1929年

- エスコーラ・ヂ・サンバの創設者たち -

<マンゲイラ誕生>
 この年、ブラジルに現存する最も古いエスコーラ「マンゲイラ」が誕生し、その栄光の歴史の第一歩を踏み出しました。エスコーラとは、性格にはエスコーラ・ヂ・サンバ(サンバの学校)といい、有名なブラジルのカーニヴァルに参加するダンス・パフォーマンス・チームの総称です。エスコーラなくしてカーニヴァルはなく、カーニヴァルなくしてブラジルは成り立たないといっていいでしょう。その存在の大きさは、もうひとつのブラジルを代表する文化である「サッカー」に匹敵します。エスコーラ・ヂ・サンバを知ることは、ブラジルという国を知ることにもつながるといえるでしょう。

<エスコーラ・ヂ・サンバ>
 エスコーラ・ヂ・サンバ(サンバの学校)という名前は、1928年にできた最初のエスコーラ「デイシャ・ファラール」(この名の意味は「彼らに言わせろ」といった感じのようです)が自分たちの組織の名前としてつけた愛称でした。彼らの本拠地である建物の前に小学校があったことから思いついたのだそうです。ところで、エスコーラは、設立当初からカーニヴァルに参加することを目的として作られたわけですが、それ以前はどうなっていたのでしょう。先ずは、ブラジルにおけるカーニヴァルの歴史をさかのぼり、そこからエスコーラ・ヂ・サンバの登場へと話を進めて見たいと思います。

<ブラジルのカーニヴァル>
 もともとカーニヴァルとは、キリスト教それもカトリックのお祭りです。当然、ヨーロッパからやってきた支配層が持ち込んだわけですが、ヨーロッパのカトリックの国の中でも最もハチャメチャなのがブラジルの宗主国だったポルトガルのカーニヴァルなのだそうです。そんなにぎやかなお祭りに、アフリカから持ち込まれたダンスや宗教儀式などが混ざり合うことでブラジル独特のカーニヴァルが誕生することになったのです。
 ブラジルでカーニヴァルが始まった当初は、地域ごとに白人支配層が集まって仮装舞踏会を楽しむだけの催しだったようです。しかし、20世紀の初めにはカーニヴァルにおける行進はごく一般的なものとなっており、リオデジャネイロだけでなくブラジルの多くの都市でも行われるようになっていました。そしてしだいに参加者を増やして行き、街中が参加するようになってゆきました。ただ、人種の融合が南米で最も進んだ国とはいえ、ブラジルにも人種差別は存在しており、黒人やムラート(白人と黒人の混血)がこのお祭りに参加することを警察は認めていませんでした。(そこで演奏されていた音楽はまだサンバではなくマルシャ(マーチ)、マシーシ、ショーロなどでした。サンバがその中心となったのは1920年代になってからです)
 それに対し、黒人たちや貧しい地域の人々は、自分たちで独自のグループを作り、カーニヴァルに勝手に参加するようになってゆきました。この小さなグループは「ブロコ」と呼ばれ、今でも数多くのブロコが存在します。そして、数多く誕生したブロコが合併することでより大きな組織となり、最終的にエスコーラ・ヂ・サンバという現在では総勢一万人にも達する巨大な組織へと成長したのでした。(一万人のうち、実際にパレードに参加するのが4000〜5000人)ただ、こうした巨大化の背景には、それをうながすことになった原因がありました。

<カーニヴァルの巨大化>
 1932年、スポーツ中心の新聞「ムンド・スポルチーヴォ」の主催でサンバのコンクールが行われました。これはあくまで曲のコンクールだったのですが、翌1933年には大手新聞社の「ウ・グロボ」によって、本格的なダンスも含めたコンクールが行われました。その後はコンクールで賞をとった曲がレコード化されて、大ヒットするという現象も起き、カーニヴァルは巨大なビジネスとして、どんどん膨らみ始めることになったのです。
 当初はエスコーラの活動は政府に非公認のものでしたが、1935年ジェトゥリオ・ヴァルガス大統領の時代にパレードへの参加が公認され、いよいよ現在の形に近いカーニヴァルの時代がやって来たのでした。

<最初のエスコーラ>
 1928年に誕生したデイシャ・ファラールは、創設者のイズマエル・シルヴァらがカルメン・ミランダなどに曲を提供する作曲家として活躍し始めたことなどから解散してしまいましたが、この年2番目に誕生したマンゲイラ(エスタソン・プリメイラ・ヂ・マンゲイラ)は、偉大なサンビスタ、カルトーラが初代監督となり、ナンバー1エスコーラとともに二大エスコーラとして、リオのカーニヴァルを支えてゆくことになります。
 こうして、どんどん発展したエスコーラは今では単にダンスチームではなく、ひとつの巨大な社会福祉団体と呼べるほどの広がりをもつにいたっています。もともと地域のコミュニティーから生まれたものなので、エスコーラの中には学校や託児所、医療施設などをもっているものもあり、その資金を確保するために企業やメンバーからの寄付以外にダンス教室、レコード・CD販売、有料の公開リハーサルの開催、海外での公演活動なども行っています。(麻薬売買を行うギャング組織などもスポンサーになっているともいわれています)

<エスコーラの構成>
 カーニヴァルに参加するグループは、おおよそ以下のような構成から成り立っています。
ジレトール・ヂ・アルモニア(歌、コーラス、リズム隊の総監督)
カルナヴェレスコ(パレードにはエンレードと呼ばれるストーリーがあります。カルナヴァレスコは、そのストーリーを考え、演出も担当する監督にあたります)
コンポジトール(各エスコーラには20〜30人ほどの作曲者がいます。彼らは3、4人のチームに分かれてエンレードをもとにした曲を作り、エスコーラ内の審査によって一曲がその年のテーマ曲に選ばれます)
ジレトール・ヂ・バテリーア(パーカッション、リズム隊の総監督で300人ものリズム隊を指揮する)
バイアーナ(長くエスコーラに参加してきたおばさまがたの集団で、白いレースの衣装で貫禄たっぷりに歩く)
その他、司会やそのアシスタントとなる女性、山車を作るためのデザイナー、画家、彫刻家、工芸家、ダンスの振り付け師、衣装係などが所属もしくは雇われています。
 こうして、組織された人々が一年かけて準備したパレードは、4日間のカーニヴァルにあわせて披露されることになりますが、その最終目標はその中で90分間だけ行われるコンクールの瞬間です。このコンクールの審査結果によって、その年の最高作が選ばれるだけでなく、CD化されて発売されるかどうかも決まることになります。
 さらにその点数によって、エスコーラのランク付けもなされます。エスコーラ1部のAとB、2部のAとBのグループ分けがその結果によって行われ、それぞれの最下位2チームは下のグループの上位2チームと入れ代わることにもなっているため、けっして気を抜くことはできないのです。
 ここまで書いてくると、エスコーラとサッカーの類似性に気づかれた方も多いかもしれません。サッカーの場合も、やはり1部リーグや2部リーグなどのクラス分けがあり、それぞれのクラブはサッカー・チームだけでなくほかのスポーツ・クラブや学校、医療施設など、ひとつの社会組織としての機能をもっています。サッカーには体力的に現役として活躍するには年齢的な制限がありますが、エスコーラには年齢、性別などの条件はほとんどなく誰もが参加できる分、参加者の規模も巨大になってきます。
 ただし、どちらも始った当初は地域社会の交流、文化振興を目的にしていたはずが、今ではともに巨大な営利ビジネス的傾向を強め、目的から離れがちな部分もあるようです。確かに経済的効果はあり、それにより巨額の外貨がブラジル国内にもたらされることになりました。しかし、それがブラジル国内に存在する大きな貧富の差を解消する助けにはならず、逆にそれを拡大させているようにも見えます。
 一年に一回4日間だけ行われるカーニヴァルが貧しいブラジルの一般大衆にとって経済格差を一時的に忘れさせてくれる「ガス抜き」としての価値しかないのか?それとも明日への糧となりうる「人生の目標」として十分に価値があるのか?それは個人それぞれの思いによるのかもしれません。

<ヨサコイ・ソーランに思うこと>
 僕は地元北海道の札幌で毎年6月に行われている「ヨサコイ・ソーラン祭り」を見て、よくブラジルのカーニヴァルのことを考えます。年に一回6月にかける熱い思いには確かに感動させられます。しかし、ヨサコイ・ソーランは札幌への一曲集中に拍車をかけているように思えるのです。札幌以外の地方都市がどんどん街の勢いを失い、チームの数が減ってゆくように思えるのです。それぞれの街に活力をもたらすため、踊り以外にやることはないのか?札幌以外の街で開催するべきじゃないのか?こうして、ヨサコイ・ソーランとリオのカーニヴァルが似ているように思えるのは、なんとも複雑な気分です。
 とにもかくにも、「祭り」というものは、大きなものも小さなものも、こうして社会に求められているからこそ発展し続けてきたことだけは確かです。そして、間違いなくいえることがひとつだけあります。「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損」これだけは確かだということです。

<1929年の出来事>
ウォール街(ニューヨーク証券所)での株価大暴落から世界恐慌始る
ベルリンで共産主義者の暴動発生
トロッキーが国外追放される、スターリンの独裁体制スタート
ツェッペリン号が世界一周
ヴァチカン市国が設立
全インド国民会議開催、完全独立を要求

<音楽>
ブルース、ゴスペルのレコード販売枚数がピークに達する
ヘルベルト・フォン・カラヤンがデビュー

<映画>
「ブロードウェイ・メロディ」(監)ハリー・ボーモント(出)アニタ・ペイジ、ベッシー・ラブ(アカデミー作品賞)世界初のミュージカル映画
「情炎の美姫」(監)(製)フランク・ロイド(出)マリー・ドレスラー、ウィリアム・コンクリン(アカデミー監督賞
「懐かしのアリゾナ」(出)ウォーナー・バクスター(アカデミー主演男優賞
「コケット」(監)サム・テイラー(出)メアリー・ピックフォード(アカデミー主演女優賞
「紐育の波止場」(監)ジョセフ・フォン・スタンバーグ(出)ジョージ・バンクロフト、ベティ・カンプソン
「裁かる々ジャンヌ」(監)カール・ドライヤー(出)ファルコネッティ
「四人の悪魔」(監)F・W・ヌルナウ(出)ジャネット・ゲイナー、ファーレル・マクドナルド
「アトランティック」(監)(製)E・A・デュポン(出)マデリーン・キャロル、モンティ・バンクス
「ゆすり」(監)アルフレッド・ヒッチコック(イギリス初のトーキー映画)
出演者全員が黒人という作品「ハレルヤ」が公開される

「首の座」(監)マキノ正博(出)谷崎十郎、桜木梅子
「生ける人形」(監)内田吐夢(出)小杉勇、入江たか子
「都会交響楽」(監)溝口健二(出)夏川静江、小杉勇

<文学、思想>
「恐るべき子供たち」ジャン・コクトー
「スフィンクス」フランシス・ピカビア
「百頭女」(コラージュ集)マックス・エルンスト
「無関心な人々」アルベルト・モラーヴィア
「夜明け前」島崎藤村
「蟹工船」小林多喜二
「響きと怒り The Sound And the Fury」 ウィリアム・フォークナー
トーマス・マンがノーベル文学賞


<時代を変えた発明、モノ
建築家ル・コルヴィジェによるサヴォア邸完成
バックミンスター・フラーによる「ダイマクション・ハウス」発表される
フレミングがペニシリンを発見
モハメド・フェミー・アガが「ヴォーグ」のアートディレクターに就任
山名文夫が資生堂のグラフィック担当に就任

<世界恐慌とは?>
「1929年、世界はまだ豊かさに慣れていなかった。だからこそ、「余分な金」という発想が出来なかった。「金よ、いくらでも無限に来い!」と叫んで、それがバブルだとは思わなかった。しかし、はじけるバブルははじける。それが『世界恐慌』なのである」
「二十世紀」橋本治著

<1929年の物故者>
カール・ベンツ(ダイムラー・ベンツ創設者のひとり)
エミール・ベルリナー(レコード・プレイヤーの原型となたグラモフォンの発明者)
岸田劉生(画家)
津田梅子(津田塾大創設者)

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