
1931年
- ルディ・ヴァリー、ビング・クロスビー、キャブ・キャロウェイ Rudey
Vallee & Bing Crosby ,Cab Calloway -
<大恐慌の時代>
1931年は本当に悲惨な年でした。1929年にはじけたアメリカ経済のバブルは、その後世界各国にも影響を及ぼし始め、世界中が経済恐慌の渦に巻き込まれようとしていました。もちろん、その震源地となったアメリカの状況はさらに悪化し、1933年には大恐慌前1929年の工業生産と国民所得はともに半分にまで落ち込むことになります。失業者の数は1300万人に達し、当時の全労働者の4人に1人が失業していたことになります。
仕事もなく食べるだけで精一杯だったこの時代、当然音楽ビジネスは壊滅的な打撃をこうむりました。例えば、ブルースやゴスペルなどの黒人音楽に関しては、その売り上げが1/5近くにまで落ち込んでいました。さらに悪いことに1919年から施行された歴史的悪法「禁酒法」の影響でミュージシャンたちが出演する店も大幅に減少。見る方、聞く方、そして演奏する方、すべてにおいて音楽の力は弱まりつつありました。しかし、そんな時代だからこそ、世の中が暗いからこそ人々は娯楽を求めてもいました。
例えば、この年、映画界では「魔人ドラキュラ」「フランケンシュタイン」といった怪奇映画の原点となる作品が次々に誕生。一大恐怖映画ブームを巻き起こし、もうひとつ「犯罪王リコ」のヒットからギャング映画もまたブームとなっています。そして、ポピュラー音楽の世界では、白と黒二人のエンターテナーが登場し、その後長くに渡り人々を楽しませて行くことになります。
<元祖ポップ・アイドル、ルディ・ヴァリー>
当時は「クルーナー」と呼ばれるソフトで甘い歌声のヴォーカリストの時代でした。その代表格は1927年に「マイ・ブルーヘブン」を大ヒットさせたルディ・ヴァリーです。彼は「クルーナー」と呼ばれた最初のスター歌手でした。ところが、この「クルーナー」という呼び方は、「歌を口ずさむ」とか「つぶやく」といった意味で、元々は「歌唱力のない歌手」というバカにしたいいかただったようです。当時はまだオペラ歌手こそが本当の歌手だったのですから、当然といえば当然かもしれません。そして、評論家たちもまた彼の歌をまたく評価しなかったようです。しかし、彼に対する評価の低さは歌唱力の問題だけではありませんでした。実は彼はポピュラー音楽史上最初のティーン・アイドル歌手だったといわれているのです。
細身で青い目のイケ面、そのうえエール大学卒のスポーツマン。当然、家の裕福で音楽業界に入る必要はなかった人物です。だからこそ、当時の10代の女の子たちは、彼を理想の恋人像と考え、コンサートでは失神者が続出するアイドルとなりました。1950年代にエルヴィス・プレスリーが現れた時、多くのマスコミは「ルディ・ヴァリーの再来」と呼んだほどです。見た目の良さに比べ、声量が不足していた彼はそれを補うため、メガフォンを口に当てて歌うという今では考えられない方法で一躍人気者になり、多くの歌手がそのマネをしました。彼の声量のなさはけっして不利には働かず、逆に幸いしました。
1928年、彼が出演していたニューヨークのクラブからラジオ番組が中継放送されることになり、マイクを用いて歌いだすとそれが大評判となりました。ラジオ向けに必要な音楽は、それまでのようなオペラではなくささやくように歌いかけるルディーのような歌い方だったのです。こうして、彼はラジオ番組で歌うだけでなく司会や映画俳優としても活躍。青春アイドルスターとして1930年代になても活躍を続けました。しかし、彼にはその歌い方しかできず、青春時代を過ぎる頃には、ビング・クロスビーのようなよりリズミカルに、より激しく歌える歌い手たちによってアイドルの座を奪われることになります。
<ビング・クロスビー登場>
ビング・クロスビーはいち早く当時登場したばかりのマイクロフォンを用いることで、新しい時代の歌い方を確立します。小さな声で歌っても、電気的に拡大できるこの方法はすぐに世界中に広まることになりますが、この方法をいち早くマスターした彼はマイクロフォンを用いた歌唱法を確立した最初の歌い手と呼ばれることになりました。
さらには彼自身がジャズ・ファンだったこともあり、スウィング感のある歌い方でルディ・ヴァリーのような甘ったるいだけの歌い手たちとは異なる魅力を獲得してゆきました。彼は自分の歌い方について、自伝「コール・ミー・ラッキー」の中でこう言っています。
「僕は歌い手じゃない、語り手なんだ」
もう一つ彼の特徴は、彼が楽譜をほとんど読めなかったということです。そのため、彼はその歌唱法を本物の歌い手たち(ほとんどは黒人ジャズ・ミュージシャン)の歌を聞き、そして盗み取ることで獲得して行きました。彼には、優れた耳とそれを自分のものにするだけの歌唱力があったということです。
1931年、彼はCBSのラジオ番組で毎日15分歌うわくを獲得します。彼の甘い歌声はたちまち、ラジオを通して全国へと広がり、いっきにアメリカン・アイドルになっていったのです。
<ビング・クロスビー>
20世紀前半における最高の白人エンターテナー、ビング・クロスビー(本名はハリー・リリス・クロスビーJr)。1904年5月2日にワシントン州のタコマに生まれた彼は当初、芸能人になろうとは思っていませんでした。ピルグリム・ファーザーズ直系の子孫にあたる彼の父親はイエズス会に所属する厳格なクリスチャンで母親はアイルランド系のカトリック教徒、そんな家庭に育った彼にとっては、ミュージシャンになるなどあり得ないことだったのです。。そんなわけで、彼は大学では司法を学び、弁護士など法律の専門家になることを目指していました。しかし、学生時代に音楽活動を始めると、その魅力にひかれるようになり、友人のアル・アンカーらとジャズ・バンド「ミュージカル・レイダース」を結成し、彼自身も歌を歌い始めました。結局、彼は司法の道を捨て音楽界で歌手として生きる決意を固めると、故郷を離れてロサンゼルスへと旅立ち、本格的に音楽活動に専念するようになりました。1926年には、「I've
Got the Girl」でレコード・デビューを飾ります。しかし、なんといっても彼がブレイクするきっかけを作ったのは、彼とアルがいっしょに参加したジャズ・バンド、ポール・ホワイトマン楽団のおかげでした。当時、白人のバンド・リーダーとしてナンバー1の人気を誇っていたポール・ホワイトマンは、1924年には「アメリカ音楽とは何か」という企画コンサートでジョージ・ガーシュインに名曲「ラプソディー・イン・ブルー」を発表させたことでも有名な仕掛け人で、その彼が認めた新人歌手としてスタートできたことは、すでに彼の成功を約束させるものだったのかもしれません。
白人のジャズ・ヴォーカリストとしては珍しくスウィング感のある歌唱力を武器に人気を獲得した彼は、その後バンドを離れ、アルともうひとりハリー・バリスを加えた3人でヴォーカル・トリオ、リズム・ボーイズを結成しました。そして、この年、彼は満を持してソロ・アーティストとしてデビューを飾ったのです。
<映画俳優、ミュージカル俳優として>
その後、彼は映画俳優としても活躍し、1942年の映画「スイング・ホテル」では主題歌「ホワイト・クリスマス」を大ヒットさせ、ビートルズの登場まで音楽史上最大のヒット曲として歴史に刻まれることになります。そのうえ、彼は俳優としての演技力も認められるようになり、1944年には映画「我が道を往く」でアカデミー主演男優賞を受賞しています。彼はアイドル・スターから俳優、歌って踊れるエンターテナーとして、アメリカを代表する大スターへと登りつめてゆきました。彼のこうしたスタイルはこの後に続くポピュラー・シンガーたちに大きな影響を与えることになります。フランク・シナトラを初めとする白人エンターテナーはみな彼を目標にして育ってゆきました。
<黒いエンターテナー>
大恐慌によって大きな痛手を受けたアメリカでしたが、ニューヨークの街はそんな中でもけっして活気を失ってはいませんでした。1931年、建設中だったNYのシンボル、エンパイヤー・ステート・ビルは無事完成するなど、アメリカの経済界の勢いはけっして衰えてはいませんでした。そして、そんな勝ち組とも言える白人富裕層が夜遊びをするために繰り出す街、ハーレムの中心で一段と賑わいをみせていたのが、有名なコットンクラブでした。ジャズ界の大御所デューク・エリントンは、そのクラブの専属バンドとして人気を支えていました。しかし、あまりに売れっ子になってしまった彼は、ハリウッド映画から出演以来が殺到し、ついに撮影のためハリウッドに行くことになってしまいました。その大きな穴を埋めるために選ばれたのが、黒いエンターテナーとして名高いキャブ・キャロウェイです。
「サー・デューク」とまで言われた見た目の上品さとクラシック音楽にも後に挑戦することになる音楽的質の高さを持っていたデューク・エリントンとは対照的に、キャブはあくまで庶民的なスターでした。彼は、音楽家としてというよりは、観客を楽しませるエンターテナーとしてコットン・クラブのステージに立ち、あっという間にそれまで以上の人気を獲得。すぐに専属バンドの地位につくことになりました。
1907年12月25日(わお!クリスマスじゃないですか)にニューヨーク州のロチェスターで生まれた彼はニューヨークの黒人文化の真っ只中で育ちました。ところが、彼はもともと音楽家を志していたわけではなく、大学で法律を学ぶ秀才でした。その後、クラシック音楽の道に移り、指揮者を目指すようになり、デューク・エリントンとはある意味同じような道を歩んでいたといえます。ところが、彼は次第にクラシック音楽に対する興味を失い、ジャズやポップス、それもストリートの香りのする音楽へと転向していったのでした。
<目でも楽しめるエンターテナー>
彼のエンターテナーぶりは、ジャズでもなくR&Bでもない独自のスタイルだったため、これまで正当な評価をされずにきました。もちろん彼の音楽は今でもCDなどで聞くことができます。しかし、彼の音楽は目と耳で楽しむものだったので、映像で楽しむ方が良いのかもしれません。幸い、彼のエンターテナーぶりは、1981年にドキュメンタリー映画「ミニー・ザ・ムーチャー」として映像化されています。(この作品にはデューク・エリントンやルイ・アームストロングも出演していて華やかなりし頃のハーレムの賑わいを知ることができます)もちろん、彼の名を世界的に知らしめることになった映画「ブルース・ブラザース」も忘れてはいけません。
さらに彼が出演していた当時のコットン・クラブの様子を目で見てみたいという方にお薦めなのが、「ゴッドファーザー」の巨匠フランシス・フォード・コッポラの映画「コットン・クラブ」です。リチャード・ギア主演のこの映画では、今は亡きグレゴリー・ハインズが得意のタップ・ダンスを披露し、一躍世界的に有名になりました。その他にも、ニコラス・ケイジ、ラリー・フィッシュバーン、トム・ウェイツなどが出ており、若き日のキャブ・キャロウェイも登場しています。(演じているのは別の俳優、ラリー・マーシャルですが)
エンターテナーである彼は映画俳優としても活躍しています。1932年「ラジオは笑う」で映画デビュー。何本かの映画に出演しています。有名な作品では、スティーブ・マックウィーンの出世作「シンシナティー・キッド」(1965年)にもカード・プレイヤーの一人として出演しています。
<ファッション・リーダーとしてのキャブ>
彼のエンターテナーぶりはステージでのファッションにも存分に発揮されていました。1980年代に、トーキング・ヘッズのデヴィッド・バーンがドキュメンタリー映画「ストップ・メイキング・センス」で着て有名になった巨大な肩広のスーツの原型、「ズート・スーツ」を世に広めたのは、キャブでした。長髪を振り乱し、バンドの指揮をしながら得意のフレーズ「ハーディ・ハーディ・ホー」を連発する彼はまた言葉のファッション・リーダーでもありました。
クラシックを専門に勉強していながらストリートの文化に常に興味を持ち続けていた彼は、黒人独特の言い回しであるジャイヴ・トークJive
Talkを自らの手で体系化し、1944年に「ジャイブ辞典(キャブ・キャロウェイズ・ヘップスターズ・ディクショナリー)」として出版までしています。面白おかしく黒人文化を紹介しながらも、黒人文化というものを誇りあるものととらえていた彼の考え方は、当時としては実に進んだものでした。
<現代に生きるキャブの魂>
彼のミュージシャンとしての評価はさほど高くはないかもしれません。しかし、独特のファッションを生み出し、独特の言語まで生み出したその高いエンターテイメント性は、その後多くの黒人ミュージシャン、エンターテナーたちに影響を与えることになりました。
エディー・マーフィーの話術、プリンス独特の造語、あらゆるラッパーたちのライム、それら黒人たち独特のスタイルをエンターテイメントの世界に持ち込んだ先駆者ともいえる人物。それがキャブ・キャロウェイだったわけです。
暗い時代だったからこそ、明るい音楽を求める観客の心をとらえた白と黒のエンターテナーは、アメリカ文化を代表するエンターテイメントの原点として、未だにその輝きを失っていません。
<1931年の出来事>
国際連盟軍縮会議決裂
満州事変・リットン調査団による調査が始まる
ウェストミンスター憲章(英国連邦の成立)
オーストリア中央銀行破産、ドイツとともに恐慌が深刻化
毛沢東、江西省に中華ソヴィエト臨時政府樹立
ニューヨークにエンパイア・ステート・ビル完成
羽田空港開港
<音楽>
「タイガー・ラグ」ミルズ・ブラザース(ジャズ・コーラスの草分け)
ビング・クロスビーがソロ・デビュー
キャブ・キャロウェイがコットンクラブの専属になる
<映画>
「悪魔スヴェンガリ」〈監)アーチ・L・メイヨ(原)ジョルジュ・ルイ・ジュモリエー〈出)ジョン・バリモア、マリアン・マーシュ
「惨劇の波止場」(監)ジョージ・ヒル(主)マリー・ドレスラー(アカデミー主演女優賞)
「シマロン」(監)ウェズリー・ラッグルズ(主)リチャード・ディックルズ(アカデミー作品賞、1960年にリメイク)
「自由の魂」(監)クラレンス・ブラウン(主)ライオネル・バリモア(アカデミー主演男優賞)
「スキピィ」(監)ノーマン・タウログ(主)ジャッキー・クーパー(アカデミー監督賞)
「モロッコ」(監)ジョセフ・フォン・スタンバーグ(出)ゲイリー・クーパー、マレーネ・ディートリッヒ
「間諜X27」(監)ジョセフ・フォン・スタンバーグ(出)マレーネ・ディートリッヒ、ヴィクター・マクラグレン
「M」(監)フリッツ・ラング(原)エゴン・ヤコブソン(出)ペーター・ローレ、オットー・ベルニッケ
「街の灯」(監)(脚)(音)(出)チャールズ・チャップリン、ヴァージニア・チェリル
「民衆の敵」〈監)ウィリアム・A・ウェルマン(脚)ハーヴェイ・シュウ(出)ジェームズ・キャグニー、エドワーズ・ウッズ
「フランケンシュタイン」(監)ジェームス・ホエール(主)ボリス・カーロフ(フランケンシュタイン映画の原点)
「魔人ドラキュラ」(監)トッド・ブラウニング(主)ベラ・ルゴシ(怪奇映画ブームに火をつけ永遠のリメイクが始まる)
「マダムと女房」(監)五所平之助(出)渡辺篤、田中絹代(松竹の最初のトーキー作品)
「一本刀土俵入り」(監)稲垣浩(出)片岡千恵蔵、伏見直江
日本初の日本語字幕付き外国語映画「モロッコ」公開(字幕製作はアメリカの工場で行われていた)
<1931年の物故者>
アルバート・マイケルソン(マイケルソン・モーレーの実験で有名な物理学者)(米)
アンドレ・ミシュラン(ミシュラン・タイヤ創業者)(仏)
北里柴三郎(医学者)(日)
渋沢栄一(実業家)(日)
トーマス・エジソン(発明家)(米)
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