
1934年
- ベニト・ムッソリーニとアズーリたち -
<ワールドカップ・サッカー>
2002年、日韓共催のワールドカップ・サッカー決勝戦ブラジル対ドイツの試合を僕はスタジアムで見ることができました。ジーコやマラドーナが活躍していた時代からサッカーを見始めた僕にとって、深夜枠のサッカー放送でしか見られなかったワールドカップを現場で見られたことは大いなる感動でした。試合後の閉会式の時、空から舞い降りてくる美しい折鶴を見ながら(拾いながら)、サッカーが世界中に与えてきた感動の大きさを改めて実感。「スポーツというより巨大ビジネス」といわれることも多い最近ですが、これほどの国際交流イベントは他にないのも確かです。
夏季オリンピックよりも参加国が多い世界最大のイベント、ワールドカップ・サッカー。それは、国家間の代理戦争であり、国威発揚の場であり、世界最大のビジネスであり、巨大賭博場であり、経済活性化の起爆剤であり、サッカー選手の国際見本市会場であり、国際民間交流の会場であり、サッカー・ファンすべてにとっての夢でもあります。
しかし、1930年にワールドカップ・サッカーが始まった当初、誰もこれほどのイベントになることを予想してはいなかったようです。といっても、ワールドカップの本大会は2006年のドイツ大会でまだ18回しか開催されておらず、人類の歴史にとってはそれほど長い歴史とはいえないかもしれません。当然、その18の大会の中には多くのスーパー・プレイと多くの事件があったわけですが、改めて振り返ってみるとそれぞれの大会は開催された当時の世界の状況を多分に反映していました。それぞれの大会で活躍した国は、傾向としてその時代に勢いのあった国、経済や政治の面で時代を代表する国である場合が多かったのです。もちろん、大会を開催する国は経済的に豊かで、政治的にも安定してるのは当然で、地元であればモチベーションが高いのも当然でした。だからこそ、活躍する可能性が高かったのでしょう。そんなワールドカップの歴史の中でも特に象徴的な大会、それが1934年開催のイタリア大会です。
<イタリア大会への参加国>
この大会について語るには、先ずこの大会に参加した国、参加しなかった国について説明しなければなりません。
ワールドカップ第一回大会は、ヨーロッパではなく南米のウルグアイで開催されました。そのため、ヨーロッパの国々の多くは遠すぎること、期間が長くなり参加選手確保が難しいことを理由に参加を見合わせました。当時はまだ大西洋を横断する旅客機はなく、選手たちははるばる船で南米まで行かなければならなかったのですから、仕方がなかったのかもしれません。とはいえ、ヨーロッパから参加しのがベルギー、フランス、ルーマニア、ユーゴスラビアの四カ国だけだったということで、開催国のウルグアイは大いに怒り、その報復としてイタリア大会への不参加を決定しました。さらにアルゼンチンはプロ・リーグの試合と重なるという理由でプロ選手を派遣せずアマチュア選手が参加。(これには別の理由もあったのですが)ブラジルもまたトップ選手ではなく、その下のクラスの選手が参加しました。
さらにヨーロッパでもサッカー発祥の地であるイングランドがいち早く不参加を決定。その理由は、元々イングランドのサッカー協会は自分たちの協会こそが正当なサッカー協会であると考えていたため、国際サッカー連盟の存在を認めず、そこに入会していなかったからです。(世界最初のサッカー協会は当然イギリスに生まれおり、それとは別にFIFAが生まれています)グレート・ブリテンを構成する他の国々スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの協会(英国四協会)もまたイングランドに同調し、ワールド・カップへの参加を見送りました。
こうした中、それでも世界各地の32カ国が予選に参加。そこから勝ち残った16カ国によって本大会が行われました。ただし、その中にはこの大会の後、すぐにソ連によって併合され地図から消されることになる二つの国、リトアニアとエストニアも含まれていました。
<16カ国による闘い開始>
こうして、いよいよイタリアでの本大会に参加するため16の国が集結しました。ヨーロッパからは、地元イタリア、チェコスロバキア、ルーマニア、ドイツ、ベルギー、オーストリア、フランス、スペイン、スイス、オランダ、スウェーデン、ハンガリーの12カ国。南米からはブラジルとアルゼンチンのわずか2カ国で北中米からアメリカが、アフリカからはエジプトが参加し、アジアはゼロでした。こうして参加国の顔ぶれを見ただけでも、この大会がヨーロッパ中心の大会であったことがわかるでしょう。というより、当時はまだ世界を動かす中心はヨーロッパであったということの証明でもありました。
一回戦を終わった時点で、ベスト・メンバーで来なかった南米の2チームが敗退。残ったのは、すべてヨーロッパのチームで、ドイツ、スウェーデン、オーストリア、ハンガリー、イタリア、スペイン、チェコスロバキア、スイスでした。
大会前に本命とされていた当時世界最高のゴールキーパー、リカルド・サモラを擁するスペインと「ヴァンダーチーム(驚きのチーム)」と呼ばれていたオーストリア、そして地元のイタリアがその中に残っていました。
<ムッソリーニのアズーリ>
この時のイタリア・チームの愛称は「ムッソリーニのアズーリ(青)」。1922年に政権をとったファシスト党のベニト・ムッソリーニは、自らサッカー・ファンだったこともあり、この大会にかけた意気込みはたいへんなもので、大会中もイタリアの試合はすべてスタジアムで観戦したほどです。おまけに1936年ドイツの名を知らしめたことから、イタリアも負けられないという思いがありました。
オリンピック、ワールドカップ・サッカーと続けてファシズムの国家が成功させるとなれば、世界中にその優位を知らしめる最高のアピールとなるのは間違いありませんでした。そう考えるとイタリア・チームの優勝は至上命令だったわけです。そのためにイタリア・チームは優勝をするための補強にも力を入れます。主将のルイス・モンティも含め、レギュラーのうち3名は元アルゼンチン代表メンバーで、国籍をイタリアに移しての出場でした。(現在では一度代表になったら、その国以外から出場することは禁止されているようです)アルゼンチンはこうした引き抜きに抗議する意味もあり、アマチュア・メンバーでのぞんだとも言われています。
当然、個々の選手も勝つために必死になり、そのためにラフ・プレーが多発することになりました。特に優勝に最も近いといわれていたスペイン戦では、レフェリーが明らかにイタリアよりの判定をしたこともあり大荒れの試合になりました。双方から多くの怪我人を出すことになったこの準決勝の試合は延長戦でも決着がつかず、翌日再試合となりました。(当時はPK戦も延長でのVゴール方式もありませんでした)ところが翌日の再試合、スペインは守護神であるキーパーのリカルドを含め7人が出場できず、イタリアも骨折者がでて4人が欠場となりましたが、レフェリーは相変わらずイタリアよりの判定で、なおかつ試合開始直後にはスペイン左ウィングのボスケが怪我のため走れなくなりました。当時は選手の交代はたとえ怪我をしても許されていなかったので、スペインは実質10人で闘うことを余儀なくされたわけです。こうなると、試合は完全にイタリアのペースとなります。結局、この試合はイタリアが1−0で勝利を収めることになりました。
<ベスト4の顔ぶれ>
こうして、ベスト4に勝ち残ったのは、イタリア、ドイツ、オーストリア、チェコスロバキアとなりました。皮肉なことに、ファシズム国家が二つと、その数年後にファシズムによって国土を奪われる国が二つという対照的な国が残ったわけです。
イタリアの準決勝の相手は、もうひとつの優勝候補オーストリアでした。しかし、この時のオーストリアはすでにピークを過ぎたベテラン選手が多くイタリアの勢いを止めることは到底できませんでした。イタリアはこの試合もまた1−0で勝利を収めました。
決勝戦はチェコスロバキアとイタリアという対照的なサッカー・スタイルをもつ国の対戦となりました。チェコスロバキアは美しいパス回しを得意とする欧州と南米のスタイルをあわせもつ総合的なチームでした。(そのスタイルは2006年ドイツ大会出場チームにも受け継がれていました。僕も含めかなりの人が、チェコをダークホース的存在もしくは優勝候補と考えていました)そして、対するイタリアといえば、先制を取って、その後はカテナチオと呼ばれるしぶとい守りで点を取らせないという泥臭いサッカーを身上とするチームです。もちろん、このスタイルもまた現在にいたるまで変わっていないといえるでしょう。長い歴史で培われたチーム・カラーというものは、国民性とともに生き続けているようです。
こうして行われた決勝戦の結果はやはりイタリアが2−1で勝利を収めました。「ムッソリーニのアズーリ」は見事にプレッシャーをはねのけ、ジュール・リメ杯を手にしたのでした。ちなみに3位決定戦ではドイツが勝利を収め、ファシズム連合にとってはこれ以上ないプロパガンダとなったのでした。
<その後のワールドカップ>
その後のワールドカップでも、やはり参加国自体の勢いが成績に反映されるという傾向は続きました。
例えば、ソ連の場合、1958年のスウェーデン大会以来、ワールドカップの常連国となり、1966年のイギリス大会では4位にまでなっています。それはソ連がアメリカと鉄のカーテンごしに冷戦を繰り広げ、宇宙開発競争ではアメリカを上回る結果を残していた社会主義にとっての黄金時代と重なっていました。残念ながら、社会主義の限界が見え出した70年代以降、ソ連は国家が崩壊するまでサッカーでの結果を残すことはできませんでした。
ハンガリーは、1950年代初め「マジック・マジャール」と呼ばれ、世界最強を誇っていた時期がありました。特に1950年の5月から1954年にかけては、国際試合で26試合負け無しという伝説的な記録を作っています。1954年開催のスイス大会でも決勝戦でドイツに負けたのが唯一の負けでした。しかし、この黄金時代は意外な形で終わりを迎えることになりました。ソ連圏の中で独自の民主化路線を歩んでいたハンガリーのやり方にストップをかけるため、1956年ソ連軍がハンガリーに侵攻。そのため、ソ連の支配を嫌うプシュカシュらの代表メンバーが他国に亡命。伝説のチーム「マジック・マジャール」は、時代の流れによってあっという間に解体されることになってしまったのです。
世界最強のサッカー大国ブラジルもまた例外ではありませんでした。弱冠17才の天才少年ペレを擁するブラジルが初優勝を飾ったのが1958年のスウェーデン大会。当時のブラジルは第二次世界大戦によって大きな被害を受けたヨーロッパに食料を供給することでかつてない好景気を迎えていました。当然、国内経済が好調ならば優秀な選手は国内にとどまり、代表チームの強化もスムーズに進みます。こうして、ブラジルのサッカーは黄金時代を迎え、続く1962年のチリ大会でも見事に優勝を飾ります。ちなみに、この黄金時代は、ブラジルでボサノヴァが若者たちの間から生まれてきた時期とも重なっています。
最近でも、日韓大会での韓国、日本の活躍は東アジア経済の力を見せ付けると同時に国の勢いを感じさせるものでした。
そして、つい最近行われた2006年のドイツ大会はECの大会でもあったことからヨーロッパ勢が優勝するのは当然の結果だったといえそうです。もちろん、前評判が低かったドイツがベスト4まで勝ち上がったのも当然の結果だったといえるでしょう。
それでは次回南アフリカ大会はどうなるのか?当然アフリカ勢は活躍するでしょう。それに中国もまた勝ち上がるのではないでしょうか?大穴はインドか?
<1934年の出来事>
ドイツ・ポーランド不可侵条約締結
ソビエト連邦国連に加盟
ハイチが独立
カタロニアのスペインからの独立が失敗
バルカン友好同盟条約発効(トルコ、ギリシャ、ルーマニア、ユーゴ)
ガンジーが引退し、ネールが国民会議派指導者となる(インド)
日本がワシントン・ロンドン条約を破棄し軍備拡張路線へ
東北地方で冷害による飢饉
室戸台風が日本上陸
<音楽>
「Anything Goes」、「I Get A Kick out of
You」、「You're the Top」コール・ポーター作
ジャンゴ・ラインハルトとステファン・グラッペリがフランス・ホット・クラブ五重奏団を結成
ハモンドがハモンド・オルガン(電子オルガン)を発表(米)
リッケンバッカー社がエレクトリック・スティール・ギターを開発
アッティラ・ザ・フン、ザ・ライオンがNYのデッカで初録音(カリプソが黄金時代を迎える)
レコードの検閲開始(日)
<映画>
「或る夜の出来事」(監)フランク・キャプラ(主)クラーク・ゲイブル、クローデット・コルベール(アカデミー作品、監督、主演男優、主演女優各賞)
「意思の勝利」(監)レニ・リーフェンシュタール(ドイツ、ニュールンベルグ党大会のドキュメント、ヴェネチア映画祭最高賞)
「商船テナシチー」(監)(脚)ジュリアン・デュビビエ(脚)シャルル・ヴィルドラック(出)マリー・グローリー、アルベール・プレジャン
「クレオパトラ」(監)セシル・B・デミル(脚)バートレット・コーマック(出)クローデット・コルベール、ウォーレン・ウィリアムズ
「ムーランルージュ」(監)シドニー・ランフィールド(製)ダリル・F・ザナック(出)コンスタンス・ベネット、フランチョット・トーン
「会議は踊る」(監)エリック・シャレル(音)ウェルナー・ハイマン(出)リリアン・ハーヴェイ、ウィリー・フリッチェ
「痴人の愛」(監)ジョン・クロムウェル(原)サマセット・モーム〈出)ベティ・デイヴィス、レスリー・ハワード
「街の灯」(監)(原)(脚)(出)チャーリー・チャップリン(出)ヴァージニア・チェリル
「にんじん」(監)(脚)ジュリアン・デュビビエ(原)ジュール・ルナール(出)ロベール・リナン
「南風」(監)キング・ヴィダー(出)ライオネル・バリモア、ミリアム・ホプキンス
映画に対する検閲制度スタート(ヘイズ規則)アメリカ映画製作者配給者協会が自主的に映画製作倫理規定を設定、ハリウッドの健全映画時代が始まる
その代表的作品が「コンチネンタル」(主)フレッド・アステア&ジンジャー・ロジャース、「歓呼の嵐」(主)シャーリー・テンプル
「浮草物語」(監)小津安二郎(出)坂本武、飯田蝶子
「隣の八重ちゃん」(監)(原)(脚)島津保次郎(出)大日方伝、岡田嘉子
「生きとし生けるもの」(監)五所平之助(出)大日方伝、菅原英雄、川崎弘子
「一本刀土俵入」(監)(脚)衣笠貞之助(出)林長二郎、岡田嘉子
「武道大鑑」(監)(脚)伊丹万作(出)片岡知恵蔵、山田五十鈴
<文学>
「北回帰線 Tropics of Cancer」ヘンリー・ミラー
Henry Miller
<美術>
「分割=統一 Division-Unity」ワシーリー・カンジンスキー
「アメリカ文明の叙事詩<ケツァルコアトルの到来>ホセ・クレメンテ・オロスコ(メキシコ)
<時代を変えた発明・モノ>
ディーゼル機関車第一号走る(米)
ダグラス社旅客機の原型となるDC3を製造(米)
豊田自動織機自動車部「トヨダAA型」を発表
遺伝子学におけるルイセンコ学説が発表される(ロシア)
<1934年の物故者>
エドワード・エルガー(英・作曲家「威風堂々」など)
グスターブ・ホルスト(英・作曲家「惑星」など)
チャーリー・パットン(米・ブルース・ミュージシャン)
ヒンデンブルグ(ドイツ・ワイマール共和国第二代大統領)
マリー・キュリー(ポーランド・物理学者)
高村光雲(日・彫刻家)
竹久夢二(日・日本画家、詩人)
東郷平八郎(日・海軍元帥)
直木三十五(日・作家)
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