1903年

- アーヴィング・バーリン、ジェローム・カーン Irving Berlin,Jerome Kern -

<ソング・プラガー>
 この年、ニューヨーク・ヘラルド誌の記者モンロー・ローゼンフェルドという人物が活況を呈していた音楽業界の中心地、ニューヨーク西28丁目、5番街とブロードウェイの間の地域を取材して回りました。その界隈の通り沿いにはいつの間にか数多くの楽曲出版業者が集まり、ブロードウェイなどにある劇場で公演されるミュージカルの曲やボードヴィルでヒットしている曲の楽譜を販売していました。
 なぜ楽譜販売が活況を呈していたのかというと、当時はまだレコードが登場したばかりで一般にはほとんど普及しておらず、音楽を売るということは、楽譜を売ることと同義だったからです。しかし、多くの人は楽譜を読むことができず、まして楽譜を見ただけでその曲の良し悪しを判断できる人など、ほとんどいませんでした。そのため、多くの楽譜販売店にはお抱えのピアニスト兼歌手がいて、彼らが店頭でその店お薦めの曲を演奏し歌うことで販売促進活動を行っていました。そうしたピアニスト兼歌手は「ソング・プラガー」と呼ばれ、彼らが他の店に負けじとピアノを叩きまくる音が、街中に響き渡っていたそうです。
 そんな賑やかなピアノの音を聴きながら取材を行った記者のモンローは、記事の中でその通りのことを「ティン・パン・アリー(ティン・パン通り)」と称しました。もちろん「ティン」「パン」とは、ピアノの鍵盤を叩く音のことです。

<ソング・プラガーからの転進>
 ティン・パン・アリーの楽譜販売店で雇われたソング・プラガーは、ただ店頭でピアノを弾くことだけが仕事ではありませんでした。彼らは自分の店で売っている楽譜の曲を流行らせるためにあの手この手のプロモーション活動も行っていました。例えば、ボードヴィルやブロードウェイの歌い手たちに袖の下を渡して、舞台の合間にその曲を歌ってもらったりもしました。さらには、同僚や友人たちと連れ立って劇場や盛り場を歩き回り、自分たちの押す曲がかかると大きな拍手をし口笛を吹いたり大騒ぎをしたりしました。そして、もっとお金を稼ごうと思ったら、自分自身で作曲して売った方が効率が良いことに気づく者も現れました。実際、ティン・パン・アリーでソング・プラガーとしてそのキャリアをスタートさせ、その後大物作曲家へと出世していった作曲家は数多くいます。
 「ラプソディー・イン・ブルー」や「ポーギーとベス」などで有名な作曲家ジョージ・ガーシュインもそうした経歴の持ち主でした。なんと彼は弱冠15歳という若さで、有名楽譜販売店のひとつレミック商会の入社試験に合格し、そこで働き始めました。その後、彼はニューヨークで活躍する黒人ラグタイム・ピアニストたちのテクニックを学びながら一流のピアニストになり、しだいに自ら作曲を手がけることになってゆきました。

<ポピュラー音楽発信の中心地>
 レコードがまだあまり普及していなかったこの時代、音楽情報の発信地でありヒット曲の生まれる場所だったのは、ボードヴィル・ショーやミュージカル、レビューの会場であり、それらの場所で働く作曲家こそがアメリカのポピュラー音楽をリードしていました。(黒人音楽の世界はまた別であり、その勢力はまだアメリカ国内のごく一部の範囲だけにとどまっていました)そして、そんな作曲家たちの中には、ガーシュインに匹敵する大物もいました。

<アーヴィング・バーリン>
 ミュージカルの作曲家として、数多くのスタンダード・ナンバーの作者としても有名なアーヴィング・バーリンIrving Berlinは、1888年5月11日、ロシアのシベリアにある小さな村テムンで生まれました。彼の本名はイスラエル・バリーン Israel Balineといい、ユダヤ系の家柄でした。田舎の貧しい生活から脱するため、家族は彼が物心がつく前にアメリカに移住し、ニューヨークで生活を始めました。彼がまだ8歳の時、父親が亡くなってしまったため生活は常に苦しく、14歳の時に彼は家を出て酒場で働き始めました。そこで彼は働きながらピアノを独学で学び、音楽の基礎も少しずつ身につけてゆきました。当時のカフェでは、お客から歌のリクエストがあると、それをその場で歌ってみせるシンギング・ウェイターという職があり、彼はその仕事をしながら曲を作り始め、ハリー・フォン・ティルツァー出版社ではソング・プラガーとして働きました。
 彼の初出版作品は1907年の「明るいイタリアから来たマリー Marie from Sunny」で、その後1911年に発表した当時流行のラグタイムを取り入れた曲「アレクサンダーズ・ラグタイム・バンド Alexander's Ragtime Band」が大ヒットして、彼は一躍人気作曲家の仲間入りを果たしました。
 その後も彼はミュージカル、レビュー、映画のための曲を1000曲以上書き、ガーシュインは彼のことを「アメリカのシューベルト」と呼んだといわれています。彼の代表曲は他に「Easter Parade」(1933年)、「ショウほど素敵な商売はない」(1946年「アニーよ銃をとれ」より)、「Cheek To Cheek」(1936年「Top Hat」より)、「This Year's Kiss」(1939年「陽気な街」より)、「ホワイト・クリスマス」(1942年「スイング・ホテル Holiday Inn」より)、「ブルー・スカイ Blue Skies」(1926年)、「God Bless America アメリカに祝福あれ」(1936年)など、数々のスタンダード・ナンバーがあります。特に、ビング・クロスビーの歌でクリスマスを代表する超スタンダード・ナンバーとなった「ホワイト・クリスマス」は、ビートルズの「イエスタデイ」にレコード販売枚数で抜かれるまで20世紀最大のヒットとして君臨していた永遠の名曲です。

<ジェローム・カーン>
 アーヴィング・バーリンがシベリア生まれで貧しい暮らしから這い上がった苦労の人だとすれば、ジェローム・カーン Jerome Kernはそれとは対照的な存在でした。1885年1月27日、彼はニューヨークで生まれました。ピアニストだった母親からピアノを学んだ彼は早くから才能を開花させ、ニューヨーク音楽教育を受けたにも関わらず、彼はクラシック音楽の世界へは進まず、ハーレム音楽出版でソング・プラガーとして働きながら作曲をするようになりました。
 ヨーロッパで教育を受けた彼の作る曲には気品があり、ラグタイムが中心だった当時のポピュラー音楽の世界に高い音楽性を持ち込んだといわれています。そんな彼の代表作は、なんといってもミュージカル「ショウ・ボート」(1927年)の音楽でしょう。その中で歌われた「オールマン・リバー Ol'Man River」は、後に黒人歌手ポール・ロブソンの名唱により大ヒットし、歴史的名曲として未だに歌い継がれています。
 その他、彼の代表曲をあげると、「煙が目にしみる Smoke Get In Your Eye」(1933年「ロバータ」より)、「君は我がすべて All The Things You Are」(1939年「5月にしては暑すぎる」)、「今宵の君は The Way You Look Tonight」(1936年「有頂天時代」より)、「パリの思い出 The Last Time I Saw Paris」(1941年「レディー・ビー・グッド」アカデミー主題歌賞受賞)などがあります。

<ティン・パン・アリーが育てた人々>
 この後も多くの作曲家がティン・パン・アリーの楽曲出版社からスタートして一流の作曲家やミュージシャンになってゆくことになります。こうした状況は1960年代頃まで続くことになりますが、その後はシンガー・ソング・ライターの登場やミュージシャン自らが作曲することが当たり前になる中で、しだいにその役目は小さくなってゆきます。こうした、ティン・パン・アリーの伝統を受け継いだ最後の黄金世代は、たぶんキャロル・キング&ジェリー・ゴフィンやバリー・マン、ニール・セダカ、ハワード・グリーンフィールド、シンシア・ウェイル(作詞家)などでしょう。そして彼らが所属していた名門のアルドン社は、白人歌手が歌うポップスだけでなく、黒人歌手のR&Bナンバーまでも手がけることで、黒人音楽のポップス界進出の先駆けとなりました。多くの白人たちは黒人アーティストが歌う名曲の数々を白人が作曲しているとは知りませんでした。(シレルズの「Will You Love Me Tomorrow」やリトル・エヴァの「ロコモーション」など)

<おまけ>
 かつて「はっぴいえんど」の細野晴臣、鈴木茂、小坂忠のバンド「フォージョ・ハーフ」の林立夫、松任谷正隆の4人が「キャラメル・ママ」というバンドを作っていましたが、彼らが中心となってさらに大きな枠組みで作られたユニットの名が「ティン・パン・アリー」と呼ばれていました。

<1903年の出来事>
パナマ運河地帯の永久租借権をアメリカが獲得
フォード自動車設立
社会民主労働党がボルシェビキ、メンシェビキに分裂(露)
イギリスによるペルシャ湾の管理宣言
イギリスの遠征隊がチベットのラサを占領
ツールド・フランスの第一回大会開催される
幸徳秋水らが平民社を設立、「平民新聞」創刊

<音楽>
イタリアのテノール歌手エンリコ・カルーソーがNYのメトロポリタン劇場に出演
彼の初レコード「道化師」が世界初のミリオン・セラーとなる
グラモフォン社のフレッド・ガイズバーグが日本で初のレコード録音を行う(落語、雅楽、能など)

<映画>
「大列車強盗」(監)エドウィン・S・ポーター(世界初の娯楽犯罪アクション映画)
日本初、映画専門の劇場として浅草・電気館オープン

<文学、思想など>
「荒野の呼び声 The Call of the Wild」 ジャック・ロンドン(米)
「トニオ・クレーゲル Tonio Kroger」 トーマス・マン(独)
「桜の園」 アントン・パブロヴィチ・チェーホフ(露)


<美術>
岡倉天心「東洋の理想」が発行され欧米でのジャポニズム・ブームを後押しする
日本における「洋画の父」浅井忠が京都の図案家、陶芸家と図案研究会を設立し、陶器用図案を考察
(アール・ヌーボー様式を取り入れた新しいスタイルを模索)
夏目漱石が英国留学から帰国

<時代を変えたモノ、発明>
ライト兄弟が初飛行に成功(米)

<1903年という年>
「二十世紀になって発明されたものは、そんなにもない。飛行機とラジオ、テレビと原子爆弾ぐらいで、あらかたのものがもう十九世紀に発明され、想像され、完成してしまっているのである。・・・二十世紀のしたことは、この前世紀の成果を利用して、ただ普及させるだけだった。・・・」
橋本治著「二十世紀」より

<1903年の物故者>
ジョージ・ガブリエル・ストークス(数学者)
ハーバート・スペンサー(英国の哲学者、社会学者)
バーナード・ショー
ポール・ゴーギャン(画家)

尾崎紅葉(小説家、「金色夜叉」の作者)
滝廉太郎(作曲家)

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