1904年

- ジャコモ・プッチーニ Giacomo Antonio Puccini -

<蝶々夫人>
 この年、イタリアが生んだ最後のオペラ作家ともいわれるジャコモ・プッチーニが日本の長崎を舞台にした異色のオペラ「蝶々夫人」を発表しました。今でこそ、、プッチーニの最高傑作といわれ、「ある晴れた日に」などのスタンダード・ナンバーを生んだ誰もが知っている有名なオペラですが、実はその初演の反応はあまり良いものではなかったそうです。それにはいくつかの理由があげられます。
 初演に向けて準備された曲のオーケストレーションにプッチーニがほとんど関わらなかったたため、そのできが不十分だったという説。これは、その後編曲が少しずつ変えられてゆくことで改善され、現在の形に至ることになります。もうひとつ、初演の時、プッチーニが張り切りすぎたのかこのオペラは長い長い超大作となっていました。一幕目だけで1時間半を越えていたといいます。観客の多くは、その長さにうんざりしてしまったというのです。
 そして、もうひとつ重要なのは、1900年のパリ万博をきっかけにヨーロッパでは日本ブームが起きていたものの、ほとんどの西欧人は日本についての知識を持っていませんでした。そのため、日本を舞台にした異文化コミュニケーション・ドラマに感情移入することができなかったのではないかという説です。考えてみると、映画「ロスト・イン・トランスレーション」の100年前に作られた作品なのです。良くぞ、作ったものだと思います。
 実際、プッチーニはこの作品を作るために、本格的に日本について勉強したということです。1900年のパリ万博で一大ブームを巻き起こした川上音二郎一座の看板スター貞奴にも取材を行ったということで、彼自身が日本の文化にはまっていたことは間違いなさそうです。もちろん蝶々夫人の姿は典型的な「芸者ガール」のように描かれていたかもしれませんが、それでもまだほとんど未知の存在だった日本人を魅力的な人間として描いたことは画期的なことでした。

<蝶々夫人のモデル>
 ちなみに、この「蝶々夫人」のモデルは、長崎で大物武器商人として一世を風靡したアメリカ人トーマス・グラバーとその妻ツルではないだろうかといわれています。フリーメイソンとのつながりが深かったといわれるこの謎の人物は、日本の近代化を裏から支え、外国人として初めて勲章をもらった人物となりました。最後は日本で亡くなりましたが、ツルとの間に子供ももうけています。二人の話を知ったアメリカ人作家ジョン・ルーサー・ロンゲは、さっそくそれを1897年に戯曲化。プッチーニはこの芝居をロンドンで見てオペラ化を思い立ったといわれています。
<ラスト・オペラ・ヒーロー>
 「ラスト・オペラ・ヒーロー」ともいわれるプッチーニ、彼の残したオペラは「蝶々夫人」だけでなく「ラ・ボエーム」、「ジャンニ・スキッキ」、「トスカ」など数多くありますが、その中からは「私のお父さん」や「誰も寝てはならぬ」など、数多くのアリアがポピュラー音楽としてヒットしています。それらの曲は、今ではスタンダード・ナンバーとしてCMや映画などで使用されることでビートルズやスティービー・ワンダーのヒット曲と同じように時代の壁を越えています。(「アリア」とは、オペラの中で使用されている挿入歌のこと)
 そんなプッチーニの曲を用いた映画の中でも特に有名な作品は、なんといってもシェール主演の「月の輝く夜に」でしょう。監督はノーマン・ジェイソン(この作品でベルリン映画祭監督賞を受賞しています)で、主演のシェール、助演のオリンピア・デュカキス、脚本家のジョン・パトリック・シャンレーがそれぞれアカデミー賞を受賞している傑作です。イタリア系のアメリカ人青年(ニコラス・ケイジ)と年上の女性(シェール)の情熱的な恋を盛り上げるのに、プッチーニのアリアほどぴったりの曲はなかったでしょう。数多くのオペラがあっても、これほど現代に生きている作品はそうはありません。それは彼が20世紀に生きた同時代の作家である証なのかもしれません。20世紀に生きたオペラ作家、プッチーニとはいかなる人物だったのでしょうか。

<ジャコモ・プッチーニ>
 ジャコモ・プッチーニ(Giacomo Antonio Domenico Michele Seconde Maria Puccini 長い!でも当時はこうして祖先の名前を延々とくっつけることが珍しくなかったそうです)は、1858年12月22日、イタリアのルッカで生まれました。彼の家は18世紀から続く宗教音楽家の家系で、彼もまたその道を歩むよう期待されていました。当然、そのための音楽教育を受けていた彼は教会のオルガニストとして働き出しますが、ジョゼッペ・ヴェルディのオペラ「アイーダ」を見てオペラ作家に憧れるようになります。彼は、5歳の時に父親を失っていたこともあり、自らの決断で宗教音楽家への道を離れ、1880年に宗教音楽「グローリア・ミサ」を作曲したのを最後に、オペラの道を歩み始めたのでした。
 ミラノ音楽院にてアミルカーレ・ポンキエッリとアントーニオ・バッジーニに学んだ後、1882年楽譜出版社ソンツォーニョ主催のオペラ・コンクールに処女作品「妖精ヴィリー」を発表した彼は、賞こそ取れなかったものの、別の出版社から作曲依頼を受けることになりました。
 こうして、1889年、彼の第二作目となるオペラ「エドガー」が発表されました。その後の彼は一躍人気作家として活躍を続けることになりました。こうして、「マノン・レスコー」(1893年)、「ラ・ボエーム」(1896年)、「トスカ」(1900年)と大ヒットが続き、「トスカ」からは「歌に生き、恋に生き」や「星は光りぬ」などのヒット・アリアも生まれています。

<不幸の始まり>
 彼の人生は幸福ばかりが続いたわけではありませんでした。新し物好きの彼は当時、登場したばかりの自動車を購入。それを乗り回している時、事故を起こしてしまい、脚を骨折してしまいます。さらには、妻のエルヴィラに浮気を疑われ、その相手と思われていた女中が謎の死をとげるという事件が起きてしまいます。なんとこの事件では、妻が殺人の嫌疑をかけられるというスキャンダルに見舞われてしまいました。とはいっても、もとはといえば、この事件は彼が次から次へと周りの女性に手を出していたことが原因だったようです。実は、彼の妻エルヴィラも人妻で、彼がピアノの個人レッスンを行ったことがきっかけで愛し合うようになった不倫の関係でした。そのため、二人は家を追い出されることになり、籍を入れないまま長く同棲生活を続けました。そんなこともあり、プッチーニの浮気性を知るエルヴィラは病的なまでにプッチーニを独占しようと、あらゆる手を使って彼の周りから女たちを追い払おうとし続けていたのでした。
 この事件の後、それまで多作家だったはずの彼の作品の数は急に減り始めます。
 それでも1918年には三部作「外套」、「修道女アンジェリカ」、「ジャンニ・スキッキ」を発表。その中の「ジャンニ・スキッキ」からは「私のお父さん」などのヒット・アリアが誕生。時代を越えたスタンダード・ナンバーとなります。
 1924年11月29日、66歳となった彼は喉頭癌のため、ベルギーのブリュッセルで死亡しました。癌という現代的な病による死もまた20世紀が生んだ作家らしい死に方だったのかもしれません。ただし彼は、その死の直前まで「愛」を求め続けていたといいます。なんとフランスの有名な回春治療医に、そのための手術をしてもらう予定だったというのです。
 彼の遺作となったオペラ「トゥーラン・ドット」(1926年)には「無調」という新しい概念をクラシックに持ち込んだ作曲家アルノルト・シェーンベルクの影響も見られるといわれています。ポップでお涙頂戴的な曲つくりであると多くの同時代の批評家が彼の作品を批判する傾向がありましたが、彼は当時生まれつつあった現代音楽という新しい音楽の流れについても勉強を怠っていなかったようです。

<オペラの歴史とプッチーニ>
 オペラとは、16世紀末にイタリアのフィレンツェで貴族やインテリ層の人々が古代ギリシャで行われていたとされる演劇を復活させようと始めたものです。それは舞台上で出演者たちが独唱を行って、すべての台詞を歌にした音楽劇から始まりました。その意味でオペラは最もイタリアらしい芸術のひとつといえます。
 プッチーニは音楽史の中ではオペラの歴史における最後の英雄であり、20世紀という時代に遅れてやってきた過去の人だったともいえます。しかし、宗教音楽という「聖なる世界」から大衆のためのオペラという「俗なる世界」へ転身した作曲家という面では、20世紀最初のポピュラー音楽作家だったといえるかもしれません。少なくとも、彼が生み出した美しくも悲しいメロディーの数々は、未だにポピュラー音楽として十分に通じているのです。
 聖から俗への転身を決意した時点で、彼はきっと誰よりも人々の心を打つ曲を作る作曲家になろうと決意したのではないでしょうか。だからこそ、周りに安っぽいメロディーと言われようが、売れ線狙いと言われようがお構いなしにヒット曲を連発したのだと思うのです。
 セックス・スキャンダルの絶えなかった彼の生活は、ちょうど同じ時期にアメリカでブルース・ミュージシャンたちが歌っていた「愛と憎しみ」、「聖と俗」の物語、そのままのように思えます。国が違えど、やはり音楽における最大のテーマは「愛」なのです。

<1904年の出来事>
アメリカによるパナマ運河工事始まる
英仏協商成立、仏伊協商成立
モロッコがフランス領となる
日露戦争(日本海軍が旅順のロシア艦隊を攻撃、12月には二百三高地を占領)
オランダ領東インド成立(東南アジアの植民地化進む)
セントルイス万博、夏季オリンピックも同時開催
「株式会社 三越呉服店」開店(デパート誕生)
国際サッカー連盟(FIFA)発足

<音楽>
オペラ「蝶々夫人」ジャコモ・プッチーニ(イタリア・ミラノのスカラ座にて)
音楽劇「リトル・ジョニー・ジョーンズ」ジョージ・コーハン作(オペラとは異なる現代ミュージカルの原点)
ニューヨークでハワイアン・レヴュー「楽園の小鳥」がヒット
イサドラ・ダンカン、ヨーロッパに渡り、ドイツでバレエ学校設立

<文学、思想>
「ジャン・クリストフ」ロマン・ロラン
「金色の盃」ヘンリー・ジェームス
幸徳秋水が「平民新聞」を創刊
「君死にたもうことなかれ」与謝野晶子


<世界を変えた発明、モノ>
アイスクリーム・コーン、ハンバーガーがセントルイス万博に登場

<1904年の物故者>
アントニン・ドヴォルザーク(作曲家)
アントン・チェーホフ(小説家、劇作家)
エミール・ガレ(ガラス工芸家)
ヘンリー・モートン・スタンリー(探検家)
小泉八雲(作家、随筆家)
乃木勝典(軍人)

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