
1938年
- カルメン・ミランダ Carmen Miranda -
<アメリカに渡ったサンバの歌姫>
この年、ブラジル、サンバ界の歌姫カルメン・ミランダは、バイーア出身のソングライター、ドリーヴァル・カイーミと「バイーア娘が持っているものは何?」をデュエット。まだ無名だったカイーミが世に出るきっかけとなったこの曲のヒットで、いよいよ彼女はブラジルを代表する存在となります。そして、そんな彼女の存在に注目したアメリカ人興行師は、彼女をスカウト。翌年彼女をアメリカへと連れてゆくことになります。
ショービジネスの最高峰、ニューヨークへの進出を果たした彼女は、その後アメリカで大活躍することになり、アメリカン・ドリームを実現した最初のブラジル人アーティストとなりました。しかし、彼女の活躍はそう長くは続かず46歳という若さでこの世を去ってしまいます。そして、その存在はいつしかアメリカでも故郷のブラジルでも忘れられてゆきました。
なぜサンバ界のアイドルは忘れられてしまったのか?そこには彼女のようにアメリカ進出を果たした世界各地のアーティストたちに共通する厳しい現実があるようです。
<スターへの道>
カルメン・ミランダは、1909年2月9日ブラジルではなくポルトガルで生まれました。本名はマリア・ド・カルモ・ミランダ・ダ・クーニャといい、先に移民してリオ・デ・ジャネイロで床屋をやっていた父親を追って1910年にブラジルへ渡りました。彼女の家族は裕福とはいえませんでしたが、音楽的才能には恵まれていました。23歳という若さで亡くなった兄は歌手としてもうすこしでスターになれるところでしたし、妹のアウローラは後に歌手として人気者になります。そして、カルメンもまたその才能を見出されることで、スターの座をえることになります。
ネクタイや帽子などを売る店で店員をしていた彼女は歌は大好きでしたが、それで食べてゆけるとは思っていなかったようです。しかし、20歳の時の国立音楽院で行われたアマチュア音楽祭に出場したところ、大学教授であり作曲家でもあったジョズエ・ジ・バホス教授の目にとまり、彼の弟子として音楽の勉強を始めることになり、同時にプロとして音楽活動をすることになりました。
ブラジルに進出したばかりのヴィクターから、彼女が発売した「ヤヤー・ヨヨー」、「ブルクントゥン」、「タイ」、「オ・メウ・アモール・テン」は次々にヒット。特に1930年発売の「タイ」は、その年のカーニヴァルで大ヒットし、一躍彼女をスターの座に押し上げました。翌年、彼女は当時の人気男性アーティスト、フランシスコ・アルヴィス、マリオ・レイスとともにアルゼンチン・ツアーを行い、海外進出の第一歩を踏み出しました。1933年には映画「カーニヴァルの声」に初出演し、女性歌手としてブラジルでは初めてラジオのレギュラー・プログラムを持つなど、ブラジルでは人気ナンバー1の女性歌手となりました。
こうして、人気が頂点に達した頃、彼女はヴィクターからオデオンへと移籍、いよいよブラジル時代で最も充実した時期を迎え、130曲にものぼる録音を残しています。そして、1938年に前述の「バイーア女が持っているものは何?
O Que E Que A Baiana Tem ?」が収められた同タイトルのアルバムを発表。翌年アメリカ人興行師の誘いにより、アメリカ進出を果たすと、そのままアメリカに永住することになりました。
<アメリカにて>
アメリカに渡ったカルメンは音楽活動と同時に映画界やブロードウェイでの活動にも進出。ブラジルのオデオン時代には130曲もの録音があるにも関わらず、アメリカのデッカに移籍してからの録音はわずか32曲だけになります。彼女は映画界、ショービジネス界の人気者となり、歌手としての活動は止まってしまいました。
実際、彼女は渡米後すぐに映画に出演。1940年の「ダウン・アルゼンティン・ウェイ」に出演。以後は準主役ともいえる作品「ザット・ナイト・イン・リオ」「ウィーク・エンド・イン・ハバナ」(1941年)など15本の映画に出演しました。その人気から引っ張りダコとなった彼女は、1951年にデイリー・ミラー紙が発表した芸能界エンターテイメント部門の収入トップ10でなんとナンバー1に輝きました。ただし、それだけ稼ぐために彼女が払った代償もまた大きかったようです。
映画、舞台、レコード録音、ラジオ、CM、モデルなど、数多くの仕事を分刻みでこなしていた彼女は、一度結婚はしたもののすぐに離婚。国を離れ孤独な生活を続ける中で寂しさを紛らすための薬物に頼るようになりしだいに身体を壊してゆきました。それに追い討ちをかけるように彼女を苦しめたのは彼女の仕事に対する厳しい評価だったかもしれません。彼女は15本の映画に出演したものの、どれもB級の娯楽映画だったため、女優として評価されることはほとんどありませんでした。彼女のトレード・マークでもあったブラジル=南国をイメージしたフルーツを飾り付けた帽子が示すように、エンターテナーとしての彼女の役どころはいつも決まりきったものでした。結局、そこから向け出すほどの役を得ることができなかった彼女は、トロピカルな楽園ブラジルの象徴から脱することができなかたのです。
それだけなら、お金を稼ぐためと割り切ることもできたでしょう。しかし、彼女にとってもっともきつかったのは、故国ブラジルでの彼女に対する評価が「ドルに身を売った売国奴」となっていたことでした。
<アメリカを夢見て>
パナマ出身で、かつては世界的スーパー・スターになることを夢見、アメリカのポップス界への進出を目指したサルサ界の大物ルベン・ブラデスは、イギリスのロック・アーティスト、エルヴィス・コステロと共作で「ミランダ症候群」という曲を発表しています。(皮肉なことに、この曲は彼がアメリカ・ポップス界への進出を賭けて作った英語アルバムに収められていました)
幸か不幸か、ブラデスはポップス界への進出に失敗。すぐに夢を捨ててサルサの世界に戻ると再び活躍を開始することができました。彼は帰る故郷があった幸福なアーティストでした。
結局、彼女は故郷のブラジルではなくアメリカでその生を終えています。そして、彼女の存在はアメリカ進出の夢を果たしながら幸福になれなかった悲しい例として、語り継がれることになりました。
<バンド・ダ・ルアとボサ・ノヴァ>
なお、このカルメンの渡米には、ヴォーカル&インストロメンタル・グループのバンド・ダ・ルアが同行し、彼女のデッカ・レコードでの録音などに参加しています。彼らは彼女が1955年にアメリカで亡くなるまで行動を共にしますが、その後ブラジルに帰国。その中心メンバーだったアロイージオ・ヂ・オリヴェイラは、プロデューサーとして、かつてカルメンが活躍していたオデオンに入社します。そして、この時彼の入社によって職場を奪われる立場になったのが、まだ無名の存在だったアントニオ・カルロス・ジョビンでした。
プロデューサーとして毎日働きづめだった彼は、急に仕事をとられましたが逆に自らの作曲活動に時間を使えるようになったことをアロイージオに感謝することになります。アロイージオもまた、その頃ジョビンが作った「リオ・デ・ジャレイロ交響曲」を聴いて驚かされ、その後彼が作ることになる初期のボサ・ノヴァ・ナンバーに対していち早く高い評価を与えることになります。
その後、ボサ・ノヴァは一大ブームを巻き起こし、主なメンバーがニューヨークのカーネギー・ホールで1962年に歴史的なライブ・イベントを行います。そして、その多くのメンバーがそのままアメリカに残り、カルメンと同じようにブラジルを離れてしまうことになります。こうして、多くの才能を失ったブラジル国内のボサ・ノヴァ界は一気にその勢いを失い、わずか数年で終わりを迎えることになってしまいました。
歴史はこうして繰り返され、そうしたアメリカによる文化の収奪に反発して始まったのが、カエターノ・ヴェローゾらによって始められたトロピカリズモ運動だったわけです。
<1938年の出来事>
ナチス・ドイツがオーストリアを占領(第二次世界大戦の実質的始まり)
ミュンヘン会談(ヒトラー、ムッソリーニ)
ナチス党員と突撃隊によりユダヤ人への襲撃始まる「水晶の夜」(独)
ドイツ・デュッセッルドルフにて「退廃音楽展」開催
中国共産党の機関紙「新華日報」発刊
国家総動員法発令(日)
日本が南京に傀儡政府「中華民国推進政府」を設立
オーソン・ウェルズのラジオ・ドラマ「宇宙戦争」(原作H・G・ウェルズでアメリカ中がパニックになる
オーストリアの登山家ハインリッヒ・ハラーがアルプスのアイガー北壁の登頂に成功
<音楽>
ウディ・ガスリーがニューヨークで活動を開始
サニー・ボーイ・ウィリアムソンがラジオ番組「キング・ビスケット・タイム」のDJを担当
ジョン・ケージとマース・カニングハムによるコラボレーション始まる
「素敵なあなた」アンドリュー・シスターズ(白人女性ジャズ・コーラス・グループ)
「カーネギー・ホール・ジャズ・コンサート」ベニー・グッドマン&ライオネル・ハンプトン
「ブギ・ウギ」トミー・ドーシー楽団
「マンボ」アルカーニョ
「サン・アントニオ・ローズ」ボブ・ウィルズ&テキサス・プレイボーイズ
「アレクサンダー・ラグタイム・バンド」(1911年にアーヴィング・ヴァ―リンが作曲した曲で映画「世紀の楽団」に使用されリバイバル・ヒット)
「ハイ・ホー Heigh Ho」、「ホウイッスル・ホワイル・ユー・ワーク」(1936年公開のディズニー映画「白雪姫」より)
「I've Got A Pocket Full of Dreams」ビング・クロスビー
「Love Walked In」(ミュージカル映画「Goldwyn Follies」より、作曲はジョージ・ガーシュイン)
「ロザリー」エレノア・パウエル(1937年公開の映画「ロザリー」より)
「Thanks For The Memory」(ボブ・ホープのテーマソング)
「ゼアーズ・ア・ゴールド・マイン・イン・ザ・スカイ There's A Goldmine in the Sky」(映画「Gold Mine In
The Sky」より)
「ティ・ピ・ティン Ti-Pi-Tin」ベニ―・グッドマン楽団
「支那の夜」渡辺はま子
「満州娘」服部富子(大陸歌謡ブーム)
<映画>
「我が家の楽園」(監)フランク・キャプラ(出)ジェームス・スチュアート(アカデミー作品賞、監督賞)
「少年の町」(監)ノーマン・タウログ(出)スペンサー・トレイシー(アカデミー主演男優賞)
「黒蘭の女」(監)ウィリアム・ワイラー(出)ヘンリー・フォンダ、ベティ・デイヴィス、フェイ・バインター(アカデミー主演女優、助演女優賞)
「踊るアメリカ艦隊」〈監)ロイ・デル・ルース(音)コール・ポーター、アルフレッド・ニューマン〈出)エリノア・パウエル、ジェームズ・スチュアート
「舞踏会の手帖」(監)(脚)ジュリアン・デュヴィヴィエ(出)マリー・ベル、フランソワーズ・ロゼー
「ジェニイの家」(監)マルセル・カルネ(原)ピエール・ロシェ(出)ジョセフ・コスマ、リオネル・カゾー
「スタア誕生」(監)(原)ウィリアム・A・ウェルマン(出)ジャネット・ゲイナー、フレデリック・マーチ
「民族の祭典」レニ・リーフェンシュタール(ベルリン・オリンピックの記録映画でありドキュメンタリー映画の歴史的古典:ヴェネチア映画祭最高賞)
「ロビンフッドの冒険」〈監)マイケル・カーティス、ウィリアム・キーリー(出)エロール・フリン、オリヴィア・デ・ハビランド、クロード・レインズ
「愛染かつら」(監)野村浩将(撮)高橋通夫(万城目正の音楽とともに大ヒット)
「五人の斥候兵」(監)田坂具隆(原)高重屋四郎(出)小杉勇、見明凡太郎(ヴェネチア映画祭入賞)
「路傍の石」(監)田坂具隆(原)山本有三(出)小杉勇、片山明彦
「母と子」(監)渋谷実(出)田中絹代、吉川満子
「ああ故郷」(監)溝口健二(原)小出秀男(出)河津清三郎、山路ふみ子
山中貞雄が中国で戦病死、遺作は「人情紙風船」
岡田嘉子と杉本良吉がソ連に亡命(杉本はスパイ容疑で銃殺される)
<文学、思想>
「嘔吐」ジャン・ポール・サルトル
「経験と教育」ジョン・デューイ(米)
「歴史の研究」トインビー(英)
パール・バックがノーベル文学賞を受賞
「麦と兵隊」 火野葦平
「生きている兵隊」石川達三
岩波新書創刊(本の大衆化が始まる
<美術>
「Eva Stee」クルト・シュヴィッタース
<時代を変えたモノ、発明>
フォルクス・ワーゲン(ビートル)発売(独)ヒトラーの指示による小型車開発
プラスチック製コンタクト・レンズ
ラズロ・ビロがボール・ペンの特許を取得(ハンガリー)
デュポン社がテフロンを開発
<1938年の物故者>
エドムント・フッサール(数学者、哲学者)
エルンスト・ルードヴィッヒ・キルヒナー(画家)
カレル・チャペック(作家)
キング・オリヴァー(ジャズ・ミュージシャン)
ケマル・アタチュルク(トルコの初代大統領)
ロバート・ジョンソン(ブルース・ミュージシャン)
加納治五郎(柔道家)

予選参加国 : 36(戦争のため、最終的に26しか参加できず)
本大会出場国 : 16
<準決勝>
イタリア 2−1 ブラジル
ハンガリー 5−1 スウェーデン
<決勝>
イタリア 4−2 ハンガリー
<活躍した選手>
レオニーダス・ダ・シルバ(ブラジル)は「黒いダイヤモンド」と呼ばれ、得点王に輝いた。ブラジルは黒人選手の起用によりサッカー強国の仲間入り
イタリア・チームの中心選手シルヴィオ・ピオラが大活躍
<大会の特徴>
ヨーロッパと南米交互開催ならアルゼンチン開催となるはずだったが、FIFA会長兼フランス・サッカー連盟会長のジュール・リメの力によりフランス開催となる
そのため南米各国が反発し、ブラジルとキューバ以外は参加せずに終わった
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