1930年

- マレーネ・ディートリッヒ Marlene Dietrich、ジョゼフ・フォン・スタンバーグ Josef von Sternberg -

<嘆きの天使>
 この年、ドイツが生んだ偉大な女優であり歌手のマレーネ・ディートリヒの初主演映画「嘆きの天使」が公開されました。ところが、彼女はこの映画が公開されるより先にアメリカの映画会社パラマウントと契約。公開を待たずにハリウッドへと旅立って行きました。ヨーロッパ出身の女優がアメリカでスターになることは、それまでもありましたが、彼女の場合はそれらの女優たちとは大きく違う点がありました。
 歌って、踊れて、演技もできて、なおかつスキャンダラスでありながら、しっかりとした政治的姿勢をもつ姉御肌の女性。そんな新しいタイプの女性像を体現した彼女は、第二次世界大戦後、次々に現れることになる自立した女性たちの理想像ともなりました。21世紀でいえば、マドンナあたりが、その直系といった感じかもしれません。

<天使の生い立ち>
 マレーネ・ディートリヒは本名をMarie Magdalene Dietrichといいます。実は彼女の一般的に知られている名前であるMarlene Dietrichマレーネ・ディートリヒ(英語読みではマルレーネ・ディートリヒ)は、本名のMarieとMagdaleneをくっつけたもので彼女自身が考え出したものだそうです。生まれは、1901年ドイツの首都ベルリンでした。父親は警察官で恵まれた家庭でしたが、早くに亡くなったため彼女は母親と祖母によって育てられました。小さな頃から音楽好きだった彼女は、バイオリニストを目指して音楽学校に入学しましたが手首を壊してしまい音楽家になる夢をあきらめました。その後21歳になって、ベルリンの演劇学校に入学。その後映画「小ナポレオン」に女中役でチョイ役ながら出演し、映画デビューを飾りますが、2作目の映画「愛の悲劇」で知り合った製作助手の男性と結婚し、妊娠、出産。22歳にしてママさん女優になった彼女は、その後泣かず飛ばずの状態が続くことになります。彼女の場合、その才能が輝きをみせるまでには、大人の女性に成長するまでの時間が必要だったのかもしれません。さらに、そんな大人の色気と力強さを理解でき、その才能を生かしてくれる人物も必要だったのかもしれません。そして、それにぴったりの人物がアメリカからやって来ました。その人物こそ、彼女をハリウッドに導き、恋人ともなる人物、ジョゼフ・フォン・スタンバーグでした。

<ジョゼフ・フォン・スタンバーグ>
 ウィーン生まれのユダヤ人、ジョゼフ・フォン・スタンバーグ Josef von Sternbergは、アメリカに移住後、29歳の頃からハリウッドで働き始め、働きながら映画監督になるチャンスをうかがっていました。その後、知り合いに貸してもらった3500ドルの資金で「救いを求むる人々」という映画を撮りますが、社会派の渋い作品だったため、映画会社には認めてもらえず、窮地に陥りました。そこで彼は社会問題に真剣に取り組む姿勢を見せていたチャップリンのもとへその作品を持ち込みます。期待したとおりチャップリンはその作品の良さを認めてくれ、チャップリンが友人たちと立ち上げたばかりのユナイテッド・アーティスツの配給で公開されることになりました。こうして一躍有名になった彼はそのおかげでパラマウントに監督として雇われることになりました。当時まだ35歳だった彼は新進気鋭の監督として期待され、ドイツ出身の大物監督エルンスト・ルビッチがギャラの低さを理由に断った「嘆きの天使」を撮るため、久しぶりにヨーロッパへと戻って来たところでした。
 ミュージック・ホールの歌手でありタイトルどおり映画の顔となる「嘆きの天使」ことローラ・ローラは、映画の成功を左右する重要な役なため、配役の決定には非常に長い時間を要しました。そんな中、数多くの候補者の中から監督であるスタンバーグ自らが選んだのは、当時まだまったくの無名だったディートリヒでした。
 その時彼女は、当時ベルリンでヒットしていたミュージカルに出演中で、その歌声を聞いたスタンバーグが映画のイメージにぴったりであると判断したのでした。その判断が間違いではなかったことは、撮影が始まるとすぐに明らかになりました。彼女の才能と魅力に衝撃を受けたスタンバーグは、映画の公開を待っては他社に先を越されるかもしれないと思い、パラマウントの上層部に彼女と専属契約を結ぶよう進言。彼女はまだ誰にも知られないうちにスターへの道を約束されることになりました。

<映画「嘆きの天使」>
 ベテラン俳優エミール・ヤニングス演じるお堅い高校教師が、美しい歌手によって人生を狂わされ、ついには遥かに年の差があるにも関わらず彼女と結婚。最後は彼女のヒモにまで落ちぶれてしまうという「元祖魔性の女」物語ともいえるのが「嘆きの天使」のあらすじです。彼女は、見事にこの難しい役をこなしただけでなく、観客の多くをもその「魔性」の虜にしてしまいました。この映画はもちろん大ヒットとなり、彼女は一躍ドイツではなくハリウッドの人気女優になってしまいました。
 スタンバーグと恋人同士となった彼女は、多くの作品でコンビを組み、次々にヒット作を世に出してゆきます。「モロッコ」(1930年)、「間諜X27」(1931年)、「上海特急」(1932年)、「ブロンド・ヴィーナス」(1932年)、「恋のページェント」(1934年)など、作品は順調に作られましたが、二人の関係は長くは続かず、恋の終わりと共に映画での彼女の活躍は陰りが見えはじめます。

<映画「モロッコ」>
 「モロッコ」のラスト、ゲイリー・クーパー演じる兵士トムを追うディートリッヒ(アミ―)の演技は、映画史に残る名場面です。このラストについて、歴史ノンフィクション作家の塩野七生はこう書いています。
 どうしてまた、と、この映画を観た人は思ったであろう。私なら、こう答える。
 アミーは、トムの眼の奥に漂う絶望が、自分が追ってきたことで消え去るのを見たかったからだと、と。男の後を追うと決めた瞬間から、彼女の絶望は消えたのだ。残ったのは、男の絶望をも消すことだった。
「たった、それだけ?」
「そう、たったそれだけ」
 だが、そのたったそれだけで、女は生きていけるのである。

塩野七生「人びとのかたち」より

<魔性の女のお相手たち>
 実は彼女はハリウッドに移住後も、最初の夫と離婚していませんでした。それどころか彼女は生涯離婚をしませんでしたが、彼女に多くの恋人がいたことは間違いありません。スタンバーグ以後も、有名なハリウッド・スター、ダグラス・フェアバンクスの息子や映画史に残る傑作「西部戦線異状なし」の原作者エリッヒ・マリア・レマルク、フランスを代表する大物俳優ジャン・ギャバンなど、そのお相手はみな超大物ばかりでした。
 しかし、彼女のお相手は実は男性ばかりではなかったとも言われています。その一人がアカデミー賞を総なめにした名作「或る夜の出来事」の主演女優クローデット・コルベールだったといわれています。彼女の持つ怪しげな魅力と女性たちにもファッション・リーダーとして人気があった秘密は、そこにあったのかもしれません。彼女は、そんなユニセックス的な魅力を生かすため、パンツ・スーツを着ることも多く、彼女に憧れる女性たちの多くがそんな彼女を真似することでパンツ・ファッションが流行することにもなりました。今でこそ、女性のパンツ・スタイルは当たり前のことですが、シャネルによって始められた女性のパンツ・スタイルは、ディートリヒによってより広い層へと広められることになったのです。

<映画「凱旋門」>
 前述の作家レマルクとの恋からは、もうひとつの傑作が生まれています。反戦小説「西部戦線異状なし」の作者であるレマルクは、ナチス・ドイツの支配下となったドイツから亡命しなければならなくなり、彼の逃亡をディートリヒが手助けし、その後パリで落ち合ってから彼女の手配で無事アメリカへと出国することができました。
 後に彼はその時にパリで過ごしたつかの間の幸福なひと時を思い出し、小説として発表。それが後にシャルル・ボワイエとイングリッド・バーグマンの主演によって映画化された「凱旋門」(1948年)となりました。(監督はルイス・マイルストン)
 しかし、彼女が世話をした亡命者はレマルクだけではなく、フランスの大物俳優ジャン・ギャバンもまた彼女の助けでフランスからアメリカへと渡っています。ただし、彼は英語がまったくダメだったこともあり、アメリカでの生活になじめず、ハリウッドで何本かの映画に出演したものの、戦争中にも関わらずいち早くフランスへと戻る決意を固め、ドゴール率いる自由フランス軍の兵士として、ヨーロッパ戦線へと旅立って行きました。(このことでジャン・ギャバンはフランスで生涯、英雄として扱われることになります)
 かつて、彼女が主演した映画「モロッコ」でヒロインである彼女はゲーリー・クーパー演じる兵士の後を追って、砂漠の戦場と旅立ちました。そして、現実の世界でも彼女は愛するジャン・ギャバンを追ってヨーロッパへと旅立ったのです。ヒトラーのお気に入りの女優だった彼女は以前からドイツに帰国するよう要請されていましたが、それを断っていました。そのため、彼女の映画はドイツ国内で公開禁止となってしまいます。そんな状況でのフランスへの帰国は当然ジャン・ギャバン以上に危険なものだったはずです。しかし、彼女はあえて故国であるナチス・ドイツと闘う連合国軍兵士たちを慰問するため、ヨーロッパへと向かい、そこであの有名な「リリー・マルレーン」などを歌うショーを行ったのでした。(こうした活動を行ったため、戦後も彼女に対しドイツ国内では批判する声が多かったといいます)
 戦後、ディートリヒとギャバンはパリで再会し、そこでいっしょに暮らし始めました。戦争の中で燃え上がった恋の物語は映画よりもドラマチックなものでしたが、やはり平和の訪れとともにその恋にも終わりがやって来ました。

<女優からエンターテナーへ>
 戦後、彼女はビリー・ワイルダー監督の傑作のひとつ「情婦」(1957年)(共演はタイロン・パワー)などの作品に出演しますが、しだいに映画の現場から離れて行き、歌手としてショービジネスの世界で活躍してゆくようになります。70年代に入り一躍ポップス界の人気者となるバート・バカラックとの関係は特に有名で、まだ無名だった1958年から1963年にかけて、彼はディートリヒの専属オーケストラで指揮者をつとめヨーロッパ・ツアーなどに参加。その成功をきっかけに作曲家としての地位を築いてゆくことになりました。彼は音楽界でも姉御としての役割を果たしていたわけです。彼女はその後70代になっても歌手としての活躍を続け、1992年に90歳で亡くなるまで、その強い女性としてのイメージを保ち続けました。
 戦乱の時代が生んだ女優マレーネ・ディートリヒは時には男を狂わせる魔性の女、時には戦場へ向かう男を追う愛に生きる女、時には故郷を失い、仕事を失った男の世話女房、そうかと思えばカワイイ女の子の姉御役だったり、ついには戦場に向かう男たちすべての母親ともなり「リリー・マルレーン」という名曲とともに永遠に歌い継がれることになりました。
 役者としてスクリーンで演じる以上のドラマチックな人生を送ったからこそ生まれた存在感を現代の女性に求めるのは不可能でしょう。だからこそ、彼女は伝説の女優と呼ぶに相応しいのです。20世紀前半、戦乱に巻き込まれたヨーロッパからは、数多くの不幸なドラマとともに、どの時代よりもドラマチックな愛の物語が生み出されたのです。

<1930年の出来事>
ロンドン軍縮会議開催
ドイツの総選挙でナチスが大躍進
ブラジルで暴動発生、これを機にヴァルガス大統領による独裁政治始まる
第一回英印円卓会議(マハトマ・ガンジーの活躍始まる)
不服従運動の開始、ガンジーが逮捕される
クライド・トンボーが冥王星を発見

農業恐慌起きる(日)
浅草、銀座にモダンガール、モダンボーイが登場
不景気の中、映画、小説、音楽などの娯楽文化が発展。後に「エロ・グロ・ナンセンスの時代」と呼ばれる
<音楽>
「南京豆売り」ドン・アスピアス楽団(世界中で大ヒットとなりルンバ・ブーム始まる)
「二つの愛」ジョセフィン・ベーカー
「ムード・インディゴ」デューク・エリントン

<映画>
「アンナ・クリスティ」〈監)〈原)クラレンス・ブラウン〈出)グレタ・ガルボ、チャズールズ・ビックフォード
「西部戦線異状なし」(監)ルイス・マイルストン(出)リュー・エアーズ(アカデミー作品、監督賞
「結婚草紙」(監)ロバート・Z・レオナード(出)ノーマ・シアラー(アカデミー主演女優賞
「大地」(監)(脚)アレクサンドル・ドブジェンコ(出)セミョーン・スバシェンコ
「巴里の屋根の下」(監)(脚)ルネ・クレール(出)アルベール・プレジャン、ポーラ・イルリ
「犯罪王リコ」(監)マーヴィン・ルロイ(原)ウィリアム・R・バーネット(出)エドワード・G・ロビンソン、ダグラス・フェアバンクス・Jr.
(この作品からギャング映画のブームが始った)
「ラブ・パレィド」(監)エルンスト・ルビッチ(出)モーリス・シュバリエ、ジャネット・マクドナルド
「嘆きの天使」(本文参照)

「何が彼女をそうさせたか」(監)(脚)鈴木重吉(出)高津慶子、藤間林太郎
「お嬢さん」(監)小津安二郎(出)栗原すみ子、岡田時彦

<文学、思想>

「王道」アンドレ・マルロー
「いきの構造」九鬼周造


<美術>
「自由への戸口で」ルネ・マグリット
「アーリー・サンデー・モーニング」エドワード・ホッパー

<時代を変えた発明、モノ>
ポリエステルが発明される(第一次世界大戦での材料不足が開発を進めた)
スコッチ・テープ(セロ・テープ)を3Mが開発
クライスラー・ビル完成(ウィリアム・ヴァン・アレンの設計による)

<1930年の物故者>
アーサー・コナン・ドイル(推理小説作家)
ウィリアム・H・タフト(第27代アメリカ大統領)
D・H・ローレンス(小説家)

内村鑑三(聖書研究者、思想家)
金子みすず(詩人)
田山花袋(小説家)
豊田佐吉(豊田自動織機製作創設者)


参加国は13
ヨーロッパからはフランス、ユーゴ、ルーマニア、ベルギーのみの参加となり、ウルグアイは関心の低さに抗議して次回大会への参加を拒否する
<準決勝>
アルゼンチン 6−1 アメリカ
ウルグアイ 6−1 ユーゴスラビア
<決勝>
ウルグアイ 4−2 アルゼンチン
<活躍した選手>
ホセ・レアンドロ・アンドラーデ(世界初のの黒人スター選手となったウイング・ハーフ)
<ワールドカップ開催までの経緯>
1924年パリ・オリンピック、1928年アムステルダム・オリンピックが連続優勝
1932年ロス・オリンピックではアマチュア規定の問題からサッカーが除外され、そのために世界選手権を開催する企画が登場した
第一次世界大戦によってヨーロッパは疲弊し、逆に食料品を輸出していた南米には勢いがあった

20世紀年代記(前半)へ   トップページへ