第一次世界大戦を舞台に描かれた戦争のリアル

「1914 "14"」

- ジャン・エシュノーズ Jean Echenoz -
<リアリズム戦争映画と文学>
 フランスの作家ジャン・エシュノーズによるわずか100ページちょっとの小説です。しかし、内容はずっしりと重く、リアリズム戦争小説の傑作です。
 かつて「西部戦線異状なし」という第一次世界大戦を描いたリアリズム反戦映画の傑作がありました。しかし、第二次世界大戦以降、戦争映画は、ハリウッドを中心に戦争を肯定するアクション映画の一ジャンルとなりました。数少ない例外は、赤狩りによってハリウッドを追われたダルトン・トランボ監督の「ジョニーは戦場へ行った」ぐらいで、ベトナム戦争の映画が撮られるまでリアルな戦争映画はほとんど撮られなかったといえます。
 ただし、本当の意味でのリアリズムに基ずく映画が撮られなかったのには、技術的な理由もありました。リアルに戦争を体験しているかのような錯覚をもたらすような映像を作り上げるためには、CGによる特殊効果やステディ・カムの導入、音響効果の充実など、様々な技術の確立が必要だったのも確かです。その意味で、スピルバーグ監督の「プライベート・ライアン」の登場は画期的でした。観客が戦場に降ろされたかのような臨場感は、新たな戦争映画の誕生だったといえます。(もちろんハリウッド映画が残虐な映像を許さなかったという理由もありましたが・・・)
 では戦争小説の世界における「リアル」は、今までどうだったのでしょうか?文章で表現するのに特殊効果は必要ないのですから、表現的なリアリズムの壁はなかったはずです。文字で表すには、どんなにものすごい「スプラッタ映画」の場面も表現は可能ですから。しかし、それを実際に小説化して、面白い作品になるかどうかはかなり疑問があります。なぜなら、リアルな戦場を体験すること自体が読者にとって苦痛であり、長い戦闘シーンは読んでいてもけっこう厳しいものです。例えば、この小説にはこんな場面があります。

 そのときだ、最初の三弾は遠くに落ち、戦線を外れたところで無為に炸裂したあと、四つめの105ミリの着発弾が狙いよく定めてもっといい結果を塹壕内に生んだ。
 砲弾が大尉の当番兵を六つの部分にバラしたあと、破片が連絡員の頭を落とし、ボシスを鳩尾(ミゾオチ)のところで対壕の支柱に釘付けし、いろいろな兵士をいろいろな角度から滅多切りし、一人の斥候猟兵の体を縦に切断した。
 遠くないところにいたアンチームは、一瞬のあいだに脳から腰まで、斥候猟兵のすべての内臓が解剖図にあるように二分されるのを見た。・・・


 一度戦闘が始まれば、こうした映像化困難な残虐な場面が次々に目の前に展開するのが本当の戦争です。そう考えると、弱虫の僕などは想像してだけでも頭がおかしくなりそうです。この小説が描いている第一次世界大戦下のヨーロッパでは長い長い塹壕戦が続き、ストレスにより精神を病んでしまう兵士が続出しました。いつ始まるかわからない敵の攻撃に脅えながら、ジメジメとした地下でネズミと虱に悩まされながら暮らす惨めな日々は、まともな神経の持ち主でも耐えられなくさせるに十分なほど過酷な場所だったのです。

 しかしこの戦争からこんな風にとんずらすることはできない。状況は単純だ。動きが取れないのだ。敵はあなたのまえに、ネズミと虱はあなたとともに、そしてあなたの後ろには憲兵。適正を失う唯一の方策は、だから、よい負傷だ、待つしかないが希求することはある、離脱を保証してくれる負傷だが、問題はあなたの意思ではどうにもならないことにある。この慈善的な負傷を、ある者たちはそうとは見えないように自ら施そうと、例えば手を撃った訳だが、大抵は失敗した。見つかって、裁判にかけられ裏切り行為で銃殺された。・・・

<戦場のリアル>
 もちろん文学的には残虐で衝撃的な戦闘場面にこそ、戦争のリアルがあるわけですが、戦争のリアルを描くには、また別の方法もあります。例えば、戦場に兵士たちが持ち込んでいる品々の描写にもまた戦争のリアルがあります。彼らが背中にどれだけのものを背負っているのか?これは意外に知られていない気がします。今まで見た戦争映画でも、その中身を見せてくれる場面はありませんでした。(海からの上陸作戦の際、銃の先に防水のためにコンドームをはめる描写があった「最前線物語」は例外的作品でした)

 背嚢は初め、空で六百グラムの重さしかなかった。しかし、規定支給品の最初のものをきっちり収納すると直ぐに重くなった。食料食器類 - 薄荷酒の瓶、代用コーヒー、砂糖、チョコレートのはいった袋、ブリキ缶や錫メッキしたナイフ・フォーク類、鉄板から打ち延ばしたコップ、缶切りと小刀 - 、衣類 - 長短の下穿き、綿のハンカチ、フランネルのシャツ、ズボン吊り、巻脚絆 - 修理・清掃道具 - 衣類用・靴用・兵器用各種ブラシ、グリース・靴墨・替えボタン・替え靴紐のはいっている各種の函、裁縫用具一式、先の丸い鋏 - 身繕い・衛生道具 - 個人用包帯、綿、手拭い、鏡、石鹸、髪剃り刀とその砥ぎ道具、髪剃りブラシ、歯ブラシ、くし - 及び個人用携帯品 - たばこと巻紙、マッチ、ライター、懐中電灯、洋銀とアルミニウム製の認識票ブレスレット、兵士の祈祷書、軍隊手帖。背嚢一つにはこれだけでも沢山にみえるが、さらに紐を使ってそのうえにいろいろな付属品を積み重ねて縛りつけることを妨げなかった。まず天辺には、ポール、ペグ、張り綱をなかに入れたテント幕に重ねた毛布のうえに個人用の食器が - 頭に当たらないように傾け - 鎮座していた。彼らには、ビバークのスープ用の薪の小さな束が載った鍋を固定する帯紐が食器のところまで伸び、側面にぶら下がっているのは、皮袋にはいった一、二の土工用具 - 斧、大鋏、鉈、鋸、スコップ、鶴嘴兼鍬のなかなら選んで - と布製の輸送用入れ物にはいった水袋とカンテラだった。この構築物全体は、乾燥時で三十五キロ近くに達した。雨が降り出すまえは、という訳だ。

 戦争とは兵士たちが持ち運ぶ装備品リストのように長くてつまらないものでもあるのです。著者はあえて「戦争」を「オペラ」にたとえることを否定していますが、実は似ている部分もあるのかもしれません。

・・・そもそも、戦争をオペラに比較することはたいして役に立つことでもないし余り適切でもないだろう。ことにオペラを愛好してもいない者にとっては。たとえ戦争がオペラのように、スケールが大きく、誇張があって、過激で、辛い長丁場が沢山あるとしても。オペラのように大きな音を出し、仕舞には結構退屈してしまうことがよくあるとしても。

 この小説の魅力は戦闘場面のリアルさや持ち物へのこだわりだけではなく、兵器についての研究や考察の奥深さにもあります。例えば、この戦争で初めて兵器として使用されることになった「飛行機」についての描写があります。飛行機の発展は第一次世界大戦と次の第二次世界大戦という二つの世界大戦のおかげで一気に進んだと言われます。この小説には、飛行機同士の空中戦とその犠牲者の死の瞬間も描かれています。

 戦争が始まって数週間、飛行機は新しい輸送手段で、軍事目的に使われたことはない。ホッチキス機関銃はファーマンにも据え付けられていたが、試験的にであって弾丸なしだから、休止状態だ。機上における連発式兵器の使用がまだ当局によって許可されていなかったのは、その重量あるいは不確実な機能性によるというよりも、敵に智慧を与えて同じように装備されるのを恐れたからだ。それが変わるまでのあいだ、用心のため、上官にははっきりと言わないで、乗組員たちは鉄砲や短銃を持ち込んでいた。・・・

 この作品の最後には、著者のインタビューが加えられています。そしてそこでは、彼の作品における映像的描写へのこだわりについて詳しく書かれています。ハリウッド映画、それもフィルム・ノワールやヒッチコック作品などサスペンス映画への彼のこだわりについても書かれています。

「・・・わたしは例えばアラン・レネよりもラオール・ウォルシュから多くを学んだし、フランソワ・トリュフォーよりアルフレッド・ヒッチコックから学んだことのほうがずっと多かった。そしてアメリカ映画は本当の神話を作ったし、いまもある程度は作り続けています。それは一種の普遍的コードでフランスにはそれに匹敵するものは見当たりません。」

 戦場で兵士たちの心を折るのは、戦闘時の恐怖よりも、戦闘が始まるまでの長い長い待ち時間だとも言われます。その状況で「仲間がいる」とか「酒や薬物などで紛らす」とか「戦場での殺戮に喜びを見出す」とか「戦闘のスリルに生きがいを見出す」とか「神に助けを見出す」とか・・・なんらかの心の脱出方法を獲得しなければ、たぶん人は必ず精神のバランスを失うことになるのでしょう。たとえ、兵士たちが戦場から生きて帰ったとしても、彼らは二度と同じ日常を取り戻すことはできないはずです。そのことこそが、「戦争のリアル」なのかもしれません。

「1914 "14"」 2012年
(著)ジャン・エシュノーズ Jean Echenoz
(訳)内藤伸夫
(装丁)宗利淳一
水声社

近代・現代文学大全集へ   トップページへ