1916年

- チア・シアータとドゥンガ、マウロ・ヂ・アルメイダたち -

<ブラジルとサンバ>
 ブラジルといえばサッカーとサンバ。この二つの文化によってブラジルの文化は成り立っている、そういえるほど、ブラジルとは切っても切れない関係にあります。
 では「サンバ」という音楽は、どうやって生まれたのでしょうか?音楽スタイルとしてのサンバはどうやら19世紀の初め頃、すでにリオ・デ・ジャネイロに存在していたようです。その言葉の由来としては、アフリカのアンゴラで用いられている言葉「semba(センバ)」(ダンスに誘う)ではないかともいわれています。しかし、本格的にサンバの文化がリオで発展するようになるのは19世紀末のことになります。それは1871年に奴隷から生まれた子供は自由人とするという法律ができ、さらに1888年には奴隷制そのものも廃止になったことで、ブラジル各地から仕事を求めて黒人たちが、リオ・デ・ジャネイロに集まりだしたのが最大のきっかけだったようです。対アフリカの貿易港として栄え、黒人奴隷の集積地でもあったバイーア地方は、そうした黒人奴隷たちが多く住み、そのためアフリカのダンス文化がもっとも色濃く残る土地でした。だからこそ、そこに住んでいた黒人たちの多くがこの時期リオへと移住したことで、そこにアフリカ音楽の文化が持ち込まれることになったのでした。

<チアのもとで>
 こうして、リオにやってきた黒人たちの多くは、リオの中心部プラッサ・オンゼ(第11広場)と呼ばれる地域に住みついていました。そこは「小アフリカ」と呼ばれるほど、アフリカ文化の色を深く残しており、チア(おばさん)と呼ばれる長老的存在のお婆さんの家を中心にダンス音楽、そしてオリシャー(アフロ・ブラジルの神)への礼拝などが行われていました。そんなチアの中でも当時最も有名な存在、それがチア・シアータことイラーリア・バチスタ・ヂ・アルメイダという女性でした。オリシャーの礼拝所もある彼女の家には、カーニバルの常連やジャーナリストなどとともに若手の優れた音楽家たちもたむろしていました。その中には、ピシンギーニャ、ドゥンガ、シニョー、ジョアン・ダ・バイアーナなど、その後のサンバの歴史をつくる大物たちがおり、彼らはシアータの家に集まってジャムセッションを行いながら、リオ・デ・ジャネイロ産の都会的なサンバを生み出すにいたるのです。
 その中でも名門の家の出で正式な音楽教育も受けていた作曲家、シニョーは、後に「サンバ王」と呼ばれるほど、この後10年にわたってヒット曲を連発し、サンバを普及させる原動力となります。

<サンバの誕生日>
 その頃、ブラジルで流行っていたポップスの中にサンバはまだありませんでした。ルンドゥー、マルシャ、ショーロ、マシーシ、バトゥーキなどと呼ばれる今ではあまり聴かれなくなった音楽でした。これらの音楽のうちマルシャとマシーシに、ヨーロッパからやって来たポルカとアバネーラ(ハバネラ)を加え、複雑でシンコペーションの効いたリズムで演奏することで、それまでなかったポップなサンバが生まれたのでした。
 1916年、前述のチア・シアータのもとで生まれ、レコードとして発売された最初の曲「ペロ・テレフォーニ(電話にて)」こそ、歴史上最初のサンバと呼ばれる曲です。そして、その曲は、翌1917年にバイアーノ Baianoが歌ったものと、バンダ・ヂ・オデオンの録音、二つのヴァージョンが発売されて見事にヒット。さらには翌年のカーニヴァルのテーマ曲の一つとなり、そのおげで大ヒットします。これがサンバ人気が全国的なものとなるきっかけとなりました。
 1916年12月16日、この曲は、歴史上初のサンバ・ナンバーとして公式に登録されています。ひとつの音楽の誕生日が、これだけ明確になっているというのは非常に珍しいことです。ただし、この曲の作者については、そう明確ではありません。公式にはサンバの有名作曲家、ギタリストのドゥンガとジャーナリストのマウロ・ヂ・アルメイダ、この二人が作曲家ということになっていますが、著作権については何度もトラブルが起き、はっきりとはしていません。実際、この曲はチア・シアータで毎日行われていたジャム・セッションによって少しずつ完成させられたものであり、単純に作者を特定することはすることはもともと無理だったと考えられます。しかし、こうしてジャム・セッションによって楽しみながら作り上げられた曲だからこそ、サンバという音楽は高度で複雑なリズムを持ちながら、誰もが楽しめる究極のダンス・ミュージックとなり、世界中の人々を躍らせることになったのでしょう。
 この後、1920年代に入るとレコード産業が発展をみせ始め、それまでカーニヴァルのテーマ音楽として選ばれることを目標にしていたサンバは、レコードとしてヒットすることも重要視されるようになてゆきます。そうした変化の中、サンバは「サンバ・カンサォン」のような歌謡サンバのようなものも生み出し、人々が口ずさめるメロディーをもつヒット曲となりうるポピュラー音楽として大きな発展を遂げてゆくことになるのです。

<サンバとは?>
 サンバの歌い手でもある森本タケルさんは、こう定義しています。
(1)基本的に2拍子の音楽である。
   (この2拍子を刻むのが、スルドと呼ばれる小型のバス・ドラム)
(2)複数の打楽器がそれぞれ違ったリズム・アクセントで絡み合い、そのリズムの食い違いが必ず数小節後の頭でピタッと合うという面白さがある。
(3)歌のアクセントとシンコペーションの自由な使い方
(4)ハイ・グレードなコード進行
(5)コーラスはユニゾンが基本
「ブラジル音楽なんでも百科」別冊ミュージック・マガジンより

<世界一の人種融合国ブラジル>
 ブラジルは世界で最も人種融合が進んだ国といわれています。人種の種類だけからいうと、アメリカこそ最も複雑な多人種国家といえますが、アメリカの場合はそれぞれの民族は独自の居住区を形づくったり、ひとつの地域や街に集中して住む傾向が強く、文化的にも言語的にも融合が進んでいないといわれています。(英語をしゃべれないスペイン系住民が急増している現実もあります)
 それに比べブラジルにも白人、黒人間の差別がないわけではありませんが、ポルトガル語という共通言語をもち、混血化も非常に進んでいて、白黒の区分けは無意味なほどに皮膚の色はバラバラです。(もちろん、それでも色の白さ、黒さによって差別が存在することも確かです)そして、こうしたハイパー混血国家だからこそ、複雑なリズムの絡み合いを特徴とするサンバという音楽が生まれたと考えてよいのかもしれません。この違いは宗主国であるアングロサクソン民族(北米)とラテン民族(南米)の差別意識の違い、宗教観の違いなどから来ているのでしょう。

<この後のサンバ>
 サンバはこの後すんなりとカーニバルの中心音楽になったというわけではありません。この後も、カーニバルのテーマ曲にはマシーシやマルシャ、バトゥーキなどに分類される曲が選ばれています。しかし、サンバの基本リズムを生み出すスルド(大太鼓)の登場と、それを用いた2拍子リズムの強調によって、サンバは他の音楽とはっきりと違うダンス音楽へと変化してゆき、ついにはカーニバルの主役の座を勝ち取ることになったのです。さらにこうして、サンバがブラジル全土へと広がってゆく流れは、バイーア発の音楽がブラジルの音楽だけではなく世界のポップス・シーンにまで影響を与えることになるきっかけでもありました。
 それにしても、バイーアからやって来たシアータおばさんの小さな店、その店が世界中の音楽を変えてしまうことになるとは、・・・。それは、ほんのささいな出来事が少しずつ影響を与え合い、大きな事件へと発展してしまうという「複雑系」の考え方を思い出させます。
「中国で蝶が羽ばたくと、その影響が気候にちょっとした変化を与え、そこから伝播した影響が地球の裏側アメリカで台風を巻き起こす」そんな複雑系の科学を研究するまでもなく、歴史は確かにそうした事実の存在を証明しているのです。
 1916年12月16日という日は、まさにそんな歴史の転換点として語り継がれるべき日なのかもしれません。

<1916年の出来事>
第一次世界大戦「ヴェルダンの戦い」始まる
アメリカVSメキシコ戦争
アイルランドのシンフェイン党による暴動発生
イギリスでロイド・ジョージ戦時内閣成立
ロシアで政局に大きな影響力を持っていた怪僧ラスプーチン暗殺される
アラブ反乱軍によるアカバ攻略

<文学、思想>
「帝国主義論」ウラジミール・レーニン
「高瀬舟」森鴎外
吉野作造、自らの論文によりデモクラシーを唱道


<美術>
スイスのチューリッヒにて、ドイツ人芸術家フーゴ・バルが開設した「キャバレー・ボルテール」で行われた夜会からチューリッヒ・ダダがスタート
「トリスタン・ツァラの肖像」ジャン・アルプ(スイス)
「女綱渡り芸人は自分の影を伴う」マン・レイ

<音楽>
「ビール・ストリート・ブルース」W・C・ハンディ
キューバ出身のエルネスト・レクォーナがニューヨーク・デビュー

<時代を変えた発明、モノ>
「ソンムの戦い」でイギリス軍が戦車を投入(第一次世界大戦)
コカコーラがルートグラス・カンパニー社デザインの「メイウェスト」ボトル採用

<映画>
イントレランス」D・W・グリフィス(元祖スペクタクル映画)

<1916年の物故者>
イリヤ・メチニコフ(微生物学者)
エルンスト・マッハ(哲学者、物理学者)
袁世凱(中華民国大総統、軍人)
オディロン・ルドン(画家)
コール・ヤンガー(ジェシー・ジェイムスらと行動を共にしたガンマン)
パーシヴァル・ローウェル(天文学者)
フランツ・マルク(画家)
ヘンリー・ジェイムズ(小説家)
上田敏(文学者、評論家)

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