1911年

- スコット・ジョップリン Scott Joplin -

<没落の時>
 1911年、当時「ラグタイムの王」と呼ばれていた黒人作曲家スコット・ジョプリンは、以前から構想を立てていたオペラ「トゥリーモニシャ Treemonisha」を書き上げ、出版を実現しました。黒人音楽家として、高い評価を得、お金も稼いでいた彼でしたが、芸術家として本当の評価を得るためには、当時最高の人気芸術音楽であるオペラの世界でも才能を発揮するしかない。そう考えていた彼はそれまで住んでいたシカゴから音楽ビジネスの中心地ニューヨークへと移住し、その出版に向かいました。そのうえ、出版のために自らの財産の多くを注ぎ込みました。ところが、彼のオペラは一度、ピアノによるコンサートは実現したものの、その評価はぱっとしませんでした。その結果、彼は名声と財産の多くを失い大きなショックを受けます。ちょうどその頃、彼は梅毒により体調が悪化し始めていました。しかし、体調はさらに悪化し、その後認知症まで発症し、しだいに精神力と体力を失い1917年まだ49歳という若さでこの世を去ってしまいました。(彼が梅毒に感染したのは、彼の奥さんのロティがハーレムで売春宿を経営していたせいだといわれています)
 彼の人生は、黒人アーティストたちの多くがその後ぶつかることになる人種差別という高い壁に立ち向かう先駆けの一つでした。そして、黒人であるが故に、正当な評価を得られなかった不運の先駆けの一つだったのかもしれません。

<奴隷の子から音楽家へ>
 スコット・ジョプリンは、1868年にテキサス州で生まれました。両親は典型的な奴隷出身の農夫で、けっして豊かな家庭ではありませんでした。しかし、家では父親がバイオリンを、母親はバンジョーを弾く音楽家族だったようです。そのな影響もあり、独学でピアノを学んだ彼は、十代半ばでひとりピアニストとして自立し、故郷を後にしました。
 南部からセントルイス、シカゴなど中西部の街へと移動しながらサロンや売春宿のバンドで演奏し、ピアノのテクニックを身につけて行きました。しかし、音楽家としてさらに上を目指すため、彼はここで当時はまだ珍しかった黒人向けの大学、ジョージ・R・スミス大学で音楽理論を身につける道を選びます。そして、この選択は彼に大いなる栄光をもたらすことになります。
 彼は身につけてきたアフロ・アメリカン音楽(当時はまだジャズという名称はありませんでした)と大学で身につけたクラシック音楽を結びつけることで新たなポピュラー音楽を生み出すことに成功したのです。それが「ラグタイム Ragtime」という音楽でした。

<「ラグタイム」とは?>
 「ラグタイム」という音楽の定義は、基本的に作曲され譜面におこされた音楽であり、ジャズのもつスウィング感はあってもインプロヴィゼーション部分がない音楽ということになります。さらに技術的にいうと、左手が正確にリズムを刻みながら、右手がそれとはずらしたメロディーを奏でることでシンコペーションのリズムを生み出す。これが「ラグタイム」の最大の特徴といえるでしょう。その元となった音楽は、19世紀のピアノ音楽で、シューベルトやショパン、リストの曲からポルカやマーチなどのポップな曲まで幅広くなっています。そして、その後ラグタイムがブームになってからは、あらゆる音楽をラグタイムに編曲し直して、演奏することで次々とヒットが飛び出すことになります。
 「ラグタイム」の「ラグ」とは、英語で「ぼろ」のことで元々はヨーロッパのピアノ曲を拍子をずらし、調子っぱずれにすることを「ラグ」と呼んでいたようです。「ラグタイム」とは、「時間をずらす」ことから生まれた音楽ということのようです。
 当時はまだインプロヴィゼーション(アドリブ)という概念はほとんどなかったため、今で言うジャズ・バンド(多くの人がイメージするのは、やはりモダン・ジャズでしょう)というものは存在しませんでした。あったのは、ラグタイム・バンドか、当時のポピュラーソングを演奏するバンドか、ブルース・バンド、その三つのどれかだったようです。そして、その中で最も大衆の人気を集めていたのはラグタイムのバンドでした。

<ラグタイム時代の先駆け>
 そんなラグタイムの一大ブームを巻き起こすきっかけを作ったのが、スコット・ジョップリンだったわけです。当時流行していたラグタイムの原型となる音楽を研究していた彼は、しだいに「ラグタイム」のスタイルを完成させてゆき、1899年その決定打ともなる曲「オリジナル・ラグズ」を発表。ラグタイムを完成に導きました。そして、2作目となる「メイプルリーフ・ラグ」が一気に大ヒットとなります。その売り上げは当時としては破格の7万枚を突破しました。
 ただし、この7万枚という数字はレコードの売り上げ枚数ではありません。20世紀初頭のアメリカにはまだレコードという音楽の記憶媒体は存在せず、楽譜を販売することが音楽産業の基本だったのです。逆にいうと、楽譜として販売できない音楽は、音楽出版業界にとって何の価値もなかったわけです。だからこそ、音楽理論をいち早く身につけたスコット・ジョップリンは、希少価値だった黒人の音楽作家として歴史的な成功を収めることができたのです。
 その後も、彼はヒットを連発します。アカデミー作品賞受賞の傑作映画「スティング Sting」(1973年)で使用され、世界中にラグタイムのブームを起こした「ジ・エンターテナー」(1902年)などにより、彼は一躍「ラグタイムの王」としてもてはやされることになりました。

<クラシック音楽への憧れ>
 しかし、彼がどんなにヒット曲を生み出し、お金を稼いでも、元々クラシック音楽を勉強し、ショパンやシューベルトなどに憧れていた彼にとって「ラグタイムの王」という称号は不満足なものでした。彼は自らの手でオペラを作曲し、それを舞台で上演したかったのです。1907年、彼は本格的に音楽出版業界で活躍するため、ニューヨークへと旅立ち、オリジナルのオペラ「トゥリーモニシャ」の制作を開始したのでした。
 残念ながら、「トゥリーモニシャ」がどんなオペラだったのか、僕は知りません。しかし、少なくとも作品の質が劣っていたから評価されなかったというわけではなさそうです。なぜなら、この作品はラグタイムと彼自身に対する評価が高まった1976年になって、遅ればせながらピューリツッァー賞を受賞しているのです。彼の死後50年以上が過ぎ、やっと彼の音楽に対して正当な評がをくだされるようになったのかもしれません。時代の変化はそれだけではありません。かつて彼がクラシック音楽を学ぶために、白人の音楽学校に入学したように、今ではマイルス・デイヴィスデューク・エリントンに憧れる白人の若者たちが、プロのジャズ・ミュージシャンを目指して、音楽学校に入学する時代になっているのです。

<1911年の出来事>
反トラスト法によりスタンダード石油が解散させられる
フランスがモロッコに出兵
トリポリ戦争(イタリアVSトルコ)
メキシコ革命(サパタらが蜂起)
孫文がイギリスより帰国
辛亥革命(清朝が滅びる)
普通選挙法が衆議院で可決される
朝鮮度地収用令、朝鮮教育令、朝鮮政治結社禁止令
野口英世、梅毒スピロヘータの純粋培養に成功
大逆事件で有罪となった幸徳秋水ら11人が死刑執行される
ロアルド・アムンゼンが南極点到達
歴史研究家ハイラム・ビンガム(英)がマチュ・ピチュ遺跡を発見

<音楽>
「トゥリー・モニシャ」スコット・ジョップリン
帝国劇場オープン(日)

<映画>
横浜オデオン座が日本初の外国映画専門の映画館としてオープン

<文学>
M・メーテルリンク(ベルギー)ノーベル文学賞受賞
新文学運動起こる(1908年アララギ派、1910年白樺派)


<美術>
W・カンジンスキーが青騎士を結成(ブルリューフ兄弟、フランツ・マルク、アルノルト・シェーンベルク、アンリ・ルソーなど)
アンデパンダン展にキュビズム派の追随者が登場(フェルナン・レジェ、マルセル・デュシャン、フランシス・ピカビアなど)
「青騎士 T」フランツ・マルク
「なすのある風景」アンリ・マティス(仏)
「コタン小路」モーリス・ユトリロ(仏)

<時代の変えた発明、もの>
フランスでオートクチュール協会設立
ポール・ポワレがアラブ風のコルセットのないファッションを流行させる(仏)
フレデリック・ウィンスロー・テイラー「科学的管理法」

<1911年の物故者>

グスタフ・マーラー(作曲家)
ジョ−ゼフ・ピューリッツァー(ジャーナリスト)
トーマス・ブレーク・グラバー(明治維新の日本で活躍した商人)
ファント・ホッフ(化学者)
幸徳秋水(思想家、ジャーナリスト、社会主義者)

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