1927年

- デューク・エリントンとハーレムの英雄たち -

<ハレーム・ルネッサンス>
1920年代、ニューヨークのハーレム地区は世界最大の黒人居住地区としてアメリカ全体の好景気とともに大きく発展していました。第一次世界大戦のおかげでヨーロッパから回ってきた巨額の富は、白人社会だけでなく黒人社会にも少づつ行き渡るようになり、黒人文化がひとつの形となって花開こうとしていました。食うや食わずの状況から脱した彼らは、それまで意識することのなかった自分たち独自の文化を再発見することになり、そこから新しい黒人文化が次々と生まれ始めることになります。
 ジェームス・ウェルドン・ジョンソン James Wheldon Johnsonやラングストン・ヒューズ Langston Hughesらは、詩人として黒人文化を讃え人種差別の問題を社会に訴えかけました。さらに深くこの人種差別の問題に取り組んだのは、思想家として名高いW.E.B.デュボイス W.E.B.Duboisやレゲエ・ミュージックの元祖ともいえる社会活動家のマーカス・ガーヴェイでした。
 この時期にハーレムで青春時代を送り、後にオペラ歌手、俳優として活躍するポール・ロブスンも、それまでの黒人芸能人たちとは異なり黒人であることを自ら肯定的にとらえた先駆者となります。スポーツの世界ではいち早く黒人に門戸が開かれたボクシングの世界では、ジャック・ジョンソンが黒人初の世界ヘビー級王座の座につき、黒人たちのスポーツ界進出の先駆けとなりました。
 黒人エンターテイメントの世界では、1921年にブロードウェイで上演され大ヒットを記録した黒人ミュージカル「シャッフル・アロング Shuffle Along」(ユービー・ブレイク Eubie Blake作、フローレンス・ミルズ Florence Mills主演)もまたハーレムの文化を発展させるきっかけとなりました。
 こうした人々の多くがアメリカの中心ニューヨークのハーレムを活躍の拠点としていたこともあり、ハーレムは花開きつつある黒人文化の黄金時代の発信地として知られることになりました。こうして誕生した黒人文化の黄金時代は、1929年の大恐慌によって終わりを迎えることになってしまいますが、それまでの短くも華やかなその時代のことを人々は、「ハーレム・ルネッサンス」と呼びました。

<ブラック・アンド・タン・ファンタジー>
 1927年、そんなハーレム・ルネッサンスの熱気を象徴するような曲が大ヒットしました。デューク・エリントンの「ブラック・アンド・タン・ファンタジー Black and Tan Fantasy」です。わずか3分程度の曲ですが、そこにはそれまで彼が培ってきた黒人音楽についての知識が見事に生かされていました。それは「ハーレム・ルネッサンス」のテーマ曲となり、彼のキャリアを代表する曲ともなりました。この黒人音楽を代表する曲を生んだ「サー・デューク」とはいかなる人物だったのでしょうか。

<ワシントンからNYへ>
 1923年、ワシントンでジャズ・ミュージシャンとして活動していたデューク・エリントンは演奏仲間たちとともにニューヨークに進出。ワシントニアンズというバンド名でクラブ・ハリウッド・インという店に出演するチャンスを得ました。当時のニューヨーク、ハーレムはアメリカの好景気にも支えられ、どんどん人口が増え、さらには白人の富裕層が娯楽を求めて訪れる街として繁栄の時を迎えていました。その点では、彼は実に恵まれた時期にニューヨークへやって来たといえるでしょう。しかし、さっそくバンド内でトラブルが発生します。バンド・リーダーがメンバーがもらうはずの昇給分の給料を着服していたことがばれてしまったのです。リーダーは即追放処分となりましたが、そのためバンドはリーダーを失ってしまいます。そして、タナボタ式にバンド・リーダーとなったのが、デューク・エリントンでした。彼が選ばれたことで、その後バンドはとんとん拍子に出世して行くことになります。
 といっても、彼は最初から優れた能力を持っていたわけではありませんでした。元々北部ワシントンの中流家庭で育った彼は根っからの北部人だったため、アメリカ南部のジャズを自分の耳で聞いたことがなく、ファンキーな音楽を求める観衆についていけない部分があったのです。(なんと彼の父親はホワイトハウスで執事として働いていました。ブルースやジャズとは程遠い世界だったともいえます)しかし、そうした能力の不足を補ってくれる人物と出会うことで、彼はしだいにその弱点を克服して行きます。特に大きな出会いは、ニューオーリンズからやって来た大物、シドニー・ベシェのバンドへの参加でした。クラリネット、ソプラノ・サックス奏者としてだけでなく、優れたミュージシャンとしてジャズの歴史を作ってきたアーティストとの出会いは、彼とバンド・メンバー全員に大きな力を与えることになりました。彼はそれまでの形式ばったジャズからワンランク上の創造的なジャズの世界へとレベル・アップを図り始めます。

<優れたバンド・リーダーとして>
 この頃、彼は音楽出版社のアーヴィング・ミルズという人物と出会います。彼との出会いもまた、デューク・エリントン・サウンドに大きな影響を与えることになります。
 元々音楽出版業者とは、曲の楽譜の権利を得て、それを売って商売にする人々です。当然、優れた才能を持つと見込んだデュークに曲を書かせない手はないわけです。こうして、彼はアーヴィングのおかげで、どんどん曲を書かされることになり、そのことが彼の作曲家としての能力を高めてくれることにもなるのでした。
 しだいに彼は作曲者として編曲者として、バンド・リーダーとして優れた才能を発揮してゆくことになります。彼は楽器の特徴をつかむだけでなく、バンド・メンバー個々の能力、個性をつかみ、それを生かす能力にその才能を発揮。彼のバンドは個性的で厚みのある音楽を奏でるようになって行きます。
 彼のそうした才能を示す言葉として「Duke'S Writing」という彼独特の作曲法があります。
「自分のバンドのために書くのだから、オーボエのために最高のフレーズを思いついたとしても捨ててしまう。私のバンドにはオーボエがいないからだ。私のバンドは私の楽器である。・・・」
 こうした彼の姿勢が生み出した音楽は、彼のバンドが演奏してこそベストの演奏になるのが当然でした。したがって、彼の音楽はあくまでもエリントン・スタイルであり、バップでもスウィングでもない唯一彼だけのジャズとして、時代を越えて聴けるものになったのです。

<コットン・クラブへの出演>
 幸福な偶然や出会いのおかげでチャンスを掴んできた彼ですが、再び幸運が巡ってきます。この年の秋、ハーレムの人気ナンバー1「コットン・クラブ」の専属だったキング・オリヴァーが突然店をやめてしまいました。さっそく新たなバンドのオーディションが行われることになり、彼らは他の6つのバンドとともにマネージャーのオーウェン・マデン Owen Madden の前で演奏することになりました。まずいことに、オーディションの当日、彼らは開始の時間に間に合わず大幅に遅刻して会場入りすることになりました。ほとんど諦めて会場入りした彼らは、神様に再び助けられることになります。なんとこの時、オーディションの主役であるはずのマネージャーもまた大遅刻してしまい、他のバンドが皆帰ってしまった後、やっと店に着いたのでした。結局、このオーディションを受けることができたのは彼のバンドだけということになり、まだまだ無名だったデューク・エリントン楽団はいきなりコットンクラブの看板バンドへと出世してしまったのでした。もちろん、彼のバンドはまだまだ発展途上であり、ここからさらなる進化を目指す必要がありました。
 幸いにして、彼はバンドに次々に新しい優れたメンバーを加えることで危機を乗り切ってゆきます。サックス奏者のジョニー・ホッジス、クラリネット奏者のバーニー・ビガード、トロンボーン奏者のジョアン・ティゾルなどは、その中でも特に優れたアーティストでした。
 当時のコットンクラブは白人専用の高級クラブで舞台上には、アフリカのジャングルを真似たセットが作られ、そこで白人女性と黒人男性がエロティックなダンスと芝居を披露し、それを楽団が音楽で盛り上げるというのが、ショーの最も大きな売りでした。そのため彼らの音楽はしばしば「ジャングル・ミュージック」という呼び方をされ、本人の思いとは異なる方向で一躍「時の人」なってしまったのでした。さっそく彼らのショーはコットンクラブからのライブ中継としてラジオ番組で放送されることになりました。おりしも、ラジオのネットワークが全国規模に広がっていった時期と重なっていたこともあり、彼の名前は一躍全国区になってゆきました。さらには、彼のヒット曲「ブラック・アンド・タン・ファンタジー」が映画音楽にまで使われることにもなります。
 元々良家の出身ということで品がよく、そのうえハンサムだった彼は、その後は人種の壁を越えた人気者として愛されることなり「ジャズ界の公爵(サー)」の称号を獲得することになります。彼はその後さらに黒人音楽のレベルを向上させるべく努力を続け、クラシック音楽との融合を推し進める役をも果たすことになります。

<追記>2012年4月
「・・・自分が目にする文字通りすべてが音楽に転じていく、そんな境地に彼は達していた。それは地球のパーソナルな地理学であり、色彩や音響や匂いや食べ物や人々、彼が感じ、手を触れ、目にするすべてのもののオーケストラ的伝説であり・・・・・そう、彼はサウンドにおける文章家だった。彼が取り組んでいるのは巨大な音楽的フィクションなのだ。・・・」

「鉄道はちょうどアメリカ黒人の歴史を貫くように、彼の音楽を貫いていた。黒人たちが鉄道をつくり、鉄道で仕事をし、鉄道に乗って移動した。そして今、彼がここで、鉄道に乗って作曲をしているのだ。それは彼が引き継いだ伝統だった。・・・」
ジェフ・ダイヤー(著)「バット・ビューティフル」より

<1927年の出来事>
日英米によるジュネーヴ軍縮会議不成功に終わる
英国、ロシアが国交を断絶
英国で労働組合法が公布される
チャールズ・リンドバーグが大西洋単独無着陸飛行に成功
「ソルヴェイ会議」にて量子論に関する討論が行われる
ドイツのハイゼンベルクが「不確定性原理」を発表
ドイツから割譲されていたアルザス・ロレーヌ地方で独立運動起きる
コルホーズ(集団農場)ソホーズ(国営農場)の設立(ロシア)
中国の国民軍が上海、南京を占領(南京事件)
毛沢東が江西省に革命軍基地を樹立
インドネシアでスカルノが国民同盟を設立
ニカラグアでサンディーノが対アメリカのゲリラ戦開始

東京で初の地下鉄が開通(上野・浅草間)

<音楽>
「ブラック&タン・ファンタジー」(デューク・エリントン楽団)
「オールマン・リバー」ジェローム・カーン作(ポール・ロブソンの歌でヒット)
カーター・ファミリー、ジミー・ロジャースが初録音(ヒルビリー人気が起きる)
「マイ・ブルーヘヴン」ジーン・オースティン(クルーナー歌手ブームの先駆け)
日本コロンビア、日本ビクター、日本ポリドール設立
「赤とんぼ」中山晋平(作)
「アラビヤの唄 Sing Me A Song of Araby」フレッド・フィッシャー作が日本で大ヒット
「ホンキー・トンク・トレイン・ブルース」ミード・ルクス・ルイス(ブギ・ナンバーの先駆けとなった曲)
イギリス放送協会(BBC)設立

<演劇、ミュージカル、映画>
ミュージカル「ショーボート」大ヒット、後に映画化される
「アンクル・トムの小屋」出演の黒人俳優ジェームズ・ロウの名前が初めてタイトル・ロールにのる
ダグラス・フェアバンクス、セシル・B・デミルの呼びかけでアメリカ映画芸術科学アカデミーが設立される
<映画>
世界初のトーキー映画「ジャズ・シンガー」公開(アル・ジョルスン主演)
「アンナ・カレニナ」〈監)エドマンド・グールマンド(原)L・N・トルストイ(出)グレタ・ガルボ、ジョン・ギルバート
「メトロポリス」(監)フリッツ・ラング(出)グスタフ・フレーリッヒ(日本公開は1929年)
「ヴァリエテ」(監)E・A・デュポン(出)エミール・ヤニングス、リア・デ・プティ
「ビッグ・パレード」(監)キング・ヴィダー(出)ジョン・ギルバート、ルネ・アドレ

「競争三日間」(監)内田吐夢(内田吐夢がデビュー)
「忠次旅日記 信州血笑篇」(監)伊藤大輔(出)大河内伝次郎
「慈悲心鳥」(監)溝口健二(出)山本嘉一、中野栄治
「悪魔の星の下に」(監)二川文太郎(出)月形龍之介、玉木悦子
「懺悔の刃」(監)小津安二郎(小津安二郎デビュー)
後の長谷川一夫、林長ニ郎が「稚児の剣法」でデビュー

<文学、思想など>
「失われた時を求めて」マルセル・プルースト著(仏)
「荒野の狼」へルマン・ヘッセ著
「存在と時間」マルティン・ハイデガー著
H・L・ベルグソン(仏)がノーベル文学賞を受賞
岩波文庫誕生


<絵画>
「器官と手」サルバドール・ダリ(スペイン)
「解放された大地と人間によて支配される自然力」ディエゴ・リヴェラ作(メキシコ壁画運動の代表作)

<時代を変えたモノ、ファッション>
フラッパー・ルックが世界的に流行する(ボブ・ヘア、アイシャドウなど、クララ・ボウがそのモデルだった)
三越が日本初のファッション・ショーを開催
米AMI社がジュークボックスを発売
デュポン社(米)がナイロンを開発

<1927年の物故者>
芥川龍之介(小説家)自殺
イサドラ・ダンカン(ダンサー)

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