1933年

- ジミー・ロジャース、ラルフ・ピアー 、カーター・ファミリー -

<カントリー音楽の父>
 この年1933年は「カントリー音楽の父」といわれた人気歌手ジミー・ロジャーズ Jimmie Rodgersが36歳という若さでこの世を去った年です。わずか6年という短い活動期間にも関わらず、彼はカントリー音楽の世界で初めてスーパー・スターと呼べる存在に登りつめました。彼の活躍以前、カントリー音楽のミュージシャンは全員がアマチュアだったといえます。それぞれ昼間は別の仕事について生活費を稼ぎ、その合間の休日や夜、音楽を演奏して小遣いを稼ぐのが当たり前でした。(有名なカーター・ファミリーでさえ、まだ別に本業を持ちながら音楽活動を行っていました)
 彼によって初めて「カントリー音楽」は職業として、本業として成り立つものとなったわけですから、「カントリー音楽の父」と呼ばれるのも当然かもしれません。彼の短い人生を追いながら、カントリー音楽というジャンルがどうやって誕生し、育っていったのかをみてみましょう。

<放浪のミュージシャン>
 1897年ミシシッピー東部の田舎町メリディアンで生まれたジミー・ロジャースは小さい頃から音楽が得意でした。そのため、早くから音楽で食べて行く事を決心し、わずか15歳で家を出ると、サーカスやメディスン・ショーなどの一団に加わって、南部各地を放浪する生活を送ります。そして、その間に持ち前の音楽的才能によって、各地で出会った音楽をどんどん吸収して行きました。その中には、白人系の音楽であるヒルビリーやトラッドだけでなくゴスペルやブルースなどの黒人音楽など様々な人種の音楽もありました。彼は当時鉄道会社で働いていたこともあり、そこで鉄道の敷設作業をする黒人たちの雑用係を勤める時期もあったそうです。この頃、彼は多くの黒人たちと付き合いながら彼ら独特のブルースの歌唱法やギター奏法などを学ぶことになったといわれています。
 黒人たちは野外での肉体労働を行う際、仕事のタイミングを合わせるために彼ら独特の労働歌「フィールド・ハラー」を歌っていました。より遠くへ歌声を響かせるため裏声(ビブラート)を用いる彼ら歌唱法は、後に彼が確立することになる「ヨーデル唱法」のもとになったともいわれます。
 ただし、この「ヨーデル唄法」の由来については他にも説があります。(1)スイスから来た旅芸人がアルプス山脈独特のヨーデルの歌い方を伝えた(2)アメリカのカウボーイたちが牛を追う時の掛け声こそがその元である、などです。たぶんどの説もそれぞれある程度正しいのでしょう。
 彼はメディスン・ショーで顔を黒く塗って黒人に扮してバンジョーを弾く仕事もするなど、黒人音楽を演奏する白人として自然にブルース的な音を自分の音楽に取り込んでいったようです。有名になって後、彼はルイ・アームストロングなど黒人ミュージシャンたちとの共演を行っていますが、人種差別がまだ当たり前だった当時、こうした黒人たちとの共演はジャズ以外のジャンルでは珍しいことでした。自然に黒人たちと交流することのできる彼の資質こそ、彼がアパラチア地方の民謡だったカントリーをアメリカを代表するポップスへと現代化、大衆化することができた最大の理由だったのかもしれません。
 この年5月、肺病で苦しんでいた彼は病床にも関わらず、ビクターのレコーディング・スタジオに看護婦と共に入り、録音を行いました。その時すでに衰弱がひどかったため、録音は何度も中断され、12曲を録音した直後、彼は喀血。そのまま病院へと向かい5月26日、この世を去りました。享年35歳という若さでした。

<カントリー音楽のルーツ、アパラチア>
 彼によって全米へと広められたカントリー音楽ですが、そのルーツはどこにあるのでしょうか?ロックン・ロールのもうひとつのルーツ・サウンドともいえるカントリー音楽の歴史をさかのぼってみたいと思います。そのために、先ずはカントリー音楽の故郷であり、ホワイト・アメリカンにとっての心の故郷ともいわれる土地、アメリカ東部アパラチア山脈から話を始めてみたいと思います。
 アメリカ中東部に北から南へと走る古い山脈地帯であるアパラチア地方は、短いアメリカ合衆国の歴史において、最も長い歴史をもつ土地のひとつです。そこは白人だけでなく黒人たちも多く、閉鎖的な山間の土地に押し込められた異なる文化がぶつかる状況は、新しい文化を生み出すために最適の条件だったといえます。こうして、その土地には、アメリカの他の地域とは異なる文化が根付き、それがカントリー音楽を生み出す土壌になりました。
 アパラチアにヨーロッパからの移民が住み出したのは、18世紀初めのことです。山岳地帯で農地に適していなかったため、移民たちはとうもろこしを栽培し、それを原料にバーボンを造り細々と生計を立てていました。この土地は、カントリーの故郷であると同時にバーボン・ウイスキーの故郷でもあるのです。ところが、その後アメリカがイギリスから独立すると、財政的に厳しかったアメリカ政府は財源確保のためにアルコール飲料に税金をかけるようになります。突然、政府から出された納税の指示にアパラチアの住人の多くが激怒、徹底抗戦する人々も多く彼らは山奥へと逃げ込んで行きました。こうして、山の中に密造酒を作る隠れ村が数多く生まれることになりました。
 こうした歴史的経緯もあり、この地域はしだいに他の地域から孤立するようになり、ヨーロッパ各地から持ち込まれたトラディショナル・ソングがそのままタイムカプセルに入れられたように残ってゆくことになったわけです。それらの曲の中には、サイモンとガーファンクルで有名な「スカボロー・フェア」やスタンダード・ナンバーの「グリーン・スリーブス」などもありました。
 その後、南北戦争が終わった頃からアパラチアではもうひとつ重要な産業が発達し始めます。それは石炭に関する産業です。アパラチア山中で石炭の採掘が始まると、それを積み出すため、鉄道の敷設工事が始まり、未開の地だった山奥に多くの労働者が入り込むようになりました。しかし、そこは厳しい労働環境だったこともあり、貧しい白人の移民に混じり、奴隷から解放され仕事を求めていた黒人たちも数多く働くようになります。こうして、トラディショナル・ソングとブルースとの出会いが実現することになったわけですが、その典型的な例のひとつがジミー・ロジャースだったわけです。
 こうした環境のもと、ジミー・ロジャースは自らの音楽を確立していったわけですが、これだけでは彼がミュージシャンとして成功できるはずはありませんでした。鉄道で働きながら歌う田舎の無名歌手の才能を認め、世に出してくれた仕掛け人の存在がなければ彼は一生アパラチアの山の中で働きながら歌う生活を送っていたかもしれません。そんなわけで、ここでもうひとりアメリカン・ポップスにおける知られざる偉人、ラルフ・ピアーに登場してもらいます。

<ラルフ・ピアー>
 楽曲出版社社長、レコーディング・プロデューサーとして、1920年代に活躍したラルフ・ピアーは、アメリカン・ポップスの歴史において非常に重要な仕事をいくつも成し遂げています。1920年、史上初のブルース・レコードといわれるメイミー・スミスの「クレイジー・ブルース」が発売されましたが、そのプロデュースを担当したのがラルフ・ピアーでした。そして、当時まだ名前のなかった黒人音楽に対し、「レイス・レコード(人種レコード)」という名前をつけたのも彼だったといわれています。
 ブルースやカントリー音楽が売れると確信した彼は、その後アメリカ南部を旅しながら各地の優れたミュージシャンの音楽を録音して回り始めます。そうした録音の中から彼はカントリー音楽における最初のスターとなったフィドル奏者のジョン・カーソンを発掘しています。
 そして1927年、彼は多くの知られざるアーティストがいるアパラチアの地を訪れ、そこで新たなスター、ヒット曲を求めてフィールド・レコーディングを行うことにしました。ブリストルという町に仮設のスタジオを作った彼は、新聞広告や口コミなどで集まってきた地元のミュージシャンたちの歌や演奏を録音する作業を開始。多くの人々は、一曲録音すれば50ドルという大金が手に入るという噂にひかれて集まりましたが、彼に認められれば、歌手としてデビューできるかもしれない、そう思って集まった若者も少なくなかったことでしょう。
 そして、この時彼の元にやって来たミュージシャンたちの中に、ヴァージニア州出身のカーター夫妻とその妹からなる後のカーター・ファミリーとジミー・ロジャースがいたのでした。

<カーター・ファミリー>
 カーター・ファミリーもまたジミー・ロジャース同様、黒人音楽からの影響を大きく受けています。特に彼らのツアーにも参加していた黒人ギタリスト、レスリー・リドルの存在は非常に大きかったようです。彼はカーター・ファミリーの中心であるA・P・カーターと二人で各地のブルースやゴスペルを録音。それをもとにして洗練されたギター・サウンドをバックにしたポピュラー音楽としてのカントリーを確立しました。(そう考えると、最初のポップ・スターは多くの音楽情報を収集し、それを統合することで誕生したということのようです。今も、当時も、情報を制するものが、成功への秘訣ということなのかもしれません)
 後にカントリー界の大御所ジョニー・キャッシュと世紀の不倫ドラマを演じることになるメイベル・カーターは「カーター・スクラッチ」と呼ばれる独特のギター奏法を開発したことでも知られる名ギタリストになります。こうして、ジミーより先に活動を開始し、プロのミュージシャンへの道を歩み出した彼らは、その洗練されたサウンドとアット・ホームな雰囲気により、いち早く人気者となりました。ちなみに、A・P・カーターの妻、サラ・カーターは後に「カントリーの母」と呼ばれることになります。

<カントリー音楽、ブレイクへの仕掛け>
 実はやり手のビジネスマンでもあったラルフ・ピアーは、彼らを売り出すためにいくつかの仕掛けを準備していました。当時、カントリー音楽は単に田舎に住む人々が聞く音楽ではなく、農業の不振、工業化の波によって都会へと移住していった新都会人たちが癒しの音楽として故郷を懐かしむために聞かれる傾向になりつつありました。さらにそこにレコードの普及とラジオの全国放送開始が重なり、人々はかつて耳にしたカントリー音楽を再認識することになたのです。
 そうなると人々の求めるカントリー音楽のイメージは、懐かしいアメリカ南部の田舎スタイルとなるわけです。そこで、ラルフ・ピアーはカーター・ファミリーとジミー・ロジャースに常にジーンズのオーバー・オールやテンガロン・ハットなど、アメリカの田舎をイメージさせる衣装を着させ、田舎からやって来たことを強調するイメージ戦略をとったのでした。現在でもカントリー音楽といえば、テンガロン・ハットにウエスタン・ブーツと決まっていますが、こうしたイメージづけの原点は、この頃生まれたものだったのです。
 カントリー音楽の誕生がある意味マーケティング戦略による作られたものだったというのは意外な事実ですが、「カントリーの父」も「カントリーの母」も、どちらも本物のカントリーの世界を生きた人物であり、彼らの歌が「白いアメリカの心の故郷」を歌っていたことは間違いのない事実だったのです。

<1933年の出来事>
フランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策
農業調整法(AAA)テネシー峡谷開発公社法(TVA)
禁酒法廃止される(米)
アメリカがソ連を国家として承認
ヒトラーが首相となり、独裁制始まる(ナチ党が議席の52%)
日本が国際連盟を脱退(ドイツも)
ロンドン世界経済会議失敗に終わる
シカゴでメジャーリーグ初のオールスター戦開催
山形市で40.8度の日本最高を記録(2007年この記録は破られました)

<音楽>
現代シャンソンの元祖といわれるシャルル・トレネがデビュー
「ソフィスティケイテッド・レディー」デューク・エリントン

<映画>
「制服の処女」(監)レオンティーネ・ザガン(出)ドロテア・ウィーク、ヘルタ・ティーレ
「巴里祭」(監)(脚)ルネ・クレール(出)アナベラ、ジョルジュ・リゴー
「犯罪都市」(監)ルイス・マイルストン(出)アドルフ・マンジュー、パット・オブライエン
「カヴァルケード」(監)フランク・ロイド(原)ノエル・カワード(出)ダイアナ・ウィンヤード(アカデミー作品、監督賞
「キングコング」(監)メリアン・C・クーパーアーネスト・B・シュードワッツ(製)デヴィッド・O・セルズニク(出)フェイ・レイ
「クリスチナ女王」〈監)ルーベン・マムーリアン(原)(脚)サルカ・ヴィアテル〈出)グレタ・ガルボ、ジョン・ギルバート
「勝利の朝」(監)ローウェル・シャーマン(出)キャサリン・ヘップバーン(アカデミー主演女優賞
「若草物語」(監)ジョージ・キューカー(原)ルイザ・メイ・オルコット(出)キャサリン・ヘップバーン、ジョーン・ベネット
「我輩はカモである」(監)レオ・マッケリー(脚)バート・カルマー、ハリー・ルビー(出)マルクス兄弟

「出来ごころ」(監)小津安二郎(出)坂本武、伏見信子
「滝の白糸」(監)溝口健二(出)入江たか子、岡田時彦
「夜ごとの夢」(監)成瀬巳喜男(出)栗島すみ子、小島照子
「丹下作膳」(監)伊藤大輔(出)大河内伝次郎、阪東勝太郎
「二つの燈篭」(監)衣笠貞之助(出)林長二郎、尾上栄五郎

<文学、思想>
「血の婚礼」ガルシア・ロルカ
「特性のない男」ローベルト・エードラー・フォン・ムジール
小林多喜二が治安維持法で逮捕され拷問により虐殺される

<美術、建築>
「コンポジション」ピエト・モンドリアン
ナチスによりバウハウスが閉校に追い込まれる

<時代を変えた発明、モノ>
「サランラップ」(ポリ塩化ビニルPVC)ダウケミカル社
ポリエチレンを開発(ICI社)
ラコステ社の「ラコステ・シャツ」発売(ロゴ物商品の原点、ポロ・シャツの原点)

<1933年の物故者>
ジミー・ロジャース(本文参照)
ジョージ・ムーマ(アイルランドの文学者)
片山潜(社会活動家)
小林多喜二(文学者)
宮沢賢治(児童文学者、詩人、農学者)
新渡戸稲造(国連事務次長、農学者)

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