1935年

- ベニー・グッドマン、ジョン・ハモンド Benny Goodman, John Hammond -

<大恐慌からの復活>
 1930年に突然アメリカを襲った大恐慌は、アメリカ経済を壊滅状態にしました。アメリカ合衆国の1933年の国民所得は、いっきに1929年時点の半分に落ち込み、失業者の数も1300万人を超え、全労働力人口の4分の1に達していました。それでも、F・D・ルーズベルト大統領が進めたニューディール政策などが効果をあげたこともあり、再びアメリカ経済は上昇の兆しを見せ始めていました。この年1935年は、こうしてアメリカ経済がどん底を脱し、再び世界経済の牽引役として歩み始めた年といわれています。そして、こうして時代が変化の兆しを見せ始めたとき、そこには必ず時代を象徴する新しい英雄が生み出されることになります。当時、一大ブームを巻き起こしたスウィング・ジャズのきっかけを作った男ベニー・グッドマンこそ、この時アメリカ国民が選んだ英雄でした。もちろん、そうなったのは彼のもつクラリネット奏者としての才能の賜物だったのですが、それとは別に彼を助けた縁の下の力持ちや運命的な偶然があったことも忘れるわけにはゆきません。

<天才少年ベニー>
 ベニー・グッドマンは1909年5月30日シカゴに生まれました。ユダヤ系の縫製職人の家に9人目の子として生まれた彼は、家が貧しかったこともあり学校にもろくに行けず、音楽は無料で受けられる音楽教室で学びました。しかし、彼は元々音楽の才能に恵まれていたようで、10歳の頃にはすでに一流のクラリネット奏者として知られるようになり、12歳の頃には大人に混じってプロのバンドで演奏していたといわれています。当時、彼が住んでいたシカゴの街はジャズの中心地となっていて、彼はそこでニューオーリンズからやって来た本物のジャズの洗礼を受けながら成長する機会に恵まれました。
 キング・オリバー、ルイ・アームストロング、ジェリー・ロール・モートン、ジョニー・ドッズらの演奏は、シカゴの黒人ミュージシャンたちに大きな影響を与えていただけでなく、白人の優れたジャズ・ミュージシャンを育てました。ベニー・グッドマンの先輩にあたる白人クラリネット奏者の草分け的存在ビックス・バイダーベックも、そんな白人ミュージシャンの一人でした。ベニーはそんなビックス・バイダーベックと早くも14歳の時に共演したといいます。

<内気なバンド・リーダー>
 ベニー・グッドマン Benny Goodmanは早くも26歳にしてバンド・リーダーになっていましたが、それでも彼一人の力では、到底歴史に残るスウィング・ジャズのブームは巻き起こせなかったでしょう。そこには重要な仕掛け人の存在が必要でした。当時のアメリカ社会の頂点に位置する名門バンダービルト家の御曹司であり、優秀なジャズ評論家兼プロデューサーだったジョン・ハモンド。そして、もうひとり優秀なマネージャー、ウィラード・アレキサンダーの存在こそが、彼を頂点へと押し上げる最大の功績者でした。
 二人が企画したニューヨークからロサンゼルスへのアメリカ横断コンサート・ツアー。そして、この年に始まったNBCラジオのヒット・パレード。この二つによるプロモーションが絶妙のタイミングで行われたことは、彼のバンドがアメリカ中でブレークすることになった最大の理由でした。
 彼らのツアーが始まった当初、観客の反応はけっして良いものではありませんでした。各会場での観客の入りも悪かったため、中止の可能性さえありました。元々けっして自信家ではなかったベニー・グッドマンはすっかり意気消沈し、自分から降りると言い出したといいます。しかし、ジョンとウィラードが彼の尻を叩いて強引にツアーを続けさせました。すると、ツアーが進むに連れて事態が好転し始めたのです。特にロサンゼルスのラジオ局は積極的に彼の曲を取り上げてくれ、次第にその知名度があがり始めました。さらにアメリカ経済全体が彼のツアーに合わせるように上昇カーブを描き始めていたこともあり、彼にとって好都合な条件がそろいつつあったのです。
 こうして彼のバンドがロサンゼルスに到着する頃になると、その人気は全国レベルへと広がっており、周りの状況はどんどん良い方向へと進み始めていました。次々と有名ホテルでのコンサート契約がまとまりだし、NBCラジオからのオファーにより、彼のホテルでのライブは26週間にわたり全国へと放送されることになりました。
 そんなスウィング・ジャズ黄金時代への転換点となったのが、この年8月21日にハリウッドで行われたコンサートだったと言われています。

<白黒混成バンドの先駆け>
 ジョン・ハモンドは、レコーディング・プロデューサーとしても大きな役割を果たしています。彼はレコーディングの際、編曲、作曲のスタッフに積極的に黒人を採用しました。そして、そのことこそがベニー・グッドマンのサウンドを「スウィング・ジャズ」と呼ばれる独自のものへと発展させる最大の要因だったのです。特に、ビッグバンド・ジャズのスタイルを確立したといわれる黒人ミュージシャン、フレッチャー・ヘンダーソンの編曲、テディ・ウィルソンのピアノは、彼の「スウィング・ジャズ」に無くてはならない存在でした。
 さらに彼のバンドは、ジャズ・バンドとして初めて白人黒人の混成バンドでコンサートを行ったことでも知られています。もちろん、それまでも白人と黒人はレコード録音の場でいっしょに演奏することはありました。顔さえ見えなければ、レコードの録音には白黒問わず優秀なミュージシャンを使った方が良いのですから。しかし、顔が見えるライブでは事はそう簡単ではありません。それもコンサート・ツアーを行うとなれば、会場はどんなところになるかわからないのです。人種的偏見の強い南部の田舎町でコンサートを行うとなれば、ニューヨークやシカゴの高級クラブで行うのとまったく話は違ってくるのです。まして、当時はどんな大都会でも人種の分離が徹底されていました。(人種分離を合法化した「プレッシー判決」による)ステージ上でどんなに盛大な拍手を浴びても、その会場を出るときは、黒人専用の裏口を用いなければならず、ツアー中もホテルやレストランはすべて白人メンバーとは別になる。それが黒人ミュージシャンが直面しなければならない現実だったのです。
 もちろん、彼らを雇う側にも嫌がらせや危険が及ぶこともありました。そのため、気楽な気持ちで黒人ミュージシャンをバンドに加えることはできなかったのです。だからこそ、彼がテディ・ウィルソンやライオネル・ハンプトンをバンドのメンバーに加えたことは画期的だったのです。後に彼のバンドにはジョン・ハモンドの推薦で、まだ無名だったビリー・ホリディも加わることになります。
 ジョン・ハモンドの影響は実はそれだけではありませんでした。ベニー・グッドマンの最愛の妻アリスは、なんとジョン・ハモンドの妹だったのです。当然、彼女もまた大富豪バンダービルト家の娘だったわけですから、彼は全米でもしかするとただ一人、お金に困る心配のないジャズ・ミュージシャンだったのかもしれないのです。その意味でも、彼はアメリカン・ドリームの体現者の一人だったといえそうです。
 もうひとつ恵まれていたことは、当たり前のことですが彼が白人だったことです。しかしそのことこそが、彼の生み出した「スウィング・ジャズ」が全国的なブームとなった最大の原因だったのかもしれません。誰もが楽しめるダンス・ミュージックは、小さな子供から老人まで、すべての世代の人々を躍らせることができ、なおかつ彼が白人だったことで、新たな白人ファン層を獲得することができたのです。実際、彼が1937年3月に行ったコンサートには、クラブやボール・ルームには年齢制限で入ることの出来ない白人の少年少女たちが殺到し大混乱になったそうです。(その後登場するプレスリーやビートルズのコンサート会場と同じ状態だったのかもしれません)
 1920年代に白人バンド・リーダーのポール・ホワイトマンが「ジャズ王」と呼ばれて一世を風靡したように、1930年代は彼が「スウィング王」として一時代を築くことになるのです。

<スウィング・ミュージック>
 こうして世界的な人気を獲得することになった彼の音楽は白人による白人のための音楽という傾向が強かったこともあり、「スウィング・ジャズ」というよりは「スウィング・ミュージック」と呼ぶほうが正確だったのかもしれません。そして、それは一つのジャンルを形成するほどの繁栄を誇ったため、逆にジャズの歴史からはいつの間か置いて行かれることになりました。スウィングの基礎を築き、すでに完成させていた黒人ジャズ・ミュージシャンたちは、当の昔にスウィングに飽きており、40年代に入った頃にはすでに「ビ・バップ」の時代に突入するのです。「ビ・バップ」発祥地の一つであるハーレムのミントンズ・プレイハウスは1941年にオープン。そこからチャーリー・クリスチャンらの活躍が始まることになります。
 さらにビッグ・バンド・ジャズの時代もこの頃で終わりを迎えることになり、スウィングの時代はあっという間に過去の音楽になってゆきます。ただ、スウィングが表現した自由の国アメリカの古き良き時代のイメージは、今でもその音楽と共に蘇らせることができます。それもまた音楽のもつ素敵な魔力のひとつでしょう。
 ベニー・グッドマンが生み出した音楽は、未だに時代を越え、聴くものに1930年代を生きた人々が感じていた明日への希望を思い出させてくれるのかもしれません。
 ジャズ・エイジからスウィング・ジャズ黄金時代へ

<1935年の出来事>
エチオピア戦争(イタリアによるエチオピアの占領)
国際連盟が対伊制裁決議を可決
アドルフ・ヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄、再軍備開始
ストレーザ会議(対独についての英仏伊の提携)
反ユダヤの法律化(ニュールンベルグ法)(独)
フランス人民戦線結成
北欧4国中立ブロックを形成
モスクワに地下鉄開通
フィリピン独立

<音楽>
「Begin the Begine」、「Just one of Those Thing」コール・ポーター
「サムデイ・ベイビー・ブルース」スリーピー・ジョン・エステス
「ハワイ・コールズ」ハワイアンをアメリカ本土に紹介したラジオ番組
「暗い日曜日」 ダミア
オペラ「ポーギーとベス」から「サマータイム」などが誕生(アメリカ製オペラの傑作、J・ガーシュイン作)
NBC放送でラジオ初のヒットパレード番組始まる
ボブ・ダンがエレキギターを初めて使用(ギブソン製)
リオのカーニバルがコンテスト形式になる
バリ島でケチャが舞台芸術として成立

<映画>
「南海征服(戦艦バウンティ号の叛乱)」(監)フランク・ロイド(出)チャールズ・ロートン、クラーク・ゲイブル(アカデミー作品賞
「男の敵」(監)(製)ジョン・フォード(出)ヴィクター・マクラグレン(アカデミー監督賞、主演男優賞
「虚栄の市」(監)ルウベン・マムーリアン(テクニカラー初の長編色彩映画が大阪松竹座で封切りとなる)
「青春の抗議」(監)アルフレッド・E・グリーン(出)ベティ・デイビス(アカデミー主演女優賞
アカデミー主題歌賞誕生し、フレッド・アステア&ジンジャー・ロジャースの「コンチンンタル」が受賞(映画「陽気な離婚」より)
「ブエノスアイレスの灯」(出)カルロス・ガルデル
「乙女よ嘆くな」〈監)ジョージ・スティーブンス(音)マックス・スタイナー〈出)キャサリン・ヘップバーン、ハティ・マクダニエル
「おもかげ」(監)カルミネ・ガローネ(ヴェネチア映画祭最高賞
「最後の億万長者」(監)(原)(脚)ルネ・クレール(出)マックス・デアリー、ルネ・サン・シール
「外人部隊」(監)(脚)ジャック・フェデー(脚)シャルル・スパーク(出)マリー・ベル、ピエール・リシャール・ウィルム
「未完成交響楽」(監)(脚)ウィリー・フォルスト(出)ハンス・ヤーライ、マルタ・エッゲルト
「トニ」(日本未公開)(監)(脚)ジャン・ルノワール(出)シャルル・ブラヴェット、セリア・モンタルヴァン

「妻よ薔薇のやうに」(監)(脚)成瀬巳喜男(出)丸山定夫、千葉早智子
「街の入墨者」(監)(脚)山中貞夫(出)河原崎長十郎、深水藤子
「雪之丞変化」(監)衣笠貞之助(脚)伊藤大輔(出)林長二郎、千早晶子
「国定忠次」(監)(原)山中貞夫(出)大河内伝次郎、高津愛子
「お琴と佐助」(監)(脚)島津保次郎(出)田中絹代、高田浩吉
「忠次売り出す」(監)(脚)(原)伊丹万作

松竹系の楽士、弁士が全廃される(サイレント映画時代の終焉)

<文学、思想など>
美濃部達吉の天皇機関説により不敬罪で告発される
「私小説論」 小林秀雄
日本ペンクラブ発足(島崎藤村が初代会長に就任)
第一回芥川賞「蒼茫」石川達三
第一回直木賞「明治一代女」「鶴八鶴次郎」川口松太郎

<美術、建築など>
「落水荘」フランク・ロイド・ライト

<時代を変えた発明、モノ>
デュポン社のウォーレス・カロザースがナイロン(ポリマー66)を開発
世界初のテレビの定期放送開始(独)

<1935年の物故者>
オーギュスト・エスコフィエ(フランス料理の始祖)
カジミール・マレーヴィチ(画家)
カルロス・ガルデル(タンゴ歌手、映画俳優)
トーマス・エドワード・ロレンス(「アラビアのロレンス」)
リロイ・カー(ブルース・ピアニスト)

坪内逍遥(作家、評論家、翻訳家)
寺田寅彦(物理学者)

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