1914年

- ココ・シャネル Coco Chanel -

<シャネルの店>
 この年1914年、フランス北部ノルマンディー地方のリゾート地ドーヴィルの街で一軒のブティックが人々の話題になっていました。その店のオーナー兼デザイナーは、自らが店のモデルとして店頭に並ぶ商品を身につけて街を歩き、上流社会の人々と付き合いながら、店の名を広めてゆきました。自転車やテニスなど、アウトドアで楽しむスポーツが普及しつつあった当時、彼女が着こなしていた活動的なニットやパンツ・スタイルは、当初は男性ファッションのように見られましたが、その実用性の高さはすぐに新し物好きの女性たちの心をとらえました。スカートをはいて自転車に乗らざるを得なかった女性たちにとって、シャネルの提案したパンツ・スタイルは待ちに待ったものだったのです。その後も彼女は女性たちが求めていた新しいスタイルを次々に提案してゆきます。
 例えば、それまで男性用下着の素材として使われていたジャージ素材。動きやすく安価なその素材を用いて彼女が提案したスーツもまた女性たちの心をとらえ、ファッション界の流れを大きく変えてゆくことになります。彼女こそ、ファッション界を代表する美しきカリスマ・デザイナー、ココ・シャネルことガブリエル・ボヌール・シャネルでした。

<女性たちの20世紀>
 20世紀は民族独立の時代であり、人種平等への闘いの時代であったといわれます。それらの闘いでは多くの血が流され、数多くの犠牲者が出ました。しかし、20世紀の歴史にとって、もうひとつ重要な側面があることを忘れてはいけません。それは人類を二つに分ける男と女という二つの性の間に繰り広げられた戦いの歴史です。もちろん、その闘いは、本当に血を流す戦闘ではなく、女性たちが男性と同等の権利を勝ち取ってゆくための静かな権利闘争の繰り返しでした。こうした女性たちの歴史において重要な役目を果たし、かつて「皆殺しの天使」とも呼ばれた女性がいました。彼女の名はガブリエル・ボヌール・シャネル。人々は彼女のことを、ココ・シャネルと呼びました。ファッション界に知らぬもののない、あのシャネルです。では、なぜ彼女は「皆殺しの天使」と呼ばれたのでしょうか?
 それは彼女が20世紀の初めまで続いてきた女性のファッションを根本から変えることで、19世紀の女性像を世の中から消し去ってしまったことからきています。それは単に女性たちの見た目を彼女が変えただけではなく、その中身までも変貌させてしまったことで社会全体をも大きく変えてしまったからなのです。シャネルによって行われたその革命は、いかにしてなされたのか?女性ファッションの変遷を追いかけながらシャネルの革命とその帝国の歴史を調べたいと思います。

<ポール・ポワレ>
 20世紀の初め、女性のファッションを大きく変えた最初のファッション・デザイナーはポール・ポワレPaul Poiretという人物でした。
 1879年、パリに生まれたポール・ポワレは父親が布地商人だったこともあり、早くから服飾に興味をもち、1896年に彼がデザインした赤いケープが大流行したことで自信をつけ、1904年には自らのメゾンを開店しました。
 1906年、彼は上流階級の女性にとって必須アイテムだったコルセットを短くし、ゆったりとしたシルエットのファッション・スタイルを提案。1908年にはイラストを用いたファッション・カタログを発行。これはファッション・イラストを世に広めるきっかけになったと言われています。彼はその他にもゆったりとしながら足首部分ですぼまったホブル・スカートを発表。それまで完全に隠されていた女性の足を初めてちらりとのぞかせるという偉業?を成し遂げました。彼の生み出した東洋風のゆったりとしたシルエットのファッションは女性をコルセットによる締め付けから開放したといわれるますが、彼は完全にコルセットをなくしたわけではありませんでした。彼のファッション革命はここまでで、コルセットによって締め付けられていた女性の身体を多少は開放したものの、精神の開放にまでは至りませんでした。

<女性たちのライフ・スタイル>
 彼女の提案した新しいファッションは、女性たちの見た目を変えただけでなく、ライフ・スタイルの提案としても受け入れられることになり、シャネルのファッションを身に着けた女性たちは自らの生き方をも変えてゆきました。特にシャネルのように自立した女性たち、自らの手で稼ぎを得ていた働く女性たちにとって、シャネルのファッションはまさに生き方そのものでした。もちろん、こうしてブームが広まるにつれて、お金をもてあましていた上流階級の女性たちにとっても、シャネルを着ることは、「出来る女」のステイタス・シンボルとなりつつありました。彼女たちは、シャネルが提案したイミテーションの宝石を喜んで購入し身に着けることで、アクセサリー業界の未来をも大きく変えてしまいます。
 元々イミテーションにこだわりをもっていた彼女は、イミテーションの宝石に価値を見出していました。そして、同じように自らの作品がコピーされイミテーションとして広まってゆくことを許していました。イミテーションが出回ることは、「シャネル・ブランド」が流行の最先端になることであり、それがモードの世界を征することにつながるということを彼女は誰よりも早く理解していたのです。ただし、彼女自身は自らの作品を大量生産しようとはしませんでした。彼女は最後までオートクチュールにこだわり続けたデザイナーの一人でもあったのです。それは現代社会におけるルイ・ヴィトンのような位置づけに近いものだったのかもしれません。

<シャネルの秘密>
 貧しい田舎の村で捨て子として育てられ、その少女時代を厳格で質素な修道院で過ごした彼女にとって、ゴテゴテした成金趣味のファッションは初めから頭にありませんでした。彼女のこうした生い立ちとそこで築かれたしたたかな生き方、さらには女性たちですら憧れてしまうその美貌、すべてがそろっていたからこそ、その成功は可能になったといえるでしょう。
 彼女はファッションから芸術性を取り去り、実用性を重視することで、かつて男性ファッションがゴテゴテした成金趣味の衣装からシンプルなスーツのスタイルへと急激に変化していったのと同じことを女性ファッションの世界でも実行してしまったのでした。そうした、「クール」で実用的な彼女のファッションを代表するのが、彼女が最も愛した色「黒」なのかもしれません。それまで女性のファッションではほとんど用いられていなかった「黒」を彼女は究極の定番カラーとして用い、その後「黒」はファッション界における最重要カラーとしての地位を確立するに至ります。

<シャネルという名のフォード>
 1926年にシャネルが発表した襟なしのシンプルな黒のドレスについて、アメリカ版のファッション誌「ヴォーグ」は、「シャネルという名のフォード」であると評したといいます。彼女の生み出すファッションはシンプルであるがゆえに複製可能なものでした。だからこそ、当時アメリカ中に広がりつつあったフォード製の革命的な大衆車T型フォードに匹敵する存在といわれたのです。
 こうして、彼女は女性のファッションを男性のそれに近づけ、よりシンプルに、より実用的にすることで女性の見た目を均一化しました。しかし、このことは逆に女性自身のセンス、スタイルそして生き方が問われる時代をもたらしたともいえます。それまで自らの個性を主張することが難しかった女性たちはシャネルのスーツを身に着けることで、いよいよ積極的に社会進出してゆくようになるのです。そして、複製されることによって、シャネルはモードの主流となり、誰もがシャネルをモードの基準と見なすようになってゆきました。シャネルはこうして一大ファッション帝国を築いていったのです。

<アメリカにおけるシャネル>
 当時、シャネルが作り上げた女性像、ショートカット・ヘアーでタバコをくゆらせながらバリバリ仕事もこなす「ギャルソンヌ」と呼ばれる新人類は、同じ頃アメリカのニューヨークにも現れていました。彼女たちは「フラッパー」と呼ばれ、アメリカにおける「ジャズ・エイジの華」としてもてはやされていました。当然、彼女たちもまたシャネルのファッションに魅せられ、アメリカはシャネルにとって最も重要な市場となってゆきます。

<シャネルとアーティストたち>
 シャネルは女性たちに影響を与えただけではありません。彼女は自分の手で稼ぎ出した富を用いて、多くの芸術家たちのパトロンとなり、彼らの創作活動を援助しました。彼女のファッション自体はあえて芸術性を排除することで、その独自性を築いたのですが、彼女自身は芸術に対する鋭い目を持っていたのです。ロシアの世界的バレー・ダンサー、ディアギレフと彼のバレー団のために「火の鳥」などのバレー曲を作曲した
ストラヴィンスキー。それにジャン・コクトーやピカソなどにも彼女は援助を与え、それ以上に友人としての関係を築いていました。特にストラヴィンスキーとは、恋人同士の関係だったようです。しかし、彼女はそうした幅広い交友関係を持ちながらも、あえて結婚はせず、「働く女」として生涯独身を通しました。そうした生き方は、20世紀も後半になって登場する「自立した女性」の先駆けであったといえるでしょう。

「既製服の製造がモードを殺すという意見をよく耳にする。だがモードは殺されることを望んでいるのだ。モードはまさにそのためにこそ、つくられるのだから」
ガブリエル・シャネル
 彼女は20世紀に一大産業として発展することになる「ファッション業界」の基礎を作った人物であると同時に、女性の社会進出を進めることによって世界を変えた人物でもありました。

<シャネルのこだわり>
 美にこだわるシャネルは、自分の服を着る女性たちにも注文をつけました。例えば、「グラマー」で「汗っぽい」と感じていたブリジッド・バルドーのような女優さんは、たとえ大スターでも彼女の嫌いなタイプでした。彼女が、パーティー用に映画「去年マリエンバートで」において、デルフィーヌ・セイリングが着ていた黒のドレスを注文した際、シャネルは「太陽に喪服は似合わない」と言って断ったそうです。

映画
「ココ・シャネル」(1981年)(監)ジョージ・カーチェンダー(出)マリー・フランス・ピジェ


<1914年の出来事>
「サラエヴォの悲劇」から第一次世界大戦始まる
(オーストリアの皇太子フランツ・フェルディナンドがセルビア人青年に暗殺された事件)
パナマ運河開通
イギリスがエジプトを保護領とする
マハトマ・ガンジーらインド人知識人が対英協力声明を発表(将来の独立に向け)
シーメンス事件(日)
孫文が東京で中華革命党を設立
最後のリョコウバト「マーサ」が死に地球上から消える

<音楽>
「セントルイス・ブルース」W.C.ハンディー
「彼らは私を信じてくれない」ジェローム・カーン
ミュージカル「世界の渦巻き」シグムンド・ロンバーグ
「カチューシャの唄」松井須磨子(芸術座)
蓄音機とレコードの特許が切れ、各社が業界に参入

<文学、思想など>
「ターザン」エドガー・ライス・バロウズ
「創造的進化」アンリ・ベルグソンが邦訳出版
この年の文学作品はここから!

<映画>
チャップリンのトレード・マークとなる浮浪者スタイル誕生

<時代を変えたモノ>
アントニオ・ガウディ作のグエル公園完成(スペイン)
バーバリー社がイギリス海軍向けにトレンチコートを開発

<1914年という年>
「第一次世界大戦は、それをきっかけに各国のナショナリズムが国民の間で盛り上がった戦争である。それまでの戦争は、「支配者とそれに率いられる職業軍人がするもの」だった。国民は、「関係ないよ」でもすんでいたのだが、それが二十世紀になって変わった。・・・戦争は「二十世紀になってから異常になったもの」なのだ。・・・」
「(世界各地の)皇帝は馬鹿げていた。その皇帝は追放された。しかし、その馬鹿げた皇帝におとなしく従っていた国民が、その後の国家というものを作る。第一次世界大戦以後の世界状況がもっと危険になるのは目に見えている。・・・・・」

橋本治著「二十世紀」より

<1914年の物故者>
アウグスト・マッケ(ドイツの画家)

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