1909年

- パブロ・ピカソ&ジョルジュ・ブラック -

<芸術の街、パリ>
 「革新的な文化は閉鎖された地域で異なる文化が衝突し、化学反応を起こすことで生み出される」これは音楽、絵画などの芸術だけでなく文学や科学など、あらゆるジャンルの文化にあてはまります。(もとはといえば、生物学の進化の歴史から来た考え方です)20世紀前半のパリの街は、そんな文化がぶつかり合う化学融合炉の役割を果たしたといえます。だからこそ、そんな「芸術の街」の空気を求めて、世界中から芸術家の卵たちが数多く集まって来ていました。特にパリの街角のカフェは彼らが意見を闘わす賑やかな声に満ちていました。しかし、後に、第二次世界大戦が始まるとパリもまた戦場となり、多くの芸術家がアメリカへと渡り、そのまま永住することになりました。そして、華やかなパリの時代は衰えを見せ始めることになり、新たな「芸術の都」としてニューヨークの街が登場することになります。

<キュビズム、静かなる広がり>
 
この年、パリはまだ世界一の「芸術の都」として繁栄しており、そこで「キュビズム」という20世紀の芸術全般に大きな影響を与えることになる絵画運動が静かな広がりをみせつつありました。ただし、今では誰でも知っている有名な運動にも関わらず「キュビズム」を同時代的に体験した人は、実はほんのわずかにすぎませんでした。なぜなら、キュビズムの開祖ともいえる二人の画家、パブロ・ピカソとジョルジュ・ブラック Georges Braqueの作品は、当時は二人の専属画商であるカーンワイラーの画廊でしか見ることができなかったからです。そのため、ほとんどの人々は二人の影響によってキュビズムの手法を取り入れた他の画家たちの作品を通して、「キュビズム」と出会うことになったわけです。
 1908年に開催されたサロン・ドートンヌにブラックはキュビズム初期といえる作品を出品していたのですが、フォビズムの巨匠たち、マティス、ルオー、マルケらの審査員によって選外とされ、展示はされませんでした。実は、審査員の一人マルケの権限で一点だけ特別に展示されることになっていたのですが、ブラックはそれを拒否、すべての作品を撤収してしまいました。こうして、キュビズムは絵画界の表舞台ではなく、限られた範囲で公開されながら、静かに評価されることになったのです。
 そんなこともあり、彼らの作品に「キュビズム」という名がつけられるのには、しばしの時が必要でした。1907年にピカソが発表した歴史的作品「アヴィニョンの娘たち」がその先駆けといえる作品ですが、この絵を最初に見たとき、盟友のジョルジュ・ブラックですらピカソの意図を理解できなかったといわれています。しかし、ブラックはすぐにピカソに追いつきます。彼はピカソ以前にキュビズム的手法に挑戦していたもうひとりの天才セザンヌの回顧展にも触発され、本格的にキュビズムへと向かうようになります。

<セザンヌとブラック>
 ピカソの「アヴィニョンの娘たち」発表と同じ年に開催されたセザンヌの回顧展に合わせるようにセザンヌの書簡集が公開され、その内容もまた多くの画家たちに衝撃を与えました。その中でセザンヌはこう書いていました。

「自然のあらゆる形態は球と円筒に帰することができる」

 セザンヌこそ、対象物をより単純な別の形態によって分解することを試みた最初の画家だったのです。セザンヌとピカソ、二人から多くを学んだブラックはさっそくその手法を自ら作品に取り入れ「レスタックの家々」(1908年)などの作品を描きあげ、前述の画商カーンワイラーのギャラリーで個展を開催しました。そして、この時「レスタックの家々」を見た批評家のヴォークセルが初めて、「キューブ」という言葉を用いています。
「彼は形体を軽視し、すべてを幾何学的な図式や立方体(キューブ)に還元する」
 ピカソの情熱的な創作手法に比べ、冷静で分析的なブラックの作風は、ピカソの作品理解を助けることにもなりました。そして、この年1909年になって、ついに「キュビズム」という言葉がメルキュール・ド・フランス誌に載り、初めてキュビズムという言葉が公のものとなりました。

<「キュビズム」とは?>
 「キュビズム」とは具体的にはいかなるものでしょうか?
 セザンヌによって始められたキュビズム的分析手法は、その後ピカソとブラックより、「分析的キュビズム」といわれる段階に至りました。(1909年〜1912年春)彼らが目指したのは、単に目で見るだけではなく、あらゆる角度からそれを把握する「同時的視覚」によって対象をとらえることであり、目ではなく脳によって意識的にそれを構成し直すことでした。(概念的構成)
「感覚はデフォルメ(歪形)し、精神はフォルメ(形成)する」
ジョルジュ・ブラック
 この時期の二人の作品が地味な色相ばかりなのは、色彩に気をとられることなく形体による分析に集中するためだったといわれてます。そのあたりを、ピカソの作品「アヴィニョンの娘たち」で具体的に説明してみると、先ず一つは正面から見た顔に横から見た鼻がついている描き方があります。これは同時的視覚による表現ということになるでしょう。そして、もうひとつ正面から見た鼻を押しつぶしたように広げて表現する描き方。これはデフォルマシオン(歪形)と呼ばれる手法です。
 1912年以降のキュビズムは「総合的キュビズム」と呼ばれています。それまで徹底的に対象を分解することを目的としていたのが、ここにきていかにそれを再構成するかを目的とするようになりました。その中でクローズ・アップされるようになった手法として、絵に紙を貼り付けるパピエ・コレや紙以外のものを貼り付けるコラージュなどがあります。これは20世紀の美術にとって、ある意味最も重要な展開だったのかもしれません。それは絵画としての美術から、より総合的なオブジェとしての芸術への発展に向かう先駆となった革新だったのです。

<コラージュの手法とピカソ>
 絵画におけるコラージュの手法は、その後芸術界全体へと広がり、20世紀の文化そのものを代表する大きな革新といわれることになります。例えば、映画におけるマルチ画面や編集によっていくつかのストーリーを一本の映画にしてしまうやり方。音楽においては、サンプリングやデジタル録音によってそれを編集し、まったく新しい音楽を作り出す器材の登場など、あらゆるジャンルでコラージュ的手法が活躍するようになります。(もちろん、その発展にはコンピューターというハイテクなハードの登場も大きく影響を与えることになります)
 もともとピカソという芸術家は「破壊」することから創作を始めることで、常に新しい世界を切り拓いた人物です。デビュー当初の「青の時代」から「フォーヴィズム」へ、そして「キュビズム」に至り、その後も「新古典主義時代」など、死ぬまでそのスタイルを固定しなかったピカソほど、あらゆる芸術ジャンル、スタイルに挑戦し続けたアーティストは他にいないかもしれません。(20世紀で彼に匹敵するのは、ボブ・ディランアンディ・ウォーホル、そしてマイルス・デイヴィスぐらいでしょうか)こうした、自らのスタイルをも破壊することのできるアーティストだからこそ、彼は目に映る世界の姿すらも破壊することが可能だったのだと思います。

<呼吸と革新>
 スキューバ・ダイビングや水泳においてだけでなく、普段の生活においても「呼吸」は非常に重要な意味をもちます。もちろん、それは単に生命を維持するために必要な行為であるという理由からでもありますが、「呼吸」の重要性については以外に誤解されていることもあります。「呼吸」とは、体内に酸素を含む新鮮な外気を取り込む行為ですが、そこで重要なのは実は「外気を肺に取り込む」ことではなく、「肺の中の汚れた空気を吐き出す」ことなのです。深い呼吸には、体内から古い空気を排出しきることこそが重要だということです。そうしなければ、呼吸は浅くなり、体内には二酸化炭素がたまってしまい「酸欠状態」になるのです。
 あらゆる行為において、新鮮さを保つにはこの古い空気を吐き出す行為、もしくはその勇気が求められるのです。(肺の空気を吐ききることは体内の酸素を失うことであり、それは生命にとって危険な状態を自ら引き寄せることでもあります)逆に言えば、人間が何かを「革新」する時に求められるのは、「古い空気を吐き出すこと」だけなのかもしれません。そうすれば嫌でも新鮮な空気を吸い込まざるをえなくなるのですから。
 こうした「破壊と革新」の衝動が込められているからこそ、ピカソの作品はその後も多くのアーティストたちに衝撃とアイデアを与え続け、そんな中からシュルレアリストたち、ダダイストたち、ビートニクたち、そしてロックの英雄たちが生まれることになるのです。
 ピカソからパンク・ロックへの道のりはそう遠いものではないように僕には思えます。

<1909年の出来事>
国際アヘン会議「アヘン貿易の禁止とケシ栽培の制限」を議論するもイギリスが拒否
最低賃金法発布(英)
プエルトリコに自治権付与(米)
トルコがブルガリアの独立を承認
国民軍の蜂起、テヘランを占領
伊藤博文がハルビンで暗殺される
東京で山の手線が開通
自転車の伝統的ロード・レース「ジロ・デ・イタリア」初開催

<音楽>
日米蓄音機製造(株)が国内盤製造開始(義太夫、長唄、常磐津、民謡など)

<文学、思想>
「狭き門」アンドレ・ジッド
「青い鳥」モーリス・メーテルリンク
「パンの略取」ピエール・クロポトキン(元祖アナキスト)
「邪宗門」北原白秋
「すみだ川」永井荷風


<美術、演劇>
フィリッポ・トマーゾ・マリネッティが「未来派宣言」を発表
「室内の二人の裸婦」マックス・ペヒシュタイン
小山内薫が自由劇場を起こす

<時代を変えた発明、モノ>
AEG社が電気湯沸かし器発表(共通部品を使用し原価を下げることに成功)(独)
GE社が電気式トースターを発表(米)
トーマス・エジソンがアルカリ蓄電池を発明

<1909年の物故者>
トーマス・ミンコフスキー(数学者)
二葉亭四迷(小説家)

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