1932年

- コール・ポーター Cole Porter -

<Mr.アメリカン・メロディー>
 この年、アメリカを代表する作詞、作曲家のコール・ポーターは、ミュージカル「陽気な離婚 Gay Divorce」の音楽を担当。一躍人気作曲家の仲間入りを果たしました。ミュージカル自体も大ヒットを記録しますが、その中で使われた曲「I 've Got You Under My Skin」、「Night and Day」もまた大ヒット。現在にまで至る超ロングセラーとなり、アメリカを代表するスタンダード・ナンバーの仲間入りをすることになります。
 それだけではありません。この2曲の他にも、彼は20世紀を代表するスタンダード・ナンバーを数多く書いています。
「Anything Goes」、「I Get A Kick out of You」、「You're the Top」(1934年、ミュージカル「Anything Goes」より)
「Begin the Begine」、「Just one of Those Thing」(1935年、ミュージカル「Jubilee」より)
「Easy to Love」(1936年、映画「踊るアメリカ艦隊」より)
「In the Still of the Night」(1937年、映画「ロザリー」より)
「You'd Be So Nice To Come Home To」(1943年、映画「Something to Shout About」より)
「All of You」(1955年、ミュージカル「絹の靴下 Silk Stocking」より)
「You are Sensational」(1956年、映画「上流社会」より)

 どの曲も、タイトルからメロディーが自然と思い浮かぶスタンダード・ナンバーばかりで、カバー曲の数は数え切れません。彼が「20世紀を代表する最もアメリカ的な作曲家」と呼ばれるのも当然です。彼こそ、「Mr.アメリカン・メロディー」と呼ぶに相応しい作曲家なのです。
 意外なことに、彼はほとんどの曲を作曲だけでなく作詞まで手がけていました。どうりで彼の作る歌は歌詞とメロディーが実に見事に一体化しているはずです。英語がわからない人でも、自然にメロディーといっしょに歌詞が出てくる曲と詞の相性のよさは、彼の曲が持つ大きな特徴のひとつです。それにしても、それだけ多くのスタンダード・ナンバーを生み出したコール・ポーターという人物はいかなる人物だったのでしょう?どうやらそこには、大きな秘密が隠されていたようです。「Mr.アメリカン・メロディー」の秘密に迫ってみたいと思います。

<天才少年の生い立ち>
 コール・ポーターは1891年6月9日インディアナ州のペルーという街で生まれました。父親の名がサム・ポーターSam Porterで母親の名がケイト・コールKate Coleだったので、彼の名はコール・アルバー・アルバート・ポーターCole Albert Porterと名づけられたのだそうです。
 母方の祖父が広大な農場を経営する大富豪だったため、金銭的には何不自由なく育てられた少年でしたが、彼の両親はけっして裕福ではなく、彼は家庭で甘やかされることなく育てられました。6歳の頃からピアノを習い始めた彼は、すぐにピアノ演奏だけでは飽き足らなくなり、10歳の頃には作曲をするようになりました。彼の場合、才能に恵まれていたのは音楽だけではなかったようで、高校を首席で卒業し、その後名門のイエール大学に進学しました。
 大学では社交クラブやいろいろなクラブ、団体のためにさっそく曲を提供、作曲家としての活動を開始、当時彼が作った曲の多くは今でも学内で使われているということです。当然、まわりも彼は音楽の道へと進むものと考えていたようです。しかし、彼は音楽の道を選ばずに別の道を選択しました。その理由は、彼を援助してくれた祖父が彼に対し、法律家になることを望んでいたからです。そのことを知っていた彼は、自らの望みを捨て、祖父の望みを実現しようとハーバード大学に入学し、法律を学び始めました。心優しい彼の思いによって、20世紀を代表するポピュラー音楽の名曲の数々は危うく失われるところでした。しかし、彼の音楽への思いは強く、家族もまたそうした彼の思いを知ると、彼が音楽の道に進むことを認めることになりました。こうして、彼はハーバードを退学し、音楽学校に再入学することになります。

<挫折と渡欧>
 1916年、彼にとって最初のブロードウェイ・ミュージカル作品「Sea America First」の音楽を担当しますが興行的に失敗。音楽についても批評家に不評で、大きなショックを受けた彼は逃げるようにパリへと旅立ちました。幸福な家庭で育った彼にとって、それは人生最大の挫折でした。
 時は1917年、まだヨーロッパでは第一次世界大戦が行われていましたが、彼はパリにしばらく住む決意を固め、作曲家ヴァンサン・ダンディに師事しもう一度音楽を学び始めました。翌年に戦争が終わるとパリの街は再び芸術の都としての勢いを取り戻し、まさに黄金時代の様相を呈します。そんなパリの社交界に出入りしていた彼は、ある日パーティーで運命的な出会いを果たします。彼にとって生涯の伴侶となる女性は、リンダ・トーマス Linda Thomasという名で、彼同様アメリカからの移住組でした。彼女の場合、その渡欧の理由は離婚による悲しみを忘れるためでしたが、お互いに共通するものがあったこともあり、すぐに二人は意気投合し愛し合うようになります。ただし、二人の関係には大きな問題がありました。実は、コール・ポーターは同性愛者だったのです。しかし、リンダを信頼していた彼は、自分が同性愛者であることをあえて告白しました。現在と違い、同性愛者であることは完全なタブーだった時代なのでその告白には強い決心が必要だったはずです。リンダに嫌われることも覚悟していた彼でしたが、意外なことにリンダは彼の告白を素直に受けとめました。離婚を経験し、強い男性不信に陥っていた彼女にとってセックス抜きの男性との付き合いは、かえって安心できるものだったのかもしれません。当然、二人の間に子供はできませんでしたが、その代わり彼は彼女に対し心からの愛の歌を書き綴りました。これこそが、彼が誰よりも素敵な愛の歌を書けた原因であり、曲だけでなく詞までも手がけた最大の理由なのかもしれません。そして、彼女はそんな心優しい彼のためにビジネス・パートナーとしても働き始めます。

<二人三脚での活躍>
 1919年二人はついに結婚します。彼の音楽的才能を埋もれさせたくなかった彼女は、彼を音楽界に復帰させるため、大きな賭けに出ます。なんと当時アメリカでもっとも人気があった作曲家アーヴィング・バーリンをパリに招待し、二人を引き合わせたのです。(ちなみに彼女の家もまた大富豪だったようです・・・なんかちょっと不公平な気がしないでもないですが・・・)彼女の作戦は見事に成功。バーリンもまた彼の才能に惚れ込み、彼にさっそくブロードウェイ・ミュージカルの仕事を紹介してくれたのです。こうして、彼は再び、アメリカに戻りショービジネス界に復帰することになったのです。
 アメリカでの彼の作品、1928年「Let's Do It」、1929年「5千万人のフランス人」は続けてヒットし、翌年のミュージカル「The New Yorkers」からは「Love For Sale」が初めての大ヒットとなり、一躍彼の名はアメリカ中に知られることになりました。その後、1935年に彼はハリウッドに移住し、ブロードウェイではなくハリウッド映画のミュージカルに向けた仕事を中心に活躍するようになりました。才能、名誉、お金、そして愛すべき妻にまで恵まれた彼は、幸福の絶頂だったといえるかもしれません。しかし、そんな彼を突然の不幸が襲います。

<人生最大のつまづき>
 1937年、乗馬に出かけていた彼は落馬事故で足に大きな怪我を負い、その後ずっとその後遺症に悩まされることになります。両足をほとんど動かせなくなった彼は、ピアノのペダルすら踏めない状態になりました。そのため、医者は足の切断をすすめました。いっそのこと足がなければ義足によって歩行も可能になったのかもしれません。しかし、どんなに不自由でも足があることの方が彼にとっては重要なことでした。彼にとっては、自分の身体に足がありさえすれば、それだけでかつて自分が自由に馬に乗ることができた時の記憶や人を愛した感動を思い出せる、そう思っていたのです。妻のリンダもそのことが理解できたので、あえて医師の提案を断ったといいます。そのため、リンダは夫に付っきりで世話をすることになりましたが、その献身的な愛のおかげで、その後も、彼は作曲家としての活動を続けることができたのです。生き生きとした彼のラブ・ソングを聴いた人々は、彼がまさか歩くこともできない同性愛の作曲家だとは思いもしなかったでしょう。
 そんな逆境の中に作られた1948年のミュージカル「キス・ミー・ケイト」は、彼にとって最大のヒット作となり、アメリカのショービジネス界における最大の賞、トニー賞の第一回ミュージカル作品賞を彼にもたらしました。
 しかし、そんな素晴らしい妻のリンダでしたが1954年、彼女は肺気腫によって、この世を去りました。彼女の支えを失った彼の足はさらに症状が悪化し、1958年、ついに彼は手術によって足を切断してしまいました。妻と足、両方を失ってしまった彼にはもう曲を作る気力はなく、その後彼はまったく新曲を発表しなくなり、1964年10月15日静かにこの世を去りました。

<ヒット曲を書く秘訣>
 彼はヒット曲を書く秘訣について、「とにかくユダヤ風のメロディーを書くことだ」と言っていたそうです。確かにアーヴィング・バーリンジョージ・ガーシュインジェローム・カーン、シグムント・ロンバーグ、ルドルフ・フリムルなど、この時代の大物作曲家たちはみなユダヤ系でした。そして、映画もブロードウェイも、ショービジネス界全体はユダヤ系の移民たちによって動かされていたといえます。ユダヤ系ではなかった彼にとって、ユダヤ人になった気持ちになって曲を書くことは確かに重要なことだったのかもしれません。
 もうひとつ、同性愛者である彼にとって、恋の歌はただ単に熱く燃える病のようなものではなく、プラトニックで客観化された「クール」な存在にならざるをえなかったのかもしれません。さらにはユダヤ人になりきるという曲作りもまた彼を常に「クール」にさせていたのでしょう。彼の作り出した歌が、どれも情熱的というよりは都会的でクールなものばかりなのは、そんな彼の人間性から来たもののように思います。そして、そうした曲だからこそ、都市文化の時代を迎えようとしていたこの時代に彼の曲は広く受け入れられることになったのだと思うのです。
 民族、人種、宗教、肌の色、性別、地域性、社会的な階層など、あらゆる分類に関わりなく愛される歌。それは移民の国として発展し続けていた当時のアメリカにとって、最も求められている歌でした。コール・ポーターの相手を思いやる優しい心が生んだ恋の歌は、だからこそアメリカ人の心をとらえて話さないし、その他の国に住む人々にとってもいつまでも懐かしい歌であり続けるのだと思います。

<1932年の出来事>
ローザンヌ会議(ドイツの賠償金が減額される)
リットン報告が国連で採択される
ナチスの議席が38%を上回る(ドイツの第一党となる)
満州国建国宣言
五・一五事件(犬養総理大臣が暗殺される)
サウジアラビア王国、イラク王国独立
日本橋のデパート白木屋(現在の東急百貨店)で火事
ロサンゼルス夏季オリンピック
レイクプラシッド冬季オリンピック
ヴェルナー・ハイゼンベルクがノーベル物理学賞を受賞

<音楽>
「I 've Got You Under My Skin」、「Night and Day」コール・ポーター作
エルネスト・レクォーナがレクォーナ・キューバン・ボーイズを結成
オペラ「ムツェンスクのマクベス夫人」ドミートリイ・ショスタコーヴィチ

<映画>
「アルセーヌ・ルパン」〈監)ジャック・コンウェイ(製)サミュエル・ゴールドウィン(出)ライオネル・バリモア、ジョン・バリモア
「暗黒街の顔役」(監)ハワード・ホークス(製)ハワード・ヒューズ(クレジットなし)(出)ポール・ムニ、ジョージ・ラフト
「素晴らしき放浪者」(監)(脚)ジャン・ルノワール(出)ミシェル・シモン、シャルル・グランバル
「自由を我等に」(監)(脚)ルネ・クレール(出)レイモン・コルディ、アンリ・マルシャン
「三文オペラ」(監)G・W・パプスト(原)ゲルトルト・ブレヒト(出)ルドルフ・フォルスター、カローラ・ネイベル
「人生案内」(監)(脚)ニコライ・エック(出)ニコライ・バターロフ、イワン・クイルラ
「グランド・ホテル」(監)エドモンド・グ−ルディング(出)グレタ・ガルボ、ジョン・バリモア、ジョーン・クロフォード
(グランド・ホテル形式といわれる映画の元になったオールスター作品、アカデミー作品賞
「バッド・ガール」(監)フランク・ボーゼージ(出)サニー・アイラース(アカデミー監督賞
「ジキル博士とハイド氏」(監)ルーベン・マムーリアン(出)フレデリック・マーチ(アカデミー主演男優賞
「マデロンの悲劇」(監)エドガー・セルウィン(出)ヘレン・ヘインズ(アカデミー主演女優賞
「フリークス」(監)(製)トッド・ブラウニング(出)ウォーレス・フォード、オルガ・ヴァクラノヴァ
「仮面の米国」(監)マーヴィン・ルロイ(原)R・E・バーンズ(出)ポール・ムニ、グレンダ・ファレル
「類猿人ターザン」(監)W・S・ヴァンダイク2世(原)エドガー・ライス・バローズ(出)ジョニー・ワイズミューラー

「生まれたはみたけれど」(監)小津安二郎(出)斉藤達雄、吉川満子
「嵐の中の処女」(監)島津保次郎(出)水島亮太郎、飯田蝶子
「忠臣蔵」(監)(脚)衣笠貞之助(出)阪東寿三郎、林長二郎
「国士無双」(監)伊丹万作(出)片岡千恵蔵、山田五十鈴
第一回ヴェネチア映画祭開催:最高賞受賞作は「自由を我等に」(ルネ・クレール)「マデロンの悲劇」(エドガー・セルウィン)「ジキル博士とハイド氏」(ルーベン・マムーリアン)
東京宝塚劇場設立(現在の東宝)

<文学、思想>
「開かれたる処女地」ミハイル・ショーロホフ
「八月の光」ウィリアム・フォークナー
「夜の果てへの旅」ルイ・フェルディナンド・セリーヌ
J・ゴールズワージー(英)がノーベル文学賞

<時代を変えた発明、モノ>
ルードヴィッヒ・ホールヴァインの徴兵ポスター「Und Du?」(ナチスによるプロパガンダの先駆的作品)

<1932年の物故者>
ジョン・フィリップ・スーザ(作曲家:マーチ王)
ジョン・チャールズ・フィールズ(数学者:フィールズ賞)

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