1928年

- パインントップ・スミス、ジョン・ハモンドなど -

<パイントップ・スミス>
 1928年の暮れ、パイントップ・スミスことクラーレンス・スミスという黒人ピアニストが、生まれて初めてレコード録音をシカゴで行いました。翌年の2月にも録音を行った彼は全部で8曲録音を行いましたが、それから一ヶ月もたたない1929年3月14日、彼は知人のパーティー会場で何者かが放った銃の流れ弾に当たって死んでしまいました。弱冠25歳でこの世を去った彼の残したのは結局その8曲だけでしたが、その謎死によって一躍話題となり、長く語り継がれることになりました。
 そして、この時彼が録音した中の一曲「パイントップス・ブギ・ウギ」こそ、音楽の歴史において初めて「ブギ・ウギ Boogie-Woogie」という言葉が用いられた曲だったのです。

<ブギ・ウギとは?>
 「ブギ・ウギ」とは、元々はブルースの歴史の中で生まれたピアノの演奏スタイルのひとつでした。(現在ではもっと幅広く使われています)
 左手がブルース風のベース・ラインを弾き、右手がそれに乗せてアドリブのメロディーを弾くというのが基本的なスタイルです。その原点は、ジャズの原点でもあるニューオーリンズ生まれのピアノ・サウンド、ラグタイムだったようです。しかし、クラシックの影響が強いアドリブのまったくないラグタイムは、ダンス音楽として少しずつ変化を遂げ、ブルース・ミュージシャンが演奏するギターのリズム・パターンなどを取り入れて、しだいにダンス・パーティーになくてはならない音楽になりました。
 にぎやかなジューク・ジョイントでも、ダンスをするために演奏するのにピアノのリズムはギターよりもよくとおるので、しだいに重宝されるようになります。そのうえ、ピアニストたちは店にピアノさえあれば、遠くても手ぶらで行けるという利点もあり、「ブギ・ウギ・ピアノ」はすぐに全国へと広がり始め、当時ジャズやブルースの中心地になりつつあった北部の中心都市シカゴへと到達したのです。アラバマ州のトロイで生まれたパイントップ・スミスもまた南部からブギ・ウギを運んだピアニストのひとりでした。

<北部への大移動時代>
 なぜシカゴに多くのミュージシャンたちが集まったのでしょうか?それにはいくつもの理由がありました。
 アメリカの産業構造が変わり、南部の農場では人が余り始め、逆に北部の工業都市では人手が不足していたため、仕事を求めて多くの黒人たちが移動したのがひとつ。
 第一次世界大戦が始まり、ニューオーリンズの歓楽街ストーリー・ヴィルが閉鎖され、多くのミュージシャンが職を失ってしまいました。当然、彼らは繁栄する北部の街を目指しました。
 他にも、北部の街は人種差別が少なく、自由があり、賃金も高いなど、数多くの理由がありました。
 しかし、こうして大量に人々が移動し始めたことでシカゴの街はあっという間にパンク状態に陥りました。住宅は不足し、それにつけこんで家賃は急上昇。そのため、まともに家賃を払えない貧しい人々は住む場所を確保するためニ家族で同じ部屋を借りたり、昼夜交代で同じ部屋に住むなど涙ぐましい努力をしていました。そして、家賃を補うための副収入を得るための工夫として、ハウスレント・パーティーというものが生まれました。それは自宅を使って、お金集めのためのダンス・パーティーを開催。食べ物は持ち込みで、一晩たっぷり踊り明かそうというものです。そして、そこで演奏される音楽こそ、ブギ・ウギだったのです。そうでなくても、狭い部屋でパーティーを行うだけにピアノ一台ですむブギ・ウギはぴったりの音楽でした。
 こうして、人であふれたシカゴの街ではブギ・ウギ・ピアノが広まっていったわけです。そんな中、何人もの優れたピアニストが現れました。

<ジミー・ヤンシー>
 そんなブギ・ウギ・ピアニストの中でも特に伝説的な存在として、ジミー・ヤンシーという人物がいました。子供の頃からタップ・ダンスや歌を得意とする芸人だった彼はハウスレント・パーティーの人気者として引っ張りダコの存在でした。彼が弾いていたピアノ・サウンドは、まさにブギ・ウギそのものでしたが、そのことは彼が残した何枚かのレコードによって、後に明らかになったことでした。(有名な曲は「Five Oclock Blues」)なにせ彼はハウスレント・パーティー以外にコンサートというものを開いたことはなかったようなのです。そのうえ、25歳という若さで芸人から足を洗ってしまい、あの有名な大リーグのシカゴ・ホワイトソックスのグランド・キーパーになり、1951年に59歳で亡くなるまでその仕事を続けたのです。後にわかったのですが、彼の家にはずっとピアノはなく、もちろんピアノも習ったことはなかったそうです。

<ジョン・ハモンドによる発掘>
 ブギ・ウギ・ピアノが世界中に知られることになったのには、ひとつの大きなきっかけがありました。それは1938年にカーネギー・ホールで行われた「スピリチュアルからスウィングへ」というコンサートに3人のブギ・ウギ・ピアニスト、ミード・ルクス・ルイス、アルバート・アモンズ、ピート・ジョンソンが出演し、大絶賛を浴びたことが発端でした。
 このコンサートを仕掛けたのは白人ジャズ・マニアとして、プロデューサーとして、ジャズ史に大きな貢献を果たしたジョン・ハモンドという人物です。彼はありとあらゆるジャズのレコードを集めながら、つぶれてしまった小さなレコード会社のテスト盤の中からミード・ルクス・ルイスというピアニストが弾くブギ・ウギと出会い衝撃を受けました。そこで彼は全国に広がる情報網を使ってミード・ルクス・ルイスなるピアニストを探し始め、シカゴのサウスサイドでタクシーを洗っていた一人の運転手にまでたどり着きました。彼こそが、夢にまで見たブギ・ウギ・ピアニスト、ミード・ルクス・ルイスだったのですが、ついていることに、彼を発見したことで彼の同僚であるアルバート・アモンズというもうひとりの凄いピアニストを見つけることができました。こうして二人は、生まれて初めてレコードを録音することができ、「ホンキートンク・トレイン・ブルース」などの曲をヒットさせ、ジャズの歴史にその名を刻むことになったのでした。
 もし、ジョン・ハモンドが幻のテスト盤と出会わなければブギ・ウギ・ピアノの名手ミード・ルクス・ルイスの存在は、誰にも知られることなく消えていたことでしょう。当然、「スピリチュアルからスウィングへ」に出演することもなく、ブギ・ウギ・ピアノが世界の注目を浴びることもなかったかもしれません。そう考えると、もしかすると、こうした偶然に恵まれることもなく永遠に人々の注目を浴びることなく消え去ってしまった音楽が他にもいっぱいあるのかもしれません。

<ジョン・ハモンドの功績>
 ジョン・ハモンドの存在ほど、アメリカの音楽シーンに大きな影響を与えた人物は、そういないでしょう。彼は1938年の「スピリチュアルからスウィングへ」を企画しただけでなく、他にも音楽界に数多くの功績を残しています。
 彼はまだ無名だったビリー・ホリデイの才能にいち早く注目。彼がその前に広告担当としてメジャーにしていたスウィング・ジャズ・ブームの立役者ベニー・グッドマンを説得して、オーケストラの専属歌手に抜擢させ、スターへの道をお膳立てしたのも彼でした。
 さらに彼はジャズ以外の分野でも偉大な仕事を成し遂げています。それはボブ・ディランの発見です!彼はまだ無名だったボブ・ディランの才能にもいち早く注目し、フォーク・リヴァイバルのブームに乗り遅れまいとするコロンビアに彼を紹介し、デビューのきっかけを与えたのです。
 実は、彼ほど裕福な音楽業界人はいなかったかもしれません。父親は銀行家で、母親はアメリカ有数の富豪ヴァンダービルト家の令嬢でした。彼自身もイェール大学を中退してジュリアード音楽院に入学したという天才で、その後は音楽ジャーナリズムの世界で活躍するようになりました。そうして、数多くのジャズ・ミュージシャンの逸材を発掘した後は、その功績を買われてコロンビアのA&R担当重役となり、音楽界の裏方として活躍することになったのです。
 アトランティック・レコードを創設したアーメッド・アーティガンもそうですが、音楽業界で活躍した人の中には、裕福な家庭に育ち、その資産をもとに得た情報をもとに音楽業界に進出した人やチャーリー・パーカーらジャズ・ミュージシャンたちのパトロンとして影から彼らを支えた人もいました。アメリカという国は一般大衆レベルでは芸術に理解がない国といえますが、それを補う一握りの富裕層のおかげで芸術は育てられていったのかもしれません。

<1928年の出来事>
パリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン案)
男女平等選挙法成立(英)
土地私有禁止法、第一次五カ年計画(ソ連)
コーヒーの過剰生産による恐慌(ブラジル)
エチオピアで内乱、ハイエ・セラシエ国王となる
トルコがアラビア文字をラテン文字に変更
チャンドラ・ボース、ネールらがインド独立連盟を結成
蒋介石が国民政府主席になる
張作霖爆殺事件
日本初の普通選挙実施
治安維持法が改正、適用され共産党員、社会主義者への弾圧開始

<音楽>
「イット・タイト・ライク・ザット」ジョージア・トム&タンパ・レッド
「ウエスト・エンド・ブルース」「ルイ・アームストロングの肖像1928」ルイ・アームストロング
「恋人よ我に帰れ」「朝日のようにさわやかに」ジグムンド・ロンバーグ(ミュージカル「ザ・ニュームーン」より)
「三文オペラ」クルト・ワイル
「ジミー・ヌーン&アール・ハインズ・アット・エイペックス・クラブ」
「パイントップス・ブギ・ウギ」パイントップ・スミス
「ハウ・ロング・ハウ・ロング・ブルース」リロイ・カー(シティー・ブルースの先駆けとなった曲)
「ボレロ」モーリス・ラヴェル
「私の青空」「アラビヤの唄」二村定一
" Never No Mo' Blues " ジミー・ロジャース Jimmie Rodgers

初のエスコーラ・ジ・サンバ、デイシャ・ファラール結成

<文学、思想>
「三文オペラ」ベルトルト・ブレヒト(独)
「チャタレー夫人の恋人」デヴィッド・ロレンス(英)
「ナジャ」アンドレ・ブルトン(仏)
「陰獣」江戸川乱歩


<映画>
「第七天国」(監)フランク・ボーゼージ(脚色)ベンジャミン・グレイザー(出)ジヤネット・ゲイナー(アカデミー監督賞、主演女優賞、脚色賞
「つばさ」(監)ウィリアム・A・ウェルマン(出)クララ・ボウ(アカデミー作品賞
「肉体の道」(監)ヴィクター・フレミング(出)エミール・ヤニングス(アカデミー主演男優賞
「美人国二人行脚」(監)ルイス・マイルストン(出)ウィリアム・ボイド(アカデミー喜劇監督賞
「サンライズ」(監)F・W・ムルナウ(出)ジョージ・オブライエン、ジャネット・ゲイナー
「暗黒街」(監)ジョゼフ・フォン・スタンバーグ(出)ジョージ・バンクロフト、クライブ・ブルック
「サーカス」(監)(出)(脚)チャールズ・チャップリン
「ベン・ハー」(監)フレッド・ニブロ(出)ラモン・ナヴァロ
「アンクル・トムズ・ケビン」(監)ハリー・ポラード(出)マーガリータ・フィッシャー
ディズニー・アニメ映画「蒸気船ウィリー」(ミッキー・マウス登場)世界初のトーキー・アニメ
「ニューヨークの灯」世界初の100%トーキー作品

「浪人街 第一話 美しき獲物」(監)マキノ正博(出)南光明、谷崎十郎
「陸の王者」(監)牛原虚彦(出)鈴木伝明、八雲恵美子
「新版大岡政談 第三篇 解決篇」(監)伊藤大輔(出)大河内伝次郎、尾上卯多五郎
「村の花嫁」(監)五所平之助(出)武田春朗、八雲恵美子

<1928年の物故者>
トマス・ハーディー(作家)
ヘンドリック・ローレンツ(物理学者)
ロアルド・アムンゼン(探検家)
小山内薫(劇作家)
佐伯有三(画家)
野口英世(医学者)

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