1919年

- アル・ジョルソン Al Jolson -

<アメリカン・エンターテナーの原点>
 この年、今ではスタンダード・ナンバーとなっている名曲「スワニー」を、人気歌手のアル・ジョルソンが歌って大ヒットさせました。そのおかげで作者のジョージ・ガーシュインの名は一躍ヒット・メーカーとして有名になり、その後の大活躍が始まることになります。しかし、その曲をヒットさせた歌い手のアル・ジョルソンにとっては、「スワニー」よりも彼が後に出演する映画界初のトーキー作品「ジャズ・シンガー」の方が、有名かもしれません。彼が残した「お楽しみは、これからだ!」という名セリフは映画の歴史とともに永遠に語り継がれるでしょう。でも、彼にとって映画の仕事は本業ではありませんでした。彼は映画界初のミュージカル・スターではあっても、それ以上に「歌って踊れるエンターテナー」の原点というべき存在なのです。

<厳格なユダヤ系家庭に生まれて>
 アル・ジョルソンは本名をアル・ヨールソン Asa Yoelsonといいます。1886年5月26日東欧のリトアニア(旧ロシア)のセレジウスという街で生まれました。生活が苦しく、ロシア国内でもユダヤ人差別が激しかったことから、彼らは自由の国アメリカへの移民を決意しました。それは彼がまだ幼かった頃のことでした。しかし、彼がアメリカで活躍を始めた20世紀初め、ユダヤ系の移民は経済的にも貧しく、宗教もユダヤ教という他の白人の多くが信じるキリスト教とは異なるものだったことなどから差別の対象となっていて、黒人の奴隷たちを除いた白人たちの間で最も低い階層に位置していました。
 彼の父親は代々続いてきたユダヤ教の典礼を朗読する特別な役割をもつ厳格なユダヤ教徒でした。しかし、ワシントン・DC育ちの彼にとっては典礼を朗読するよりも流行のポップスを歌うことの方がずっと魅力的でした。結局彼は父親の後継者となることを止め、ミュージシャンの道を歩むことにしますが、父から受け継いだ血筋はけっして無駄にはなりませんでした。

<ミンストレル・ショー>
 当時、エンターテイメントの世界では白人が顔を黒く塗って黒人のマネをして歌う歌謡ショー(ミンストレル・ショー)が大人気でした。父親ゆずりの声を持つアルは、そのショーで大人気となり、観客たちは彼のことを南部育ちで、なおかつ黒人の乳母に育てられたに違いないと思ったそうです。こうして、1910年代、ヴォードヴィル界の人気者となった彼は前述の「スワニー」以外にも「トゥート・トゥート・トゥーツィー」「カリフォルニア・ヒア・アイ・カム」「マイ・マミー」など、当時最高のヒット曲製造基地だったティンパン・アリーで生まれた曲を次々にヒットさせてゆきました。エンターテナーとして絶頂期だった1911年から1925年にかけて、彼はブロードウェイのウインター・ガーデン劇場で毎週8回ものショーを行ったといいます。当時はまだラジオ放送はなく、レコード産業も小規模なものだっただけにブロードウェイの大スターはそのまま全米ナンバー1のスーパー・スターだったといえました。
 そのうえ前述の「スワニー」はレコード業界初のミリオン・セラーとなり、まだまだ大きな比率を占めていた楽譜販売も含めて、250万枚の売り上げを記録する空前のヒットとなりました。だからこそ、彼は20世紀のポピュラー音楽が生んだ最初のスーパー・スターだったのです。

<エンターテナーとしての裏技>
 しかし、彼がスーパー・スターになったのは、歌の上手さだけではなく、観客との交流や舞台上での演出など、スターとしてのイメージを作りあげる戦略を自ら考え出し、上手く使いこなしたからだとも言われています。
 例えば、切符売り場にゆき、そこで列を作っている観客とおしゃべりをしたり出番の前にクラリネット奏者として舞台下のオーケストラに参加したり、ショーの途中でわざとドラマを中断して観客のリクエストに答えるかたちで何曲も歌を歌ったり、観客の心をひきつけるいろいろなテクニックを用いるそのショーマン・シップは、アメリカン・ショービジネス界の基礎となたともいわれます。
 ステージへの役者の登場や退場に使われる「花道」は、観客が役者により近づけるよう身近に感じられるようにと、彼が考え出したアイデアだったそうです。

<エンターテナーの裏の顔>
 ただし、そうした彼のスターとしての優れた才能とは裏腹にプライベートでの彼の評判はあまり良いものではありませんでした。
「彼は傲慢で、冷酷で、粗野で、衝動的で、残酷で、計算高く、無分別で、おまけに無知だ」ヴァラエティ誌のある批評家
 こうした評価に対し、彼の4人の妻のうちの一人は、それでは言い足りないと言ったとか・・・。
しかし、このあたりは映画「ドリーム・ガールズ」に描かれているダイアナ・ロスのように厳しいショービジネス界を生き抜くためには仕方のない生き方だったのかもしれません。

<映画スターとしての顔>
 その後、彼は1927年に前述の映画「ジャズ・シンガー」(監督はアラン・クロスランド)でトーキー映画のスターとしてデビューし、10本の映画に出演しました。特に有名なのは「シンギング・フール」(1928年)、「カジノ・ド・巴里(Go Into Your Dance)」(1935年)、「マミー」(1930年)などですが、残念ながら映画スターとしての彼はあまり高い評価を得ることはできませんでした。どうやら、彼は映画の仕事を初めから楽しんではいなかったようです。ちょうど同じ頃、彼はラジオ番組も持つようになりDJとしていくつもの番組を担当しましたが、それらの仕事も彼はあまり楽しんではいなかったようです。ラジオ番組とはいえ、どの番組にも台本はあったようで、彼はそうした台本どうりにしゃべるということが大嫌いだったのです。彼はあくまで観客を目の前にして彼らを楽しませることにこそ生きがいを感じていたのでしょう。そう考えると、彼が映画スターとして活躍できなかったのもうなずけるかもしれません。
 こうして、彼はヴォードヴィルの時代が終わり、レコードの時代が始まるとともに、しだいにその名を忘れられてゆくことになります。

<人気復活>
 その後再び彼の名前が世間に知られるようになったことがありました。第二次世界大戦と朝鮮戦争の際、彼はボランティアとして兵士たちを慰問するためのショーを行い、その存在を人々に思い出させたのです。死と隣り合わせの兵士たちを楽しませることで、久しぶりに彼は生きがいを感じていたのかもしれません。そして、もう一度は彼が亡くなる4年前の1946年に作られた彼の伝記映画「ジョルソン物語 The Jolson Story」(監督はアルフレッド・E・グリーン)が公開された時、彼は脚光を浴びることになりました。この映画は続編となる「ジョルソン再び歌う」(1948年)が作られるほどの大ヒットとなり、未だに映画史に残る傑作といわれています。彼はその映画で歌の吹き替えを行い、久しぶりにその名前が蘇ることになりました。

<淋しい最期>
 残念ながら、彼は1950年64歳で心臓麻痺のためにこの世を去りましたが、その時彼の存在はかつての人気が嘘のように過去の存在になっていました。今にして思えば、彼の最も知られた姿は「黒塗りの顔」であり、それが黒人差別の象徴と考えられるようになったというのは、彼にとって痛かったかもしれません。彼の名は差別の象徴として公民権運動の指導者たちに用いられることもあり、それが彼のイメージを古臭いものにしてしまったかもしれません。さらに彼にとっては、その黄金時代でもあったヴォードヴィルでの活躍期の映像がまったく残っていないことも残念なことです。
 でももしかすると、彼にとっては、かつてコンサートで歌ったその時の幸福感と観客の喜びにこそ価値があり、それ以外はもともとどうでも良かったのかもしれません。彼にとっては、それぞれの瞬間における観客たちの「お楽しみの笑顔」こそが最高のものだったのかもしれないのです。

「お楽しみはこれからだ! You ain't heard nothin' yet」
映画「ジャズ・シンガー」、そして、彼がステージで使っていた名ゼリフより

<1919年の出来事>
国際連盟第一回総会開催
パリ講和会議、ヴェルサイユ条約調印
禁酒法(ボルステッド法)施行される(米)
アメリカ共産党設立
アイルランド共和国独立宣言
スパルタクス派暴動(カール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルクら惨殺される)(独)
ドイツ共和国憲法(ワイマール憲法)
ハンガリーでプロレタリア革命起きる
第3インターナショナル(コミンテルン)結成
ケマル・パシャ国民党を結成
ガンディーを中心とする反英不服従運動始まる
五・四運動(中国における排日運動)
朝鮮万歳運動(三・一運動)
野口英世による黄熱病の研究
ラザフォードが原子崩壊を確認

<音楽>
「スワニー」アル・ジョルソン
ミュージカル「ヒッチ・クー」コール・ポーター作
レフ・テルミンが電子楽器の先駆となる「テルミン」を開発(露)

<映画>
D・W・グリフィス、ダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォード、C・チャップリンがユナイテッド・アーティスツ設立
「幸福の谷」D・W・グリフィス(出)リリアン・ギッシュ
「散り行く花」D・W・グリフィス(出)リリアン・ギッシュ、リチャード・バーセルメス
「キネマ旬報」創刊

<美術>
「大聖堂」ライオネル・ファイニンガー
「扇をもつ女」アメデオ・モディリアーニ
「鳩と2人の女:ローランサンとニコル・グルー」マリー・ローランサン
「R荘」パウル・クレー
ドイツ、ワイマールに国立美術工芸学校(バウハウス「建築の家」)
(建築家ヴァルター・グロピウスなによる)

<文学、思想>
「月と六ペンス The Moon and Sixpence」ウィリアム・サマセット・モーム(米)
「田園交響楽」アンドレ・ジイド(仏)
「精神分析入門」ジークムント・フロイト(無意識の発見)
「或る女」有島武郎


<時代を変えたモノ、発明>
ココ・シャネルのジャージー・スーツ登場
山脇高等女学院、学生服にセーラー服を採用

<1919年という年>
「第一次世界大戦は、その結果「王様たち」が消えてゆく戦争で、言い方を変えれば『古い時代の最後の戦争』である。だから、これをきちんと終わらせていれば、第二次世界大戦だって起こらなかったかもしれない・・・」
「二十世紀」橋本治著

<1919年の物故者>
アンドリュー・カーネギー(実業家)
エルンスト・ヘッケル(生物学者)
セオドア・ルーズベルト(第26代アメリカ合衆国大統領)
ピエール・オーギュスト・ルノワール(画家)
板垣退助(自由民権運動の指導者)
松井須磨子(女優)

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