1910年

- オルケスタ・ティピカ誕生への道 -

<タンゴはどこで生まれたか?>
 タンゴといえばアルゼンチン。アルゼンチンといえばタンゴ。これは常識中の常識かもしれません。しかし、事実はそう単純なことではありませんでした。日本人のバンドネオン奏者でタンゴの研究家、舳松伸男の労作「タンゴ 歴史とバンドネオン」の中にこんな記述があります。
「・・・タンゴを人の歴史にたとえると次のようなものであろう。
『アフリカ生まれの母親とヨーロッパ人を父にして女の子が一人モンテビデオで生まれた。アルゼンチンで育ったが、大きくなるにつれて美人になり、踊り好きで浮気っぽくなったので、パリ、ローマ、ウィーン、ベルリン等に留学して花嫁修業をした後ブエノスに帰り、ボカのイタリア人と結婚して、アルゼンチン夫人と呼ばれている』最近は遠い親戚からランバダと名乗る子どもが有名になり、少し気をもんでいる」
 ところで、この中でタンゴが生まれた場所としてあげられているモンテビデオとは、アルゼンチンではなくウルグアイの首都のことです。ということは、タンゴはウルグアイ生まれということなのでしょうか?どうやら、タンゴの誕生にはかなり複雑な事情が隠されているようです。
 そんなタンゴの歴史において、この年1910年は非常に重要な存在です。この年、タンゴは初めてオルケスタ・ティピカというバンド・スタイルでレコード録音され、それが大ヒットしたことから、そのままタンゴの基本として定着し、現在にまで至ることになったのです。そのバンド・スタイルの名前「オルケスタ・ティピカ」とは、直訳すると「ごく普通の」とか「定番の」オーケストラという意味になります。具体的にいうと、バンドネオン、バイオリン、コントラバス(ベース)、ピアノを基本とするバンドということになります。
 タンゴといえばバンドネオン。バンドネオンといえばタンゴ。これもまた常識中の常識に思えるのですが、実はこの年より以前、タンゴの演奏にバンドネオンが加わることはほとんどありませんでした。だからこそ、バンドネオンが加わった新しいバンド・スタイルをこの後「オルケスタ・ティピカ」と呼ぶようになったというわけなのです。
 では、それ以前のタンゴとは、どんな音楽だったのでしょう?それに「タンゴ」という言葉は何を意味する言葉なのでしょう?中南米の音楽で唯一白人によって育てられたポップスである「タンゴ」の歴史は、以外に複雑で屈折したものです。「タンゴ」が完成したこの年から、歴史をさかのぼることで「タンゴ」の歴史をひも解いてみたいと思います。

<「タンゴ」という言葉の語源>
 「タンゴ」という言葉の語源についてはいろいろな説があるようですが、どうやらアルゼンチン以外の土地の言葉から来ていることは間違いなさそうです。中でもアフリカ起源説が最も有力なようですが、その語源にはポルトガル語の「叩いて鳴らす」という言葉があるようです。(もちろん他にもいろいろな説がありますが)
 西アフリカの沖合いにあるサントメ島の周辺に移住したポルトガル人たちが、その土地に元々住んでいた黒人たちの音楽のことをさして使ったのが「タンゴ」だといわれています。その後、アフリカから連れてこられた黒人奴隷たちのことを「タンゴマオ」と呼んだり、船の上で運動不足を補うために躍らせたダンスのことを「タンゴ」と呼んだりと、いろいろなところで使われていたようです。こうして、アフリカからやって来た黒人奴隷によって「タンゴ」の原型が南米に持ち込まれたと考えられそうです。(ただし、他にも説はあります。スペイン南部アンダルシア地方にタンゴ・アンダルースというフラメンコの一種のダンスが存在します。これが南米に持ち込まれタンゴになったという説もあるようです。ポルトガル語とスペイン語はかなり近いので、これもまたあり得る説かもしれません)

<ダンスとしてのタンゴの起源>
 前述の黒人奴隷たちによってアフリカからもたらされたダンス音楽は、実際には「カンドンベ Candonbe」といわれる名前で、現在のタンゴとはまったく異なるかなり原始的なものでした。しかし、それをアレンジして芸能として見せる楽団が後に現れます。1867年、ウルグアイの首都モンテビデオで生まれたラサ・アフリカーナ楽団は、黒人たちによって編成されたバンドで、彼らによってカンドンベは一躍人気の音楽になりました。すると、さっそくそれをマネる楽団が現れ、その影響はラプラタ川を隔てたアルゼンチンの首都ブエノスアイレスにまで飛び火し始めます。そこでは黒人たちの間に白人の演奏者も混じり顔を黒く塗るミンストレルズ・バンドのようなスタイルで演奏をしていたといいます。
 しかし、もともと黒人奴隷が少なく白人が多かったモンテビデオでは、しだいに白人の演奏者が増え、1926年頃になるとロス・ルウボロスという白人だけのバンドが人気者となっていました。彼らの演奏は黒人たちが演奏していたアフリカ原産のカンドンベを自分たちなりに焼き直したもので、より垢抜けたサウンドになっていました。こうして、白人だけのバンド(クリオージョ・ブランコ)によるカンドンベのバンドが増えるにしたがい、そのサウンドは少しずつ変化し始め、その中心も大都市ブエノスアイレスへと移ってゆきました。

<「ミロンガ」の誕生>
 ちょうど同じ19世紀の中頃、ウルグアイを中心に黒人たちの間で、新しいダンス「ミロンガ」が誕生していました。それはワルツやポルカなど、ヨーロッパ産の音楽を演奏しながら踊るもので、カンドンベとは異なり部屋の中で男女2人がペアになって行う現在のタンゴに近いダンスでした。
 黒人たちが演奏するミロンガの音楽は、当初はギターを中心とするかなり複雑なものでした。それは黒人たちの演奏能力の高さがなければ無理な音楽でした。しかし、アルゼンチン、ウルグアイ両国ではしだいに黒人の人口が減っていったこともあり、白人がバンドの中心となりだすと、その音楽はしだいに単純化されるようになり、リズムもシンプルな4分の2拍子へと変わってゆきました。こうして1880年頃、いよいよ現在のタンゴに近い形が生まれることになったわけです。そして、この頃ミロンガを踊る場所として有名になったのが、モンテビデオの黒人街にできたラ・アカデミアと呼ばれる安っぽい居酒屋兼ダンスホールでした。ここで、それまでは歌を中心に聞かせる音楽だったミロンガは、完全にダンスのための音楽へと変化し、男女が身体をぴったりとくっつけて踊るチークダンス的なスタイルも生まれることになりました。そして、このミロンガもまたモンテビデオからブエノスアイレスへと広がって行き、二つの街のバンドによるコンクールなども開催されるようになります。こうした二つの街、二つの国、二つの人種の交流こそがタンゴを生んだともいえそうです。

<黒人人口の減少>
 アルゼンチンで生まれた「タンゴ」は、南米では唯一といってよい白人音楽なわけですが、なぜアルゼンチンには黒人が少ないのでしょうか?それにはやはり原因があるようです。
 奴隷解放によって、アルゼンチンの黒人たちは自由になりましたが、逆に生活が苦しくなり、住みづらくなったことがひとつ。(それはアメリカでも同じでした)その状況に1871年黄熱病の大流行が起こり、貧しい黒人たちの多くが命を落としました。さらに、パラグアイとの戦争や内戦の勃発、国内に住むインディオに対する征服戦争などに、黒人たちは兵士として次々に駆り出されてゆき、急激にその人口を減らしていったのでした。ところがアルゼンチンはその後、ヨーロッパへ肉や穀物などを輸出することで急激に発展し始めます。そうして、国内経済がしだいに豊かになるにつれ、ヨーロッパからの白人移民が逆に急増し、いつの間にかアルゼンチンは白人がほとんどの人口を占めるようになっていったのです。特にこの頃からイタリア系の移民が増え、ブエノスアイレスの街はイタリア系がその中心となり、タンゴはそうしたイタリア系の移民たちによって育てられることになりました。そして、イタリアこそアコーディオンの故郷なのです。

<イタリアとアコーディオン>
 イタリアといえば、アコーディオン発祥の地であり、未だにその中心地です。そんな国からやって来た人々によって、タンゴの新しい形「オルケスタ・ティピカ」は完成の域へと高められていったのです。(ただし、アコーディオンとバンドネオンとはまったく異なる楽器です)
 さらにもうひとつ、タンゴの発展になくてはならなかった道のりとして、フランスやイタリア、ドイツなどヨーロッパ各国への輸出と逆輸入によって「コンチネンタル・タンゴ」と呼ばれるスタイルが生まれたこともタンゴの完成を早めました。その後、カルロス・ガルデルというスーパー・スターの登場によってタンゴは歌謡音楽としても一躍世界的に知られることになります。
 今や世界中のダンス・ファンに愛されるタンゴの原型は、こうしてこの年ついに演奏スタイルの基本が完成いたのです。

<1910年の出来事>
リスボン暴動からポルトガルが共和制宣言
フランシスコ・マデロらにより、メキシコ革命始まる
南アフリカ連邦成立
日韓併合、朝鮮総督府設置(総督は寺内正毅)
大逆事件(幸徳秋水ら12名が死刑になる、天皇暗殺計画の罪)
ハレー彗星が地球に接近

<音楽>
ミュゼットの人気奏者エミール・ヴァシェがパリにダンスホールを開店
「春がきた」「われは海の子」(文部省唱歌誕生)

<文学、思想>
「マルテの手記」ライナー・マリア・リルケ
「遠野物語」柳田邦夫
文芸誌「白樺」創刊(武者小路実篤、志賀直哉ら)


<美術>
「ダイヤのジャック展」モスクワで開催(ミハイル・ラリオーノフらロシア・アバンギャルド)
カサ・ミラ完成(アントニオ・ガウディ

<時代を変えた発明、モノ>
アーヴィング・ラングミュアがタングステン電球を発明

<1910年の物故者>
アンリ・ルソー(画家)
ウィリアム・ジェームズ(哲学者、心理学者)
マーク・トゥエイン(小説家)
ジュール・ルナール(詩人、戯曲作家)
ロベルト・コッホ(細菌学者、医師)
オー・ヘンリー(小説家)
フローレンス・ナイチンゲール(看護師、看護教育者)
レフ・トルストイ(小説家)

20世紀年代記(前半)へ   トップページへ