1917年

- ジャン・コクトー Jean Cocteau , エリック・サティ Eric Satie -

<バレエ「パラード」>
 第一次世界大戦真っただ中のこの年、フランスのパリで「パラード」というタイトルのバレエが上演されました。演じたバレエ団は当時世界最高と言われていたディアギレフ率いるロシア・バレエ団(バレエ・リュス)。その舞台の台本を書き、全体の仕掛け人でもあった人物は、詩人のジャン・コクトー Jean Cocteau。彼に誘われて、このバレエの美術と衣装を担当したのは、20世紀を代表する画家ピカソ。そして音楽を担当したのが多くの謎につつまれた異色の作曲家エリック・サティーでした。
 まさに夢の共演ともいえるこのバレエは、暗い時代にも関わらず興行的に上手くいっただけでなく批評家たちからも高い評価を受けました。

「『ペレアスとメリザンド』(ドビュッシー作)はわれわれを恍惚とさせ、『春の祭典』(ストラヴィンスキー作)はわれわれに衝撃をあたえ、『パラード』はわれわれに語りかける」
フランスの雑誌、コメディア誌評

 それぞれの分野における超一流のアーティストたちが集結したこの作品の出来栄えについては、それぞれが不満をもっていたとも言われていますが、まわりの評価は上々でした。特にメンバーの中でも年長者だったエリック・サティにとっては、もしかするとこの時期が最も幸福だったのかもしれません。
 今でこそエリック・サティの名は近代クラシック音楽もしくは初期現代音楽を代表する作曲家として有名な存在ですが、彼が代表作の「ジムノペティ」や「グノシェンヌ」を発表した19世紀末、ほとんどの人は彼の名を知りませんでした。

<ドビュッシー>
 19世紀末、彼はパリの有名なキャバレー「黒猫」で第二ピアニストとして雇われ、その店で多くの美術家たちと知り合うことになり、それが後に「パラード」へとつながることになります。
 この頃知り合った友人の中にクロード・ドビュッシーがいました。彼はすでに作曲家として人気者になっており、ロバート・ワグナーによって19世紀に確立されたオペラを超える新しい形を求めて作品を発表し始めていました。その結果生まれたオペラ「ペレアスとメリザンド」(1902年)によって彼は一躍時代の寵児となります。二人はお互いに才能を認め合う仲でしたが、サティの気持ちの中では完全に置いていかれた状態にあったようです。

<異色の存在>
 意外に世のトレンドに敏感だったといわれるサティは、当時流行の最先端だったの街、モンマルトルの住人となったり、当時人気最高の秘密結社だった薔薇十字会に入会したり、そうかと思えば30歳を過ぎて音楽の勉強をしなおそうと音楽学校(スコラ・カントルム)に入学したりと努力を続けていました。それだけでも、彼は十分に異色の音楽家といえるのかもしれません。しかし、それ以上に彼が音楽家として異色の存在と思われるようになったのは、彼が生み出した数多くのパロディーとも思われる不思議な作品名の数々です。
 例えば、モーツァルトの「トルコ行進曲」のパロディーといわれる曲として「でぶっちょ木製人形へのスケッチとからかい」という曲があります。そうかと思えば、「なまこの胎児」とか「甲殻類の胎児」というような冗談としか思えない作品群もあります。タイトルのわりには曲自体はいたって大真面目というところがかえって可笑しいともいえます。面白いのは、彼の場合作品は楽譜上の音符だけではなく、そこに書き込まれた多くの注意書きや意味不明の言葉もまた一つの作品のように思えることです。
 例えば、前述の「でぶっちょ木製人形へのスケッチとからかい」の第一楽章「トルコ風のチロル舞曲」にはこんなことが書かれています。
「用心して、ゆっくりと、・・・のどの中で・・・ちと暑い・・・眼の先から・・・あらかじめつつしみ深く・・・とてもトルコ風に・・・」
 そうかと思えば、「なまこの胎児」には、演奏に関してこんな指示も記されています。
「『歯痛をもつ夜ウグイスのように』ソフトな演奏をこころがけよ」
 こうした書き込みは、一時期は楽譜のまわりの空白をほとんど埋め尽くすほどに増えたこともあり、それが音楽とは別のもうひとつの作品のように思える場合すらあったようです。(最近のエリック・サティの演奏会では、曲を演奏しながらこうした彼の文章を朗読する場合もあるくらいです)

<サティ再評価>
 これだけ変わり者の作曲家だけに、曲自体もやはり一ひねりも二ひねりも違うものだったようです。だからこそ、それらの曲が認められるまでに10年以上の年月がかかったのかもしれません。それでも1910年代に入ると、それまでの古典的なクラシック音楽に対する反発もあり、いつしかサティーの曲が再評価されるようになります。時代は限られた人々のための芸術から、大衆のための芸術が求められる時代へと変わりつつありました。こうした流れは、ロックの時代だけではなく、クラシックの時代でもあったことのようです。
 さらに、ドビュッシーに代わって人気者になりつつあった新進の作曲家、ピアニストのラヴェルが、サティの「サラバンド」「ジムノペディ」などの曲を1911年に行われたコンサートで取り上げたことで、彼の初期作品に対する評価が一気に高まりました。(なんだか、最近の若手ミュージシャンたちが作るトリヴュート・アルバムを思わせます)
 すでに40代後半になっていた彼に対する若者たちからのリスペクトは彼を戸惑わせましたが、自分の作品が大衆に指示されることはありえないと思いかけていた彼は、ここで再びやる気を起こしました。そして、ちょうどこの時期にジャン・コクトーから「パラード」への参加依頼が来たのです。

<ジャン・コクトーと「パラード」>
 ジャン・コクトーによる「パラード」の企画は、すでに1912年ごろにはあったものの、ストラヴィンスキーに音楽を断られるなど足踏み状態にありました。しかし、なんとしてもこの企画を実現したかったコクトーは、じっくりと時間をかけて準備を進めてゆきました。
 先ずはセルゲイ・ディアギレフ率いるロシア・バレエ団(フランス読みでバレエ・リュス)。伝説のバレエ・ダンサーであり優秀な振付師でもあったニジンスキーを失ったディアギレフは、新たな振付師として若手のレオニード・マシーンを雇いました。しかし、一時期の勢いを失いつつあった彼のバレエ団にとって、コクトーが持込んだ革新的な企画は願ってもないことでした。そして、再評価によってやる気満々になっていたサティー。カリスマ的な詩人コクトーの説得により、彼もまたすぐにその企画への参加を了承しました。
 そして、もうひとり美術と衣装を任されることになったのが、すでに美術界で高い評価を得ていたピカソでした。彼は当時最愛の女性エヴァを結核で失い、キュビズム以降の展開を模索する日々でもあり、友人でもあったコクトーからの誘いはまさに渡りに船だったようです。

<「パラード」とは?>
 「パラード」とは、サーカス団が観客を呼び込むためにテントの外でピエロの芸など出し物の一部を見せる宣伝活動のことです。このバレエ作品は、こうした「パラード」を街で行うサーカス団とその街で暮らす人々、そしてサーカスの経営者たちの対比を描き出すストーリーになっています。
 ピカソはこのバレエの背景を描き、舞台美術と衣装のデザインを行い高い評価を得ました。(衣装デザインには、ココ・シャネルも参加していました)ピカソがそれまで蓄積してきた絵画の集大成的な舞台美術はさすがに人々をうならせましたが、それに比べるとサティの音楽はけっして目立つ存在ではありませんでした。彼は自ら音楽についてこう語っていました。
「登場人物の雰囲気をはっきりさせるために、ある種の物音のはいった背景音楽が不可欠だと台本作者は考えていたが、私が作曲したのはその背景音楽である」

 彼はある画廊で「家具の音楽」の演奏会を行った際、熱心に聴き入る観衆を見て、思わずこう叫んだといいます。
「聴くな!おしゃべりを続けろ!歩きまわるんだ!」

 その後、彼はその発展形として「家具の音楽」というスタイルを打ち出し、「放蕩者ならいつでもござれ、悪党なんぞはまっぴらだ」(マックス・ジャコブ作)という芝居の幕間にその演奏を行ないました。1920年に実現したこの演奏は、音楽の歴史上、初の「環境音楽」の演奏会だったとも言われています。
「必ずや選ばれた者を虜にし、全世界を喜悦のうちに芸術と風習とをことごとく一新することを約束する新精神の一連の発想の端緒」
ギヨーム・アポリネールによるプログラムに書かれた言葉
 この時、「パラード」を見に来た観客たちは、その後1920年代パリのアール・デコ芸術を育ててゆくことになります。

<大衆のための音楽>
 コンサート・ホールで聴くドラマチックなクラシック音楽とは異なる「生活の背景」となるようなミニマルな大衆音楽。この始祖の一人がサティだったと言えそうです。レコードが普及し、貴族ではなく一般大衆が音楽を聴くようになった1920年代。新しいポピュラー音楽の主役はクラシックではなくジャズになってゆきますが、サティはそのことを知ることなく1924年にこの世を去りました。異常なほどの頑固者だったといわれるサティは、流行のジャズに色目を使うことはまったくなかったようです。それどころか、死が迫ってからもなお、彼はたった一人で家に閉じこもり、作曲活動を続けていました。彼にとっては、もう回りの雑音などどうでもよかったのかもしれません。
 歴史上最も偏屈な音楽家とも言われるサティをひっぱり出し、世紀のコラボレーションを実現させたジャン・コクトーのカリスマ性に改めて感心すると同時に、二度と再現することのできない「世紀のバレエ」を誰か映像作品として蘇らせてくれないかとも思います。
 かつて考古学者は古代の文明を掘り起こし、復元することに夢をかけましたが、これからはこうした近代芸術の復元もまた一つの夢になるように思います。

「ひとりで歩け、私とは反対のことをやるのだ。誰のいうこともきいてはいけない」
エリック・サティー
 自らの死の4年前、55歳の時、彼を支持する若い作曲家たちに語った言葉。彼は「サティ派」のようなグループが生まれることを望んではいなかったのです。

<追記:「ホット・ジャズ・トリオ The Hot Jazz Trio」>
 このバレーに関った天才たちジャン・コクトー、ピカソ、サティらの世界をイメージさせる作品があります。ウィリアム・コツウィンクル William Kotzwinkleという作家が書いた小説「ホット・ジャズ・トリオ」(1989年)です。なんと主人公はジャンゴ・ラインハルトとそのバンド。そして、その脇役として登場するのがジャン・コクトー、パブロ・ピカソ、エリック・サティ、そのほかにもちょい役でロッシーニ、アンドレ・ブルトン、ココ・シャネルなども登場するという異色の幻想小説です。
 シュルレアリスムの奇才サルバドール・ダリが創造した柔らかくねじれた不思議な世界と当時世界中のアーティストが憧れた芸術の都、パリが融合した世界。サイケデリックなトリップ感覚は、当時コクトーをはじめ多くの芸術家がはまっていた阿片によるものだったとも考えられますが、読者はいつしか眩暈すら覚えるかもしれません。
 この小説の著者コツウィンクルは1938年ペンシルバニア州スクラトン生まれのアメリカ人です。彼は1975年には「Swimmer in the Secret Sea」でOヘンリー賞、1976年の「Doctor Rat」では世界幻想文学大賞を受賞しています。しかし、たぶん彼の最も売れた小説は、あのスピルバーグのヒット映画「ET」のノヴェライズ版でしょう。アメリカを代表する幻想文学の作家がノヴェライズ本も書かないと食べてゆけない?そういうことなのでしょうか?

「ホット・ジャズ・トリオ The Hot Jazz Trio」
ウィリアム・コツウィンクル William Kotzwinkle(著)
橋本槇矩(訳)
福武書店

<1917年の出来事>
ロシア革命起きる(ニコライ2世が退位しロマノフ朝が終わる)
アメリカが対独宣戦布告
バルフォア宣言によりユダヤ人の自治が英国により約束される(イスラエル建国への布石)
T.E.ロレンス率いる反乱軍がオスマン帝国からアカバを奪取
ドイツ軍爆撃機がロンドンを攻撃
モンターギュ宣言によりイギリスがインドに自治権の暫時供与を約束
スペイン風邪が1918年にかけて猛威をふるい世界中で2千万人以上が死亡
新聞社経営ジョゼフ・ピューリッツァーの遺志からピューリッツァー賞が設立される
ニューオーリンズのストーリーヴィルがアメリカの参戦により閉鎖される(これがきっかけでジャズ、ブルースが北上

<音楽>
「わが悲しみの夜」カルロス・ガルデル(タンゴ歌謡のブーム始まる)
「馬小屋のブルース」オリジナル・デキシーランド・ジャズ・バンド(白人ジャズバンドによるジャズの初録音作品)
「電話で(ペロ・テレフォーニ)」(1)バイアーノ(2)バンダ・オデオン(最初のサンバといわれる曲カーニバルで歌われてヒット)
「オーヴァー・ゼア」ジョージ・M・コーアン作(アメリカの戦意高揚曲)

<美術>
「泉」マルセル・デュシャン(20世紀のアートに、最も大きな影響を与えた作品とも言われる前衛アートの原点)
「偶然の法則に従って配置された矩形」ジャン・アルプ(スイス)
「偉大なる形而上学者」ジョルジョ・デ・キリコ
ワシーリー・カンディンスキーがモスクワ芸術文化研究所の館長に就任

<文学>
「月に吠える」萩原朔太郎
「城の崎にて」志賀直哉


<時代を変えたモノ、発明>
「味の素」誕生(鈴木商店)
「アンクル・サム・ウォンツ・ユー」兵士に志願することを求める有名なポスター

<1917年の物故者>
スコット・ジョップリン(ラグタイムの王様)
バッファロー・ビル(西部開拓時代のヒーロー)
エドガー・ドガ(画家)
オーギュスト・ロダン(彫刻家)
フェルディナンド・フォン・ツェッペリン(ドイツの飛行船開発者)

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