フラメンコを蘇らせた詩人とスペイン内戦

1922年

- ガルシア・ロルカ Federico Garcia Lorca -
「スペイン内戦」
<カンテ・ホンド祭り>
 この年の6月13日と14日、スペイン南部アンダルシア地方の中心都市グラナダで第一回「カンテ・ホンド祭り」というコンクールが開催されました。そこで競われたのは、フラメンコ・ダンスで歌われている歌の中でも、特にこの地域独特の土の香りがする歌謡「カンテ・ホンド Cante Jondo」(深い歌という意味)の歌唱でした。
 現在でもフラメンコのスタイルは南部と北部で大きく違い、北部のフラメンコがどちらかというとダンスが中心なのに対し、南部のフラメンコは歌があくまでも基本になっています。(実は僕自身、以前スペインを旅したとき、グラナダとマドリードでフラメンコを見たのですが、両者はまったくといっていいほど異なるものでした)しかし、「カンテ・ホンド」と呼ばれる古くから伝わる民衆歌謡は、この時代すでに失われつつあり、その復活と掘り起こしを目的に行われたのが、この「カンテ・ホンド祭り」だったのです。
 この時のコンクールには、アンダルシア地方各地から10代の子供からお年寄りまで幅広い歌い手が参加。会場にはフラメンコ史上最高の女性歌手と呼ばれるラ・ニーニャ・デ・ロス・ペイネスや男性歌手のニーニョ・デ・ヘレスにマヌエル・トーレなど、スペインを代表する歌手が並び、審査員席には近代ギターの基礎を築いた世界最高のギタリスト、アンドレス・セゴビアもいました。こうして、4千人の観客を前に行われたこのコンクールは大成功を収め、この後フラメンコはスペインを代表する音楽、舞踊として世界中に知られることになります。
 もちろん、消えかかっていた「カンテ・ホンド」にも再び光が当たるようになり、もう一度その価値が認められることで絶滅の危機を脱することができました。ただし、この時代にはまだ存在していた本物のカンテ・ホンドは、フラメンコがメジャーになったことでかえって土臭さが失われ消えそうになったともいわれます。

<フラメンコとは?>
 「フラメンコ Flamenco」という言葉は、もともと「フランドル地方の、フランドル人の」という意味と同時に「ジプシーがかった」という意味もあります。どうやら「フラメンコ」とは「ジプシー」の同義語ともいえるようです。実際、フラメンコという芸能を育てたのは、スペインに住むジプシーたちでした。
 Cante(歌)とBaile(踊り)、そしてToqueトーケ(ギター演奏)からフラメンコはなるわけですが、さらにそこにPalmaパルマ(手拍子)とPitoピト(指鳴らし)、Jaleoハレオ(掛け声)が加わることで、より完成度の高いフラメンコになります。言い伝えによると1842年セビリアに最初のカフェ・カンタンテ(フラメンコを聞かせる酒場)が誕生し、その後スペイン全土に広まったとされています。

<カンテ・ホンド祭りの仕掛け人>
 こうして、フラメンコを蘇らせた「カンテ・ホンド祭り」には、当然何人かの仕掛け人がいました。そして、その中でも重要な役割を果たしたメンバーとして、当時24歳だった詩人、ガルシア・ロルカがいました。
 スペインを代表する国民的詩人として有名なガルシア・ロルカ。しかし、彼について語ること、彼の名前を出すことが、スペイン国内では長い間タブーとされていたことをご存知でしょうか?それも1936年に彼が謎の死を遂げて以降、40年にわたってその状況が続いたのです。なぜ、そうなってしまったのか?それは彼がフラメンコの復興に関わったこととも無関係ではありません。彼がフラメンコにこだわった理由、そして彼が悲劇の英雄への道を歩むことになった短い人生を駆け足でたどってみたいと思います。

<音楽家、ロルカ少年>
 フェデリコ・ガルシア・ロルカは、1899年6月5日スペイン南部アンダルシア地方の田舎にある村、フエンテ・バケーロスで生まれました。彼の家はサトウキビ栽培で財を成したその地域の富豪でした。そんな家で、彼は文学を愛する父親と小学校の教師だった母親の元で恵まれた教育を受けることができました。しかし、彼は小さな頃にかかった病気のせいで片足が不自由だったため、周りの子供たちと同じように遊ぶことができず、家にこもりがちな少年時代を過ごすことになりました。そのせいもあり、彼は家で叔母さんからギターを習いは始め、その後ピアノも習うようになると音楽の世界にのめりこんで行きました。そして、ギターの名手となっただけでなく数多くの民謡をマスター。8歳にして100曲以上のレパートリーをもっていたといわれています。
 11歳の時、彼は家族とともにアンダルシアの首都グラナダへと移住します。目的はロルカを大学に進ませるための準備だったといわれています。そんな両親の願いにこたえて、ロルカはグラナダ大学に入学。在学中に行ったコルドバ、セビリヤなどの遺跡めぐりの旅を題材に彼の処女作となる「印象と風景」を発表し、早くもその才能を発揮し始めました。そして、そんな彼の才能を認める教授の推薦によって彼はマドリードにある「学生館」に入学できることになりました。

<才能の宝庫「学生館」から作家活動へ>
 「学生館」はスペイン国内で最も優秀な才能をもつものだけが入ることができる特別な学校でした。その学校で行われる講座には、世界トップクラスの専門家たちが講師として招かれていました。例えば、歴史家でありSF作家としても有名なH・G・ウェルズ、推理小説作家として有名なチェスタトン、詩人のポール・ヴァレリー、物理学者のマリー・キュリー、クラシック音楽の巨匠イゴール・ストラヴィンスキー、モーリス・ラヴェル、それに前述のアンドレス・セゴビアなど。20世紀を代表する才能が教壇に立つこの学校からは、当然それに匹敵する才能も生まれようとしていました。もちろん、ロルカもその一人ですが、そこで彼は20世紀を代表するアーティストとなる画家のサルバドール・ダリ、映画監督のルイス・ブニュエルと知り合い、お互いに才能を磨き合うことになります。
 ロルカが「カンテ・ホンド祭り」に関わることになったのは、ちょうどこの頃でした。1921年の夏にグラナダに里帰りした際、彼はジプシーの友人にフラメンコ・ギターの技術を学び、その虜になってしまいました。元々彼にはジプシーの血が混じっていたこともあり、フラメンコは彼の詩人としての魂を熱く燃え上がらせてくれました。そして、そのフラメンコへの熱い思いが「カンテ・ホンド祭り」という歴史的イベントを生み出す原動力となったわけです。
 彼はコンテストに出場する優れた歌い手を求めて、村々を訪ね歩き多くの歌い手を見つけ出しました。(このあたりは、かつてアメリカ南部のブルースを掘り起こすために旅をしたローマックス親子のことを思い出させます)こうした努力が実り「カンテ・ホンド祭り」は見事に成功を収め、彼自身もまたその後アンダルシアの心を歌う詩人として有名になって行きます。(この頃から彼が書き始めた詩は、1928年に詩集「ジプシー歌集」として発表され、大ヒットすることになります)
 学生時代から劇団に入り芝居に熱中していた彼は、その後詩の世界から芝居の世界へと活動のわくを広げて行き、次々に戯曲を発表してゆきます。中でも1932年に発表した悲劇「血
の婚礼」は彼の代表作であり、スペイン文学を代表する作品として、世界中で公演されることになります。(映画化もされ、世界中でヒットしています)

<暗い時代の始まり>
 しかし、その頃スペイン国内では、すでに戦乱の暗い雲がかかろうとしていました。1930年に世界恐慌が起きて以降、それまで景気が良かったスペイン経済も一気に下降線をたどり始めていました。そして、1933年にはそうした国内経済の破綻状態を改革すると宣言し、ホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラがナチズムを基礎とする政党ファランヘ党を設立します。ホセ・アントニオは途中で暗殺されるものの、その後を継ぐ形でフランシスコ・フランコという若い将軍が登場。そのカリスマ的な存在感と残虐なまでの攻撃性を武器にあっという間に主役の座に着くことになりました。スペイン国内は、こうして国王とその取り巻きの資本家たち、右派のファランヘ党、資本家たちに搾取され続けてきた労働者たち中心の共産主義グループ、改革のための暴力を肯定するアナーキスト・グループ、左派グループを応援する世界各国の知識人たち(その中には、作家のジョージ・オーウェル、アーネスト・ヘミングェイ、報道写真家のロバート・キャパ、黒人歌手のポール・ロブソンなど、多くの有名人がいました)ロルカも、そうした芸術家たちの多くと同様共産主義者ではありませんでしたが、反ファシストとして、反ファランヘの立場をとることになります。
 こうしてスペインは同じ宗教(カトリック)、同じ民族の国でありながら、家族の中でさえ対立が起きるほどの混乱状態に陥ることになってゆきます。そして、そうした歴史の流れを加速させたのが、ヨーロッパ各国政府の身勝手な思惑でした。中でも、ファシズム政権の国ドイツ、イタリアは当然ファランヘ党を支持、逆に共産主義国のソ連は左派グループを支援することになります。
 ただし、この時スペインの政権は選挙で勝利をおさめた左派の人民戦線を中心とするグループでした。したがって、革命軍が右派だったことになります。そのため、ソ連を味方にした人民戦線を資本主義国家であるイギリスやフランス、アメリカが応援するわけはありませんでした。こうして、1936年スペインという小さな国を舞台にして二つの勢力による悲惨な戦闘が始めることになりました。人民戦線側は、共産主義者、労働者、アナーキスト、世界各国の知識人、そしてソ連。革命軍側は、国王、資本家、宗教界、フェランヘ党、そしてドイツ、イタリア。その戦争は、その後世界各地で起きることになる大国の代理戦争を先取りしたものであり、ある意味20世紀前半の世界のすべてを象徴するものだったといえるでしょう。

<スペイン内戦>
 1936年7月18日、スペインの人民戦線内閣によりカナリア諸島に左遷されていたフランシス・フランコ将軍がクーデターを宣言。各地で反乱軍が蜂起。フランコはスペイン領モロッコで軍隊を指揮下に収め政権獲得のための活動を開始します。ファシストによる共和国政府崩壊の危機に世界各地の知識人らが立ち上がります。
「ひざを屈して生きるより、立って死のう。ノー・パサラン(やつらを通すな)」
ドロレス・イバルリ(女性革命家)
 こうして誕生した国際義勇軍にはヨーロッパ以外も含め60カ国から作家、ジャーナリストらが参加しました。それ以外にも多くの著名人が取材などでスペイン内戦に参加します。この戦争に取材や兵士として参加した顔ぶれとしては、アンドレ・マルロー(仏)、アーネスト・ヘミングウェイ、ラングストン・ヒューズ、ロバート・キャパ(米)、ジョージ・オーウェル、アーサー・ケストラー(英)
  自由と民主主義を守るための象徴としてこの戦争があったといえます。1936年11月雑誌「ヨーロッパ」の中にロマン・ロランは「世界の良心に訴える」という論文を発表します。
「アメリカの人々よ、ヨーロッパの人々よ、私はあなたがたに訴える!スペインを救え、いやあなたがたを救えと。なぜなら脅かされているのはあなたがたであり、また、我々でもあるからだ」

 ところが共和政府、人民戦線のバックにはソ連とコミンテルンがいたことから、コミンテルン内部や反共主義者との対立などにより、反ファシスト運動は上手く機能しなくなります。共和国政府は、内部から分裂し、それが敗北の原因ともなりました。(ファシスト最強国ドイツがフランコを援助したことも大きかった)
 戦場での体験をもとにアンドレ・マルローは内戦を主題とした「希望」を、ヘミングウェイは映画化もされた代表作「誰がために鐘は鳴る」を書き上げました。さらに1937年4月26日にドイツ軍が行ったゲルニカの町への空爆作戦に対して、ピカソは歴史的名作「ゲルニカ」で抵抗を姿勢を示すことになります。

「これで自分の信じるもののために一年間戦ったことになる。もしここで勝利を獲得するなら、われわれは、いたるところで勝利を得るだろう。この世界は美しいところであり、そのために戦うに値するだろう。この世界は美しいところであり、そのために戦うに値するものであり、そしておれは、この世界を去ることを心からいやだと思う。」
「誰がために鐘は鳴る」より

 スペイン内戦で勝利したフランコ将軍は、その後、ヒトラーもムッソリーニも敗れ去った第二次世界大戦後も、政権を維持し続けます。そして、1975年に彼がこの世を去るまで、最後のファシスト政権は続くことになります。

<死への旅立ち>
 このスペイン内乱のきっかけとなったファランヘ党によるクーデターが起こされたのは、1936年7月18日のことです。ところが、その混乱状態の中、ロルカは故郷のグラナダに帰郷しました。首都のマドリード近郊は当然政府軍である人民戦線によって硬く守られていましたが、そこからはるか南に位置するグラナダはファランヘ党の支配化に落ちようとしていました。にもかかわらず、元々政治にはあまり興味がなく芸術一本槍だったロルカは、周りの反対を無視してグラナダへと向かいました。それは危険な状況だからこそ、自らのルーツでもある故郷とそこに住む家族が心配になったからだったのかもしれません。こうして、アンダルシアの大地が生んだスペインの国民的詩人は、自ら死を選んだかのようにアンダルシアへと向かい、そこで暗殺されることになりました。
 彼が暗殺されたのは、彼が人民戦線側の人間だったためといわれていますが、もうひとつ彼がゲイだったせいともいわれています。どちらにしても、この時期スペインの国民は宗教の違い、主義の違いによって、親戚同士、兄弟同士ですら殺し合う悲劇的な状態にありました。そんな中、彼のように無宗教でインテリで左翼系でユダヤ系でジプシーの血を引き、なおかつゲイの人間が狙われないはずはありませんでした。
 1936年8月19日もしくは翌20日、彼は何者かによって殺され、どこかに埋められました。その場所は未だに謎となっています。さらに1939年、フランコ率いる革命軍がファシスト国家の援助を得て勝利をおさめた後、ファランヘ党員によって暗殺されたらしいガルシア・ロルカの名前はスペインの歴史から抹殺されてしまいます。彼の作品はすべて発禁となり、彼の名を語ること自体がタブー視されるようになりました。
 1975年にフランコが死に、その独裁政権にピリオドが打たれたことで、やっと彼の名は歴史上に再び現れることになり、スペインの国民的詩人として誰もが知る存在になったのです。

<永遠の命を得た詩人>
 スペインを愛し、故郷のアンダルシアを愛し、フラメンコを愛したガルシア・ロルカ。彼は自らが愛したフラメンコを蘇らせたものの、その音楽を生み出した大地でそこに住む人々の手で殺されてしまいました。しかし、その後彼はあのイエス・キリストのように蘇り、国民的詩人として永遠の命を得ることになったのです。

「あらゆる国では、死はひとつの終わりです。死がやってくると幕が引かれます。でも、スペインではそうではありません。スペインでは幕が上がるのです」
ガルシア・ロルカ

<1922年の出来事>
トリポリ戦争(イタリア対トルコ)
フランス軍がモロッコに出兵
アムンゼン(ノルウェー)が南極点に到達する
ヨシフ・スターリンがロシア共産党の書記長に就任
ソビエト社会主義共和国連邦成立
アイルランドで内乱勃発、アイルランド自由国が独立
ベニト・ムッソリーニが率いるファシスト党が政権を掌握
トルコ革命でスルタン制が廃止されオスマン朝が滅びる
反トラスト法によりスタンダード石油が解散(アメリカ)
辛亥革命、清朝が滅びる
孫文が英国より帰国
朝鮮土地収用令、朝鮮教育令、朝鮮政治結社禁止令
野口英世が梅毒スピロヘータの純粋培養に成功
東京に帝国劇場オープン
アルバート・アインシュタインが来日
<音楽>
「アレクサンダーズ・ラグタイム・バンド」アーヴィング・バーリン
「サム・オブ・ジィーズ・デイズ」ソフィー・タッカー(ヴォードヴィルの女王)

<映画>
「吸血鬼ノスフェラトゥ」(監)F・W・ムルナウ(原)ブラム・ストーカー(出)マックス・シュレック、アレクサンダー・グラナック
「オセロ」(監)(脚)ディミトリー・ブコエツキー(原)ウィリアム・シェイクスピア(出)ヴェルナー・クラウス、エミール・ヤニングス

<文学、思想>
「ユリシーズ」ジェイムス・ジョイス
「トロッコ」芥川龍之介
M・メーテルリンク(ベルギー)がノーベル文学賞受賞
新文学運動起こる(1908年アララギ派、1910年白樺派)


<美術>
「なすのある室内」アンリ・マティス(仏)
「青い馬T」フランツ・マルク(独)
「コタン小路」モーリス・ユトリロ」(仏)
W・カンジンスキーが「青騎士」結成(ブルリューフ兄弟、フランツ・マルク、アルノルト・シェーンベルク、アンリ・ルソー)
アンデパンダン展にキュビズムの追随者登場(フェルナン・レジェ、マルセル・デュシャン、フランシス・ピカビア・・・)

<時代を変えたモノ、ファッション>
ポール・ポワレがアラブ風のコルセットのないファッションを流行させる。イサドラ・ダンカンも愛用(仏)
フランスでオートクチュール協会設立
フレデリック・ウィンスロー・テイラー「科学的管理法」

<1922年の物故者>
アレクサンダー・グラハム・ベル(発明家)
ヘルマン・ロールシャハ(精神医学者)
マイケル・コリンズ(アイルランド独立運動の指導者)
マルセル・プルースト(小説家)
森鴎外(小説家)
大隈重信(元内閣総理大臣、早稲田大学創立者)
山県有朋(元内閣総理大臣) 

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