1908年

- 映画音楽の歴史 -

<世界最初の映画音楽>
 この年、映画史において初めて、映画のためにオリジナル曲がプロの作曲家によって作られました。作曲したのは、組曲「動物の謝肉祭」や交響詩「死の舞踏」などで有名な近代クラシック音楽界の巨匠カミーユ・サン=サーンスです。その曲はフランスのサイレント映画「ギーズ公の暗殺」のために書かれたものでした。当時は、まだサイレント映画の時代だったため、映像と音楽をいっしょにフィルムに焼き付けることは技術的に不可能だったので、その曲はオーケストラによって演奏され、その録音がレコードとして映画と同時にかけられていたようです。(トーキー映画の登場は1927年の「ジャズ・シンガー」です。まだまだ先のことになります)
 まだまだ映画は発展途上で、海のものとも山のものとも分からない状態でしたが、そこにあえてクラシック界の巨匠が登場したのにはそれなりの理由がありました。そして、それはまた映画という20世紀を代表する娯楽が大衆のための文化として定着するまでの試行錯誤の時代を象徴する出来事でした。

<映画と音楽>
 映画は、1895年にフランスのリュミエール兄弟が歴史上初の上映会を開いたとき、すでに音楽をともなっていました。というのは、彼らが発明したシネマトグラフは、上映時の機械音がうるさく、観客の耳をごまかすために、どうしてもピアノの伴奏を必要としたのです。(映画の発明者は、誰かという問いに対し、アメリカ人はエジソンといいます。確かに1891年にエジソンが映画についての特許登録を行っています。ただし、エジソンの映画システムは、のぞき穴の中の映像を見るもので、現在の映画システムにつながるものではありませんでした。そのため、一般的に映画の発明者はリュミエール兄弟ということになっています)
 こうして、映画は最初から音楽をともないながら発展をしてゆきますが、当初の映画は小規模な会場での上映だったので、その伴奏はピアノが担当すれば十分でした。優秀なピアニストなら映像に合わせてアドリブで演奏することも可能だったので、それは非常に有効でした。しかし、しだいに映画の人気が高まり会場が大きくなるにつれて、音楽の役目は増してゆき、効果音も兼ねて打楽器が導入され、その後は1911年に「映画オルガン」とも呼ばれたアメリカ製のオルガンも登場します。さらには映画の内容的な向上と経済的発展の影響から観客がお金を持っている中産階級層にまで拡大したことで、いよいよ本格的なオーケストラによる伴奏が始まりました。(この頃には、すでに「弁士」という俳優兼ナレーター兼効果音担当が現れていました)

<世界をリードしていたフランス映画界>
 映画が登場した当初、ビジネスマンとしても優れていたリュミエール兄弟のおかげでいち早くスタートを切ることができたフランス映画界は、世界市場を席巻していました。しかし、映画が登場した当初は、「家族の食事風景」や「駅に到着する機関車」、それに「世界各地の風俗」などのストーリーのない映像で十分に観客たちを驚かすことが可能でしたが、しだいにそうはいかなくなりだしていました。
 そんな中1905年、アメリカから画期的な作品が登場します。映画史上初のアクション活劇「大列車強盗」(エドウィン・S・ポーター作)は西部劇というアメリカ映画独自の映画ジャンルを生み出しただけでなく、その後現代にまで続くスリルに満ちた犯罪アクション映画の原点となりました。
 しかし、そうしたアメリカ映画の娯楽路線に対して、ヨーロッパの映画界はまったく異なる路線を目指していました。アメリカではエジソンが映写機を発明して以来、映画を娯楽のための商品と考えていたのに対して、ヨーロッパでは映画を芸術の一ジャンルと考える傾向にあったようです。(それは映画だけでなく音楽についても、同じような傾向にあったように思います)そのため、映画業界の中から、より芸術的な作品づくりを行うための取り組みを求める声が高まりました。こうして、1907年フランスで「フィルム・ダール協会」という芸術映画を製作するための組織が設立されることになりました。

<「ギーズ公の暗殺」>
 1908年、「フィルム・ダール協会」は総力を結集して一本の映画を製作しました。それが前述の「ギーズ公の暗殺」という作品でした。フランスの有名な劇場「コメディー・フランセーズ」の俳優を出演させたこの作品は、協会の権威を守るためにも絶対に失敗するわけにはゆきませんでした。そんなわけで、この映画の音楽についても超一流の起用が必要となり、当時の大物作曲家サン=サーンスに白羽の矢が立ったというわけです。当初、映画というわけのわからないものに自分の作品が使われることに難色を示していたサン=サーンスでしたが、こうした背景のもとで必死だった協会からの説得により、なんとか了解を得ることができたのだそうです。

<この時代の映画音楽>
 この頃、一般的な映画音楽は、どんなものだったのかというと、オリジナル音楽というものがまだなかったため、その代用として映画音楽専用の楽譜ライブラリーというものがあったそうです。例えば、スリル満点の追跡シーンのバックならこの曲とか、愛する二人がキスをするシーンだったらこの曲とか、それぞれのシーンに合うような音楽の楽譜があらかじめ用意されていて、それを映画館専属のピアニストが上手く画面に合わせて演奏することになっていたようです。当然、曲と曲のつなぎや画面の先を読んで演奏を始めるタイミングを図る能力、そして人を感動させるだけの演奏ができるかどうかによって、ピアニストの才能は映画の出来不出来に対し大きな影響をもつことになってゆきました。
 こうした映画の音楽システムは1920年代の終わりにトーキー映画が登場しても、すぐにはなくなりませんでした。実は、トーキー映画が誕生した当初、映像と音声を同時に録音することは可能でしたが、そこに音楽を加えるとなると同時に音声と音楽を録音しなければならなかったため、実質的には不可能でした。後で音楽だけをミキシングによって追加録音することは、技術的にまだできなかったということです。そのため、トーキー映画の初期作品は台詞つきの場合、音楽はなかったわけです。またそれとは逆に、台詞はなくて音楽のみの映画も生まれることになりました。そして、そんな状況で生まれた映画が逆に映画の新しい世界を切り拓くことにもなりました。そうです。ハリウッドの黄金時代を築いたミュージカル映画はこうした条件の下で発展することになったわけです。

<映画の発展とともに>
 こうして、トーキーの技術が発展する中で、しだいに映画音楽はその重要性を増して行くことになります。映画に合わせたオリジナル曲が作られ、シーンに合わせて曲がかぶせられることで映画の魅力はさらに増し、映画音楽の作曲家たちは映画の製作現場において、非常に重要な位置を占めるようになりました。しかし、映画音楽の役割は単に美しい曲によってそれぞれの場面を盛り上げるだけではありません。例えば、サスペンス映画の中で犯人が隠れていると思われる2階へ主人公が上がってゆこうとするシーン、そこでは少しずつ緊張感を盛り上げ観客をハラハラさせるような音楽が求められます。「ジョーズ」のあのジョン・ウィリアムスの音楽などは、あまりに有名です。それらの音楽は、もしかするとビートルズの一連のヒット曲よりも多くの人の脳裏に焼きついているのではないでしょうか。
 こうした音楽の効果をいち早く映画の世界でいかしたのは、やはりあのヒッチコックでした。彼の活躍は、ちょうどトーキー映画の登場と重なっていて、初期の作品「恐喝」(1929年)では早くもサスペンスと音楽を見事に結びつけることに成功しています。

<フィルム・ダールの挫折>
 ところで、この年「ギーズ公の暗殺」を生み出し、見事にヒットさせたフィルム・ダールの活動はその後早々と挫折してしまいました。良い音楽と良い俳優、そして良い演出に良いお話があれば、観客を満足させる映画はできるのか?実は、そうではなかったのです。フィルム・ダールの作品は、舞台劇をそのままカメラで撮って記録した舞台中継以上のものには成りえなかったのです。そこには映画にとって重要な何かが足りなかったのです。
 映画の製作に関する名言として、こんなものがあります。

「映画とは作家が文章を万年筆によって書くようにカメラによって描くべきものである」

  この言葉は、1948年、フランスの映画評論家アレクサンドル・アストリュックの言葉で「カメラ=万年筆」と呼ばれました。(これは鈴木慶一率いるムーンライダースが1980年に出した名盤のタイトルでもあります)当時はまだカメラは被写体を写し取るものにすぎず、そこから生まれる映像を作家がコントロールするテクニックが見出されてはいませんでした。例えば、映し出す人の姿を実際よりも浮かび上がらせたり、見えにくくしたりするライティングの技術。物語の時と場所を一瞬で変えてしまう編集やフィルム・スピードを変化させる手法は特に重要ですが、血なまぐさい銃撃戦を美学の域にまで高めてしまったサム・ペキンパーの「ワイルドバンチ」は、その究極の例といえるでしょう。
 こうして、映像によってドラマを語らせる手法こそが、映画を映画たるものにしているということは、この後世界中の映像作家が試行錯誤を繰り返しながら少しずつ掴み取ってゆくことになるのです。とはいえ、1908年映画音楽という音楽の新しいジャンルがささやかながら産声をあげ、その後の大きな発展に向かって小さな一歩を踏み出したことだけは確かです。

<1908年の出来事>
コンゴ自由国、英国領となる
炭鉱労働者の労働時間8時間制限となる、児童法成立(英)
憲法大綱発表、国会開設、西大后崩御、愛信覚羅溥儀皇帝に即位(清)
青年トルコ党による革命
ブルガリアがオスマン・トルコから独立
ニューヨークで行われたパンを求める女性の日がきっかけで「母の日」始まる(米)
日本からの第一回ブラジル移民が神戸港を出発

<音楽>
「僕を野球に連れてって」ビリー・マレイ(歌)アルバート・テゥルツァー、ジャック・ノーウォース作(フランク・シナトラが後にヒットさせる)
クラシック・ギターの神様、アンドレアス・セゴビアがデビュー

<文学、思想など>
「赤毛のアン」ルーシー・モード・モンゴメリー
伊藤左千夫らにより「アララギ」創刊
「何処へ」 正宗白鳥


<美術>
「接吻」コンスタンチン・ブランクーシ(ルーマニア)

<映画>
「帝国女優養成所」設立
エジソンが映画の撮影、上映、配給を管理するモーション・ピクチャー・パテンツCo設立
吉沢商店が目黒に日本初の撮影所を建設

<時代を変えたモノ、発明>
T型フォード発売(給料の2か月分1000ドル)
メリタ・ベンツ社ペーパー・フィルターによるコーヒー・ドリップを開発
アーネスト・ラザフォードがノーベル物理学賞を受賞

<1908年の物故者>
ヨゼフ・ワーグナー(作曲家)
ニコライ・リムスキー・コルサコフ(作曲家)
パブロ・デ・サラサーテ(バイオリニスト)
ブッチ・キャイシディー、パット・ギャレット(ガンマン)

榎本武楊(外務大臣、蝦夷国の初代総理大臣)
国木田独歩(小説家、詩人)
岩崎弥之助(三菱財閥総帥)

20世紀年代記(前半)へ   トップページへ