1906年

- フォーヴィスムとブリュッケの画家たち -

<フォービスムとブリュッケ>
 20世紀に入り、芸術の世界は急激に国際化が進んでいました。それは直接的には交通手段の発達によって国と国の距離が近づいたことや情報伝達のスピードが増したおかげでしたが、芸術家自身が国境を越えて軽々と移動するようになったことの方が重要だったかもしれません。ワシーリー・カンディンスキーのようにロシア、ドイツ、フランスと移動しながら、それぞれの国で優れた実績を残した国際的アーティストはその代表的存在です。
 それぞれの国には独自の文化があり、絵画の世界においてもそれぞれ異なる特徴を持っていましたが、ちょうどこの頃、異なる二つの国から共通点の多い新たな芸術運動が同時発生していました。一つは、ドイツで生まれ後にドイツ表現主義と呼ばれることになる「ブリュッケ」グループによる芸術運動、もう一つはフランスで生まれ「フォーヴィスム」と呼ばれた野獣派たちの芸術運動です。

<ドイル表現主義>
 伝統的にフランスやイタリアのようなラテン民族の国では、芸術とは「美しく構成された秩序」ととらえられています。それに対し、ゲルマン民族の国ドイツでは、芸術とは「作者の魂を表現したもの」ととらえられていると言われます。こうした文化的伝統に、ゴッホやゴーギャンの鮮烈な色使いを加え、リアリズムとは異なる独自の宇宙を創造することがドイツ表現主義の特徴だったといえるでしょう。
 「ブリュッケ」の後に登場したドイツ表現主義グループ「青騎士」のひとりフランツ・マルクはこう言っています。
「伝統は美しい。しかし、美しいのは伝統を創ることであって、伝統に生きることではない」
 こうしたある種破壊的ともいえる芸術における方向性は、はるか後の1980年代にドイツが生んだ究極のパンク・バンド、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン Einsturzende Neubauten にまでつながっていると言えそうです。

<芸術家集団ブリュッケ>
 1905年、こうしたドイツ表現主義の最初のグループ「芸術家集団ブリュッケ」が誕生しました。「ブリュッケ」とはドイツ語で「橋」のことで、文字通り過去と未来をつなぐ架け橋となるための活動を展開しようとするグループでした。ただし、彼らは本職は画家ではなく建築を学ぶ学生たちでした。中心人物のエルンスト・キルヒナーとエーリッヒ・ヘッケル、カール・シュミット=ロットルフ、フリッツ・ブライルの4人は、その創立メンバーでした。これは、芸術における新たなジャンルの登場は、他のジャンルの人々それも若者たちによってもたらされるという典型的な例かもしれません。
 彼らを中心に動き出した「ブリュッケ」は、ドイツ国内だけでなくスイスや北欧でも巡回展を行い、積極的に自分たちの活動を国境を越えて発信してゆきます。こうした、グループによる新しい芸術活動は、それまでほとんどなかったものでした。彼らの絵画は一見すると、フランスの「フォーヴィスム」の作品群と似ていますが、個々の作品に対する芸術的価値はそう高くはないかもしれません。フォーヴィスムの作家たちに比べると、その知名度には大きな差があるのは確かです。
 しかし、世界で最初の前衛芸術運動を展開した彼らの活動は、それ自体が大がかりなパフォーマンスでもあり、その後登場する数々の芸術グループの原点ともなった偉大な作品だったとも考えられるでしょう。

<野獣派(フォーヴィスム)>
 「ブリュッケ」と同じ1905年にパリで開催された美術展「サロン・ドートンヌ」から誕生したとされるのが、フランスにおける新しい芸術運動「フォーヴィスム」です。しかし、同じような志をもって結成されたドイツの「ブリュッケ」と「フォーヴィスム」のグループは、元々はかなり異なる人間集団でした。この時、「フォーヴィスム(野獣派)」と名づけられることになった作家たちマティス、マルケ、ルオー、ヴラマンク、ドラン、ヴァン・ドンゲンらは、サロン主催者が同傾向の作品として一つの部屋に展示したグループに過ぎず、同志と呼べるほどつながりのあるグループではなかったのです。(もちろん、仲間同士の場合もありましたが・・・)
 たまたまこの部屋の作品群を見た批評家のルイ・ヴォークセルがそれらの作品群を「フォーヴ(野獣)」のようだと記述したことから、フォーヴィスムという言葉が誕生したのです。彼が書いた文章はこうでした。

「部屋の中央には、アルベール・マルケの子供のトルソ像がある。上半身だけを見せたこの像の素朴さあ、なまのままの色の狂演の真ん中にあって人目を驚かせる。それはフォーヴ(野獣)に囲まれたドナテルロだ・・・」

 実際には「フォーヴィスム」のグループは、三つぐらいに分けることができました。
一つ目は、アンリ・マティスやアルベール・マルケなど、当時の大物画家ギュスターヴ・モローの弟子だった画家たちがいます。このグループは正式な美術教育を受けた正統派の画家といえました。しかし、正統派の画家を育てていたといっても、自分自身一流の画家でもあったモローは、単なる絵画教師ではありませんでした。彼は芸術についてこう語っています。

「自然そのものは、大して重要ではない。それは、芸術表現のための単なる口実にすぎない。芸術とは、単純な造形性という手段による内部の感情の表現を徹底的に追及することにほかならない」
ギュスターヴ・モロー

 モローの弟子たちに対し、二つ目のグループはその対極ともいえる存在でした。特にその中心人物モーリス・ド・ヴラマンクは、見た目も気性もどちらも「野獣的」だったといわれています。競輪とボートの選手として若い頃活躍していたというだけに、彼の気性は誰よりも激しく、そのことが彼の絵画にも強く反映されていました。それどころか、彼自身自分と絵画の関係についてこう語っています。

「絵画は、私の内部から悪いものをしぼり出す腫瘍のようなものだ。絵画の才がなかったら、私は悪い方向に走ってしまっただろう・・・。社会的なコンテキストの中ではただ爆弾を投げることによってのみ達成できるようなことを、私はチューブからひねり出したままの純粋な色彩によって、芸術、ことに絵画の世界で表現しようと努めたのだ・・・」
モーリス・ド・ヴラマンク

 原色の絵画を大胆にキャンバスにたたきつけるフォーヴィスム独特の描き方が、もっとも似合うと思われるのも当然でしょう。彼に比べると、その友人であり、フォーヴィスムの代表的画家アンドレ・ドランは、その激しい作風こそフォーヴィスムの典型だったものの、色彩の調和に関するこだわりは、やはり芸術学校出身らし落ち着きをともなっていました。
 そして三つ目のグループは、1905年のサロン・ドートンヌの時点ではまだフォーヴの一員ではなかった三人。フリエス、デュフィ、ブラックのルアーブル出身のグループです。ルアーブル生まれのオットン・フリエスは、1905年サロン・ドートンヌでは別の部屋に作品がある伝統的な作風の画家でしたが、フォーヴの作品群、特にマティスの作品に感銘を受け、しばらくの間フォーヴィスムの仲間入りをしていました。
 ルアーブル育ちのジョルジュ・ブラックもまた1905年のサロン・ドートンヌでマティスの作品と出会い、それから数年間フォーヴィスムを意識した作品を描くことになりました。
 もう一人、ラウル・デュフィもまたマティスの作品(特に「豪奢、静寂、逸楽」)と出会うことで、フォーヴの一員となったひとりですが、彼の場合、その後も長くマティスとともにフォーヴィスム的作風を保ち続けることになります。彼はマティスとの出会いについてこう語っています。

「この作品を見たとき、私は絵を描くことの新しい理由をいっきょにすべて理解した。このデッサンと色彩のなかに表現された想像力の奇蹟を眺めているうちに、印象派の写真主義は私にとっておよそ魅力のないものとなっていった・・・」
ラウル・デュフィ
 もうひとり、もっともフォーヴィスム的でありながら、そのわくからは初めからはみ出していた作家として、ジョルジョ・ルオーをあげることができます。後に宗教色の強い奥深い作風によって、独自の地位を獲得することになるルオーも、もともと前述のギュスターヴ・モローの弟子だったこともあり、フォーヴの画家たちとの交友関係が深く、当然のごとくその中心メンバーとして評価されていました。
 しかし、彼の描く作品は、フォーヴィスムの作品群よりもずっと暗い色調を用い、よりこっけいで醜い人物像がほとんどでした。こうした作風はその後さらに宗教的で重い色調へと変わってゆきますが、それはフォーヴィスムのもつ斬新な色使いとは異なるルオーならではのものでした。

<フォーヴィスムからビートへ、そしてフラワー・ムーブメントへ>
 フォーヴィスムもブリュッケも、結局わずか2年ほどの活動で終わりを向かえ、その後はそれぞれの道を歩んでゆくことになります。20世紀初めのこの芸術運動は、前衛芸術という新しい芸術スタイルへの道を切り開くことで、その後のキュビズムやダダ、シュルレアリスム、そしてモンドリアンやジャクソン・ポロックらへと至る抽象絵画へのスタート地点だったとも言えるでしょう。「ブリュッケ」のようなジャンルを超えた芸術運動は、その後バウハウスやダダ、青騎士シュルレアリスムのようなより広範な芸術家の集合体を作る先駆けであったともいえます。
 さらにはこうした、ジャンルを超えた芸術運動が戦後の「ビートニク」を生み、60年代の「フラワームーブメント」へとつながってゆくのです。

<1906年の出来事>
カリフォルニアで大地震起きる
労働党誕生(英)
フィンランドで女性参政権が認められる
首相ストルイピンの農業革新(ミール制度の廃止)(露)
全インド・イスラム教徒連盟結成(印)
マハトマ・ガンジーが南アフリカで非暴力の抵抗運動を組織
韓国総監府を日本が設置、伊藤博文がトップとなる
南満州鉄道設立
鉄道国有法成立(日)
堺利彦らによって日本社会党設立

<音楽>
最初の電気オルガン「ダイナモフォン」誕生
バディ・ボールデンが精神錯乱を起こし入院

<文学、思想など>
「車輪の下 Untern Rad」 ヘルマン・ヘッセ Hermann Hesse
「坊ちゃん」「草枕」 夏目漱石(現代文で書かれた青春娯楽小説の元祖)
「破戒」 島崎藤村
「茶の本」 岡倉天心


<時代を変えた発明、モノ>
ケロッグ兄弟がコーン・フレイク販売のためにケロッグ社を設立

<1906年の物故者>
エミル・シュミット(人類学者)
ヘンリック・イプセン(ノルウェーの文学者、思想家「人形の家」)
ピエール・キュリー(仏、物理学者)
ポール・セザンヌ(仏)
おりょう(坂本竜馬の妻)

20世紀年代記(前半)へ   トップページへ