1905年

- アインシュタイン、ボーア、ハイゼンベルクなど物理学の英雄たち -

<世界を変えた三つの論文>
 この年、スイスのベルンで特許局に勤めていた青年アインシュタインが物理学についての論文を五つ発表しました。当初、有名な学者でもなく、まして大学の研究者でもない無名の下級役人が発表したその論文に注目する人はいませんでした。しかし、その論文の衝撃的な内容はしだいに明らかになり、そのうちの三つはその後の世界を変えるほどの影響力をもつことになります。それも彼が生きている間に・・・。後にこの年は物理学における「奇蹟の年」と呼ばれることになります。
 ではその三つの論文はどんな内容だったのでしょうか?

<光電効果>
 一つめは「光電効果」と呼ばれる現象についてのものでした。ある金属に光を当てると、そこから電子が放出されます。しかし、より明るい光を当てることで放出される電子は増えるのに、その電子一個のもつエネルギーは変わらないということがわかっていました。
 強い光を当てれば、強いエネルギーをもつ電子が放出されてよいはずではないか?これがそれまでの古典物理学では説明できなかったのです。これについて、アインシュタインは、光はそれぞれの波長に特有な一定のエネルギーをもつ量子からできている。その光が金属に当たって吸収されるとやはり一定のエネルギーをもつ電子が放出されることになる。(光の波長が短いほど、そのエネルギーは大きくなる)この考え方によって、光はある種の粒子であるということが証明されました。このことは、この後展開されてゆくことになる量子力学の世界に大きな争点を与えることになりました。
 この論文はその後しだいに理解されることになり、1921年ノーベル物理学賞を彼にもたらすことになります。

<ブラウン運動>
 二つめはブラウン運動についてのものです。水中に浮かぶ物体には、水の分子が常に四方から衝突を繰り返しています。しかし、その物体が大きければぶつかる分子の数も多く、全方向からまんべんなく受けることからその影響は無視できる程度になります。
 逆に花粉のように小さく軽い物体になると分子の衝突によって、あっちへこっちへと弾き飛ばされるという現象が起きるわけです。(これをブラウン運動と呼びます)アインシュタインは、この運動を初めて数式化し、この運動の原因が分子の衝突によるものであることを証明したのです。
 この公式が生まれて3年後フランスの物理学者ペランはブラウン運動の実験を行い、その結果とアインシュタインの公式を用いることで初めて原子の大きさを算出することに成功します。これによって、物質を構成する最小要素が原子であるということがついに証明されることになったわけです。
 上記二つの理論は、量子力学の根本として、どちらも重要なものでしたが、基本的にはそれまで説明できなかった現象を理論的に明らかにしたものでした。
 しかし、三つめの論文「特殊相対性理論」はそれらをはるかに越える衝撃的な内容でした。なぜなら、その理論はそれまで人類が考えていた宇宙のあり方を根本的に覆すものであり、そこからは、まだSF小説でしか描かれていなかった時間旅行や宇宙旅行についての新しい考え方も見えてくるという画期的なものだったのです。

<特殊相対性理論>
 この理論が証明してみせたのは、「自然界において、絶対不変のもの、それは光の速度であり、それ以外はみな相対的な存在にすぎない」ということです。実は光速度の不変性は、すでに1880年代アメリカの物理学者アルバート・マイケルソンとエドワード・モーリーによって証明されていました。それは地球の公転進行方向と垂直方向に光を放った時、光の速度が公転の影響によって変わることを観測しようと試みたものの、まったく同じだったことから明らかになったのです。(マイケルソンはこの実験結果があってもなお、自らは相対性理論を認めようとしませんでした)
 アインシュタインは、この事実が導き出す驚くべき仮説を理論によって、見事解き明かしてみせたのです。光が地球の回転速度の影響を受けないとは、いったいどういうことか?もし、光の速度に近いスピードをもつ宇宙船が地球を離れながら光を放ったらどういうことになるでしょう。常識的に考えて、宇宙船が後ろ向きに放った光は地球になかなか届かないはずです。それは光の速度と宇宙船の速度がお互いにうち消し合ってしまうからです。しかし、現実にはそうはなりませんでした。だからこそ、光のスピードは絶対的なものであると言えるのです。
 では、光が変わらない時間で届くと言うことはどういうことでしょうか?それは、宇宙船にとっての時間が遅くなったということなのです。宇宙船の乗組員にとっては、確かに光はゆっくり進んでいるということになり、地球からは普通に届いたように見えるのです。さらに、もし、宇宙船が光速に達したとすると、時間の流れは止まったことになります。しかし、光速を越えることが出来ない限り、時間の壁を越えることもまた不可能なことになります。
 結論としては、映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」はありえないということになるのですが、理解していただけましたか?

<紙と鉛筆から生まれた理論>
 こうして無名の研究者アインシュタインは突然世界をあっと言わせる理論を世に出したわけですが、驚くべきなのは彼がこれらの理論を紙と鉛筆だけで作り上げたということです。しかし、当時の物理学は、基本的に理論物理学が中心で、それぞれの学者たちはコンピューターではなく自分の頭脳によって理論を構築していました。そのため、人それぞれのもつ美学が理論にも反映されていることはごく当たり前でした。
 アインシュタインはまさにその典型で、宇宙のすべてを理論的に表わすことのできる統一場理論の存在を信じ、その構築こそが彼の人生における最大の目標となっていました。後にニールス・ボーアらによって生み出される量子力学が宇宙を描写するにあたり確率論というある種あいまいな概念を導入しますが、そのことをアインシュタインは認める気になれませんでした。
「神はダイスをもてあそばない」と言ったのは、こうした考え方に対してでした。偶然性というあいまいなものを宇宙の理論に導入するなど、彼の美学ではありえなかったのです。
 しかし、ニールス・ボーア率いるゲッチンゲンの研究者たちにとって、宇宙の構築に偶然性が関わるということはけっして非論理的なことではありませんでした。彼らは自然をありのままに受け入れ、それを解釈することを良しとしており、それが完璧であることを求めたりはしていませんでした。

「われわれが観測しているのは自然そのものではなく、われわれの探求方法に映し出された自然の姿だ」
ウェルナー・ハイゼンベルク(1932年ノーベル物理学賞受賞)
 しかし、数式によって宇宙を記述する彼らにとって、その数式は美学そのものであり、それは完璧であべきるものだったのも事実です。

「式が実験と一致することより、式に美しさのあることの方が重要だ」
ポール・ディラック(1933年ノーベル物理学賞受賞)
 こうした物理学者たちの考え方は、物理学者以外の世界にも影響を与えるものでした。例えば、19世紀末の画家で点描法という独自の画法を編み出したスーラは、自らの画法を編み出すために有名なヘルムホルツの光学理論を学び、それを応用していました。彼は自らの絵について、こう述べています。
「わたしの作品には詩があるという。とんでもない。わたしは自分の手法を使う、ただそれだけのことだ」

科学史研究の第一人者C.C.ギリスピーは名著「科学思想の歴史」の中でこう書いています。
「物理学とは、実在が観察されるのとは別個に、思索によって実在を概念的に把握する試みである」
 この言葉のとおり、当時の物理学者たちは実験とは別に頭の中に宇宙のイメージを構築することに、その人生を捧げていたのです。それは、理論から何か新しいエネルギーや物質を生み出すことよりも、世界のより完璧な枠組みを見つけ出すことにこそあったのです。

<美学から事業へ>
 1905年、アインシュタインが特殊相対性理論を発表した年、物理学は巨額な研究費など必要としない純粋な学問であり、それ以上に宇宙の姿を描き出す美しい数式を探求するわくわくするような頭の中の冒険でした。実際、アインシュタインは「特殊相対性理論」を紙と鉛筆だけで考え出したのです。それは世界の神秘を自らの生み出した理論で描き出す、究極の美学だったのです。
 しかし、その後の量子力学の発展によって、アインシュタインやボーアらは原子爆弾の誕生を目にすることになります。彼らはその時、自らの求めた美学が人類絶滅の危機を生み出したことに衝撃を受けることになりました。残念ながら21世紀の物理学はすでにアインシュタインらが目指した美学の追求とは無縁の存在になっていたのです。それは巨額の研究費用と国家を挙げての体制を必要とする一大プロジェクトとなり、当然投入した金額に見合う利益が求められる経済と一体化した研究開発事業になっていたのです。


<1905年の出来事>
「血の日曜日事件」発生、モスクワ市民の武装蜂起など各地で暴動が起きる(露)
戦艦ポチョムキンにて暴動が発生(露)
5月に始まった日露戦争が集結。ポーツマス条約により日本はロシアより南樺太を獲得
シベリア鉄道開通
アイルランドの完全独立を目指す組織。シンフェン団設立
ノルウェーがスウェーデンから独立
アルゼンチンでサッカー・チームの名門、ボカ・ジュニアーズ結成

<音楽>
「メリー・ウィドー」(オペレッタ)
「ブロードウェイによろしく」「ヤンキー・ドゥードゥル・ボーイ」がヒット(ミュージカル「リトル・ジョニー・ジョーンズ」から)
「ネリー、陽がのぼるまで」ハリー・フォン・ティルツァー、アンドリュー・スターリング作
「エルチョクロ」 タンゴを代表する名曲
「戦友」(日)
両面円盤レコード登場

<絵画>
パリのサロン・ドートンヌにフォビスム(野獣派)の画家たちが登場
(アンリ・マティス、アンドレ・ドラン、モーリス・ド・ブラマンク・・・)
「緑のすじのあるマティス夫人像」アンリ・マティス
「シャトー近郊の風景」モーリス・ド・ブラマンク
ドイツのドレスデンでドイツ表現主義の若者たちが芸術家集団(ブリュッケ)結成
(エルンスト・キルヒナー、フリッツ・ブライル・・・)

<文学、哲学>
「認識と誤錨」エルンスト・マッハ
「海潮音」上田敏
「我輩は猫である」夏目漱石(連載開始)


<時代を変えたモノ>
ピッツバーグに5セント映画館(ニッケル・オデオン)誕生
シアーズ・ローバックの通販カタログ200万部突破

<1905年という年>
「国の大きさは、”結果”なのである。重要なのは、『大国になれるだけのノウハウを持っているかどうか』なのだ。近代化を達成した日本にはそれがあった。事実は、ただそれだけなのだ。それがないから、エジプトもトルコも中国もロシアも、負けたのだ」
「日本は勝って”加害者”になる。日露戦争は、そんな近代化の曲がり角だったのである」
橋本治「二十世紀」より

<1905年の物故者>
ジュール・ベルヌ(フランスのSF作家)
リヒト・ホーフェン(地理・地質学者)

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