
1921年
- イサドラ・ダンカン Isadora Dunkan -
<ダンスの女神、ロシアへ>
この年、ダンスの世界に新風を巻き起こし続けてきた舞踏家イサドラ・ダンカンが故郷アメリカから遥かに離れた土地、ロシアでイサドラ・ダンカン国立学校を設立。革命後のロシアで古典バレエとは異なる新しいダンスを育てる試みに挑戦することになりました。これは革命によった体制が変わったばかりの新生ロシアにとっても、伝統から脱却する試みの一つでしたが、それ以上にイサドラ・ダンカンという偉大にダンサーにとって人生を賭けた最後の挑戦でした。この時、彼女はいろいろな意味で後戻りのできない厳しい状況に追い込まれていたのです。 自由を追い求めてダンスに人生を賭けた舞踏家は、自由の国アメリカを離れ、革命によって今まさに自由の国を作ろうとするソ連へと渡りました。実は、そうした彼女の波乱に富んだ人生こそが、イサドラ・ダンカンの踊りを生み出す最大の原動力でした。なぜなら、彼女の踊りは、彼女の活き方そのものだったからです。
<ダンスの新しいスタイル>
20世紀初め、伝統を誇るロシア・バレエは別格として、それ以外のダンスはほとんど消えかかろうとしていました。(もちろん娯楽として踊られるダンスは別です)そんな中、3人の女性ダンサーの登場が、新しいダンスの地平を切り開きました。
ロイ・フラー、ルース・セント・デニス、そしてイサドラ・ダンカンです。3人は全員がアメリカ生まれで、ダンスともバレエとも縁のない家庭で育ちました。このことは、バレエの伝統を持つヨーロッパから新しいダンスが生まれなかった理由をよく表わしているのかもしれません。伝統をもたない国だからこそ生まれた新しい芸術。これは後にアメリカを中心に盛り上がりをみせることになるモダン・アートやロックン・ロールの誕生とも共通することだと思います。
さらにいうなら、ビート世代だけでなく60年代に活躍する多くのアメリカ人アーティストたちが青春期にヨーロッパ留学をしたり、旅をしたりしていることもまた重要でしょう。(ジョン・ケージ、コール・ポーター、ヘミングウェイなど「失われた世代」の作家たちなどなど)20世紀前半に登場した新しい文化の多くは、アメリカの自由の風土とヨーロッパの伝統が出会うことで生まれたのです。(20世紀後半になるとこの融合の輪は全世界規模、もしくは第三世界の文化へと広がりをみせ、世界規模のミクスチャー文化を生み出すことになります)
<イサドラ・ダンカン>
イサドラ・ダンカンは1877年5月26日、カリフォルニア州のサンフランシスコで生まれました。彼女の両親は早くに離婚していたため、彼女の兄妹たちはピアノ教師をしていた母親の手で育てられました。そのため、彼女は小学校しか出ておらず、自然豊かな田舎で自由奔放に遊びまわる幼少時代を過ごしました。母のピアノ伴奏でダンスを踊ることを憶えた彼女はダンサーを目指してニューヨークへと旅立ちました。1899年、彼女はロンドンに渡り、そこでギリシャの芸術について学ぶ中から、音楽をバックに踊るのではなく音楽そのものを踊るという新しいスタイルを模索するようになりました。翌1900年、パリ万博の年に彼女はフランスへと渡ります。いち早くアメリカから渡って人気を博していたロイ・フラーや日本からやってきた川上貞奴などは、彼女にとっても大いに刺激になりました。
しかし、彼女のダンスはフランスでは当初受け入れられず、彼女はスタジオにこもって何かをつかもうと必死で踊り続けました。そんな中から彼女は自分の運動の中心「ソーラー・プレクサス」の存在に気づきます。それ以後、彼女の踊りは音楽をじっと聴き、自らの中心から自然に身体が動き出すのを待って、それに身をゆだねることで生まれるようになります。
彼女は「未来の舞踊」(1903年)の中でこう書いています。
「自然こそ舞踊の根源である。裸に回帰した人間の動きは自由な動物たちのように自然で美しい。芸術におけるもっとも高貴なものは裸身である。・・・」
こうした自らの考えを元に1904年ベルリン近郊にダンカン・スクールを創設。その後この学校はパリ、ニューヨーク、モスクワにも設立されました。
<バレエの聖地、ロシアにて>
1905年、彼女はダンスが未だに芸術として確固とした地位を保つ国、ロシアへと旅をし、そこで大勢のバレエ・ダンサーたちの見守る中、自らの集大成ともいえる踊りを披露しました。彼女の踊りは、ある意味伝統的なバレエに対する反抗の表現であったにも関わらず、ロシアの観客の多くは彼女の踊りに大きな感銘を受け、拍手と歓声で答えました。それどころか、彼女の自由な肉体による表現は、その後ロシア・バレエの方向性をも大きく変えることになります。ニジンスキーやフォーキンが所属していたディアギレフ率いるバレエ・リュスに与えた影響は、特に大きなものがあったといわれています。
<喜びのダンス>
当時の彼女のダンスで特に有名なのは「美しく青きドナウ」をバックに踊るもので、そこには「人生の喜び」が表現されているだけでなく観客をも巻き込むほどにあふれ出していたといいます。当時の彼女の人生は「喜び」そのものであり、だからこそ観客もその「喜び」に共感をおぼえていたのでしょう。(残念ながら、この頃の彼女のダンスの映像はまったく残っていないそうです)しかし、そうした「喜び」の人生がいつまでも続くことはありませんでした。1913年4月19日、突然彼女の「喜びの時」は永遠に失われることになりました。
彼女が愛してきた二人の男性との間に生まれた二人の子供たちが、突然事故で亡くなってしまったのです。こうして、これ以後の彼女のダンスからは「喜び」の表現は失われ、「悲しみ」こそがそのテーマになってゆきます。ところがそうして表現されることになった「悲しみ」は、彼女の人生だけでなく時代そのものを表わすものとなってしまいます。
1914年、サラエボの皇太子フランツ・フェルディナンドの暗殺をきっかけに第一次世界大戦が勃発。ヨーロッパ全体が戦火に巻き込まれてしまい、彼女の学校もすべて閉校に追い込まれてしまいました。数年間、彼女はまったく活動を行わず、その後活動を再開したものの、そのダンスには彼女自身とヨーロッパの苦悩を表現するものにならざるを得なかったのです。
<ロシアへ、最後の挑戦>
1921年、彼女は革命によって新しい国を作り始めていたロシアへと再起をかけて向かいました。そこで彼女はモスクワで活躍していた詩人のセルゲイ・エセーニンと生涯でただ一度の結婚をしました。(結婚という制度にとらわれていなかった彼女は恋人や子供はいても、未婚のままでした)そして、彼女は交響曲をバックに1000人の子供たちが踊るという企画を夢見て、ここで再びダンス学校を開校しました。
ところが、ロシア革命の描いた夢はすぐに挫折してしまいます。理想を達成するために必要な経済の発展が目標どおりに行かず、ロシア経済はすぐに厳しい状況に陥ってしまいました。そのため、彼女の学校への助成金はあっという間になくなってしまい、またもや学校は閉校に追い込まれてしまいました。行き場を失った彼女は、エセーニンと離婚、彼女同様精神的に大きな痛手を受けた彼はレニングラードで自殺を遂げてしまいました。それでも彼女は生活のためにダンスを踊り続けなければならなくなりますが、40歳をすぎた彼女のダンスはもうかつての輝きを失っていました。しかし、どちらにしても彼女に残された時間はごくわずかでした。
1927年7月にパリで公演を行った2ヵ月後の9月14日、大好きなスポーツ・カーでドライブに出かけようとしていた彼女は首に巻いていたスカーフが車輪にからまり死んでしまいました。
<イサドラ・ダンカンのダンス>
イサドラ・ダンカンのダンスは、彼女の天性の感覚が生み出したものだったため、技術的、肉体的な訓練はそれほど重要ではありませんでした。そのことは彼女のダンスは、彼女にしか踊れないということにもつながり兼ねず、そのため彼女のもとからは優秀な後継者が現れなかったのだともいわれます。しかし、モダン・ダンスの世界において、彼女の残した「内面表現の重要性」は、その後に大きな影響を与え続けており、ダンス以外のジャンルの芸術家たちにとってもそれは新しいスタイルを創造する大きなきっかけとなったことも忘れてはいけないでしょう。
(参考映画)彼女の人生については、映画「裸足のイサドラ」(1968年)があります。主演はヴァネッサ・レッドグレープで、彼女にとっての代表作のひとつです。動くイサドラの映像がないだけに貴重な作品かもしれません。
<1921年の出来事>
ワシントン軍縮会議(英米仏伊)
四ヶ国条約(日英仏による太平洋地域問題)
反動派によりワイマール派政治家の暗殺が行われる
ファシスト党と共産党との紛争が起きる(伊)
ケマル・パシャの国民軍がギリシャ軍を倒す(トルコ)
中国共産党結成される
北京原人発見される
アインシュタインがノーベル物理学賞受賞
メートル法の採用(日)
原敬暗殺され高橋是清内閣が成立
日本サッカー協会の前身、大日本蹴球協会設立
<音楽>
「ストライド・ピアノの父」ジェームス・P・ジョンソン初録音
英国国営放送(BBC)開局
<文学、思想>
「阿Q正伝」魯迅
「われら」エフゲニー・イワーノヴィッチ・ザミャーチン
「ハーマン・メルヴィル - 航海者・神秘家」レイモンド・ウィーバーが発表され、「白鯨」の再評価始まる
アナトール・フランスがノーベル文学賞受賞
国際ペン・クラブがロンドンで設立される

<映画>
「シーク」のヒットでルドルフ・バレンチノの人気が頂点に達する
<美術>
「近づく思春期・・・あるいはプレイアデス達」マックス・エルンスト
写真家、画家のマン・レイがパリに渡る
<1921年の物故者>
エンリコ・カルーソー(歌手)
カミーユ・サン=サーンス(作曲家)
ピョートル・クロポトキン(革命家)
ユリウス・リヒャルト・ペトリ(細菌学者)
20世紀年代記(前半)
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