから、録音作業の多くはプロデューサーが泊まっているホテルのホテルの部屋や現場でのなま録音でした。
(豆知識)グラモフォンをモデルに作られたトロフィーをもらえる賞があります。そう、「グラモフォン」だから「グラミー」賞なのです。
<レコードの歴史>

<ガイズバーグ氏、カルーソーと出会う>
 1902年、イギリス・グラモフォン社のプロデューサーとしてヨーロッパ各地を回っていたフレッド・ガイズバーグ Fred Gaisbergは、イタリア・オペラの本場ミラノのスカラ座で素晴らしい声の持ち主と出会いました。彼の名はエンリコ・カルーソー Enrico Caruso、当時29歳でイタリア南部ナポリの出身のテノール歌手でした。彼の高音域の声の美しさに感激したガイズバーグは、さっそく彼に声をかけ、自分のホテルに来させると二時間かけて10曲、ピアノ伴奏だけで録音を行いました。
 その翌年、彼は大西洋を渡り、ニューヨークのメトロポリタン劇場に出演。それに合わせてレコードも発売されると、あっという間にその人気は高まります。世界初の人気レコード歌手の誕生です。その後彼はアメリカに移住し、18年間メトロポリタン劇場の看板スターとして活躍。レコードの売り上げによって巨万の富を築いた最初のアーティストともなりました。彼の人気は単に優れたオペラ歌手というだけではなく、民謡や当時人気のポピュラー・ソングもレコーディングすることであらゆる階層の心を掴み、イタリア系の移民たちを中心にアイドル的な存在となっていました。その意味では、音楽業界が生んだ最初の国民的アイドルともいえそうです。
 カルーソーにはこんな逸話があります。イタリアが生んだ20世紀を代表する偉大な指揮者アルトゥーロ・トスカニーニが、ベートーベンの曲を演奏するのに上手く行かずに悩んでいた時のこと、その演奏会で歌うことになっていたカルーソーは、トスカニーニにこう言ったそうです。
「あの行列をご覧なさい。彼らはわたしの声を聴きに来たのです、ベートーベンじゃありません」(なぜか、このお話しは「アル・パチーノのインタビュー」より)
 残念ながら彼は地元ニューヨークでの公演中に喀血して倒れ、その後イタリアで療養生活をおくるものの結局48歳という若さでこの世を去ってしまいました。(1921年8月2日)その輝かしい生涯は、1951年「歌劇王カルーソー」として映画化もされ、最近になって彼のレコード(SP盤)がノイズを取り除いた状態で復刻されCDとして発売もされたそうです。(そういえば、当時のアメリカを舞台にした映画を良く見ると、けっこうカルーソーの歌が聞かれます)

<イタリア系移民>
 イタリア系の移民は、カルーソーと同じように1900年代初頭が多く、1880年〜1920年代に入国した400万人というイタリア系移民の数は全体のイタリア系移民の8割以上といわれています。またその時期にアメリカに渡った移民の多くは、あの「ゴッドファーザー」の主人公ビトー・コルレオーネのようにシチリアや南部イタリアのナポリ周辺の貧しい農民たちがほとんどでした。
 イタリアは今も昔も南北の経済格差が大きく、そこから逃れるようにしてアメリカに渡った人々は、同じイタリア系で先に移民していた北部の富裕層やアイリッシュ、WASP(イギリス系の白人)の移民たちから差別されていました。(その後、その差別意識は奴隷解放によって社会に進出し始めた黒人たちに向けられることになります)当然、仕事の口も限られ、アメリカの白人の中では最下層に位置していたといえます。だからこそ、彼らは成功への近道としてマフィアの一員となるかスポーツや芸能の世界での活躍を目指すことになったわけです。
 例えば、初期のボクシング界の世界チャンピオンの多くは黒人ではなくアイルランド系とイタリア系でした。(黒人は挑戦する機会すらありませんでした)力道山とプロレスラーとして戦った「動くアルプス」ことプリモ・カルネラは元世界ヘビー級チャンピオンでしたし、あの無敗のまま引退した伝説の世界チャンピオン、ロッキー・マルシアノもイタリア系、そしてその伝統を受け継いだのが「イタリアの種馬」こと「ロッキー」・バルボアだったわけです。
 芸能界では、マフィアを使って後に映画界に進出したといわれるフランク・シナトラを筆頭に、トニー・ベネット、ペリー・コモ、ヘンリー・マンシーニ、ポール・アンカ、フォーシーズンズあたりのポップス界はイタリア系の全盛時代でした。(最近では、なんといってもマドンナでしょう)
 こうしたイタリア系たちにとって、最初のアイドルであり人生の目標のひとつが、エンリコ・カルーソーだったわけです。
 彼はイタリア語のオペラは当然イタリア語で歌っていましたが、英語の歌を歌うときはものすごいイタリア語訛りだったそうで、それがまたイタリア系移民たちに受けたのかもしれません。

<その後のガイズバーグ氏>
 ところで、最初にカルーソーの歌を録音したグラモフォンのプロデューサー、ガイズバーグ氏は、この翌年なんと日本を訪れています。彼は録音機材一式を持って来日し、日本で落語、能、雅楽など日本の芸能・文化の録音を行いました。もちろんこの時の録音こそ、日本における音楽の歴史において最も古い記録となりました。彼のようなプロデューサーは未知の音源を求めて世界各地を旅する冒険家でもあったのです。
 1900年にグラモフォン社が配布したカタログには、世界各地の言語圏のソフト(インドやアラブ圏)も含めて5000枚のレコードが載っていました。ガイズバーグ氏のような人物が何人も録音機を持って世界各地を巡ったのでしょう。彼らの成果は重要な音の記録として、その価値は今後も増すことでしょう。
 誰も聞いたことのない音を探す旅。もしかすると、これほどロマンチックな冒険は今では存在しないかもしれません。ネットで出会う音楽より、レコード店の視聴機で出会う音楽より、ラジオで偶然出会う音楽より、音源の故郷で聞く本物の音との一期一会の出会いの方が魅力的に決まっています。ガイズバーグ氏はどんな思いでその仕事を行っていたのか?ちょっと気になります。彼の日記があれば是非覗いてみたい、そんな気がします。

「歌劇王カルーソー」 The Great Caruso  1951年 
(監)リチャード・ソープ(アメリカ)
(製)ジョー・パスターナク(脚)ソニア・レヴィン、ウィリアム・ルドウィグ(撮)ジョセフ・レッタンバーグ(編)ジーン・ルッジェーロ
(美)セドリック・ギボンズ(衣)ヘレン・ローズ、ジャイル・スティール(装)エドウィン・B・ウィリス(音)ジョニー・グリーン
(録)ダグラス・シアラー(アカデミー録音賞
(出)マリオ・ランツァ、アン・プライス、ドロシー・カーステン、ヤルミラ・ノヴォトナ、ルートヴィッヒ・ドナート、エドワード・フランツ 
<あらすじ>
イタリアで歌手として小銭を稼いでいたカルーソーは、オペラ劇場の関係者に声の良さを認められてオペラ歌手になります。
イタリアでの成功を経て、英国、アメリカへと進出。ついには世界ツアーにも出てオペラ界最高のスターとなります。
アメリカで名家の令嬢と恋に落ちますが、父親は二人の結婚を許しません。
<使用曲>
「アイーダ」(ジュゼッペ・ヴェルディ)
「トスカ」(ジャコモ・プッチーニ)
「カヴァレリア・ルスティカーナ」(ピエトロ・マスカーニ)
「ラ・ジョコンダ」(アミルカレ・ヴォンキエッリ) 
「リゴレット」(ジュゼッペ・ヴェルディ)
「ラ・ボエーム」(ジャコモ・プッチーニ)
「イル・トロバトーレ」(ジュゼッペ・ヴェルディ)
「ランメルモールのルチア」(ガエターノ・ドニゼッティ)他
主演のマリオ・ランツァはオペラ歌手を目指していた歌手・俳優でこの作品が代表作となりました。
彼自身がカルーソーのようにオペラ界で評価を受けることができずに挫折した歌手でした。
薬物とアルコールに溺れ、暴飲暴食もあり身体を壊し、38歳の若さで死去。
この作品は、カルーソーとマリオの人生が交錯する不思議な映画となっています。
そう考えると、なおさら魅力的に感じられる異色のオペラ映画です。
本物のカルーソーは喉頭がんの手術後も活躍しますが、やはり48歳の若さでこの世を去りました。
映画はカルーソーの奥さんが書いた伝記に基づいていますが、かなり脚色されているようです。
ストーリーよりも、それぞれの歌を長めに聞かせる演出はこの作品では有効でした。
途中には鼻で薬物?を吸引するシーン。レコードの録音を行うシーンなど気になる映像もありました。

<1902年の出来事>
日英同盟成立
キューバがアメリカ合衆国から独立
シベリア鉄道完成
ブーア戦争終結、トランスバール共和国、オレンジ自由国が英国植民地となる
ルドルフ・シュタイナーが神智学協会ドイツ支部長に就任
八甲田山で青森第五連隊が吹雪で遭難

<音楽>
ドビュッシーによるオペラ「ペレアスとメリザンド」発表される(ワグナーが完成したオペラに対し、新しいスタイルを提案し一躍人気者となる)
「ビル・ベイリー、家へ戻ってくれないか」デキシーランド・ジャズのスタンダードとなる

<映画>
「月世界旅行」(奇術師ジョルジュ・メリエスによる世界初のSF&SFX映画)(仏)
「キリストの生誕」公開

<文学>
「どん底」マキシム・ゴーリキー著(露)
「ピーター・ラビットの話」ビアトリクス・ポター著(英)


<美術>
「月光に照らされたサン=ラザールの女」パブロ・ピカソ(「青の時代」の傑作)
<時代を変えたモノ>
チャールズ・レニー・マッキントッシュが「ヒルハウス・チェア」を製作(英)

<1902年という年>
「イギリスが『光栄ある孤立』を捨てて、初めて外国と同盟を結んだ・・・つまり、『太陽が没することのない帝国』にも、もうそろそろ安閑としていられなくなる時代がやって来ていたということですね。・・・」
橋本治著 「二十世紀」より

<1902年の物故者>
正岡子規(俳人、歌人)
エミール・ゾラ(ガス中毒死)(仏)
リーヴァイ・ストラウス(リーヴァイス創業者)(米)

20世紀年代記(前半)へ   トップページへ