1939年

- ポール・ロブソン Paul Robson -

<アメリカ人へのバラード>
 1939年11月5日、ポール・ロブソンという黒人歌手がニューヨークのラジオ局CBSのスタジオで「アメリカ人へのバラード」という曲を歌い、全米にその歌声が流されました。11分にも及ぶその歌の中にはこんな歌詞がありました。

「 白人も決して自由にはなれない
 兄弟の黒人が奴隷でいる限りは・・・
 ごまかしや、罵声の中から
 無駄口や、憂国的な熱弁の中から
 不安や、疑いの中から
 旅行カバンや、たんつぼの中から
 きっとまた生まれてくるだろう、われらの行進曲が
 はやり唄のように素朴で、谷間のように深く
 山々のように高い調べ、それを作った民衆のように強靭な曲が・・・」


 アメリカの建国から「人民の人民による人民のための政治」をめざす民主主義の確立と人種や宗教の違いを越えた社会の確立を目指してきたアメリカの歴史を叙事詩的に歌い上げたその曲を聴き終えたスタジオ内の観客は熱狂的な拍手をおくり、ラジオ局への賛同の電話も鳴り止まなかったそうです。
 元々この曲は、1938年にニューディール政策によって生まれた労働促進局(WPA)のプロジェクト「Sing for Your Supper」という番組用に作られた「Ballad of Uncle Sam」という曲をCBSが別の番組用に改訂したものでした。作曲者のアール・ロビンソンは1970年代に大ヒットしたスリー・ドッグ・ナイトの「ブラック&ホワイト」の作者でもあります。
 アメリカ建国の理想を讃えたこの歌は、その後しばらくの間、アメリカの新しい国歌のような扱いを受けることになります。その歌い手に選ばれたポール・ロブソンとはいかなる人物だったのでしょうか?

<差別との闘いの始まり>
 ポール・ロブソンは1898年4月9日ニュージャージー州のプリンストンに生まれました。父親は奴隷として生まれながら15歳の時に逃亡し、その後自らの力で大学を卒業して、牧師になったという筋金入りの努力家でした。そんな父親を見て育った彼もまた大変な努力家で、白人と黒人が共学の小中高を優秀な成績で卒業。その後彼は黒人が一人のいなかったにも関わらず、奨学金が出るラトガーズ大学を受験。見事に合格し奨学金も獲得しました。
 そのうえ、彼は大学ですべての分野で優秀な成績をおさめ、アメリカン・フットボールの選手としては、大学史上初のオール・アメリカンに選ばれ、卒業式では総代でスピーチを述べるほどの優秀な存在でした。ただし、そこまで行くまでの間、彼は学内で激しい差別を受け、特にアメリカン・フットボール部では入部当初、入院させられるほどの怪我をさせられるなど、厳しい差別に耐えなければなりませんでした。そのうえ、卒業後に彼が選んだ道、弁護士としての仕事はさらに厳しい試練を彼に与えました。せっかく弁護士になったものの、白人は彼をパートナーとして選んではくれず、黒人で弁護士を雇うほど経済的に恵まれた人物も当時はまだほとんどいなかったのです。そうなると弁護士といいう資格はなんの役にもたたず、彼は食べてゆくのにも困り始めました。そんな時、彼のその後の運命を大きく変えるチャンスが巡ってきました。

<歌手としての活動開始>
 ニューヨークのハーレムで活動していたプロビンスタウン劇団が、「皇帝ジョーンズ」という芝居の主役をやらないかと誘ってくれたのです。それは、大学時代にアルバイトも兼ねて何度か役者としてハーレムの劇場に出演したことがあった彼の演技を見た劇団スタッフが、彼の才能を認めてくれたおかげでした。こうして、彼は本格的に俳優としてデビューを果たし、さらに劇中で歌ったニグロ・スピリチュアルが高く評価され、歌手としてデビューするチャンスをも掴むことになったのです。
 こうして、ニグロ・スピリチュアルの研究家ローレンス・ブラウンのピアノとロブソンとのジョイント・ライブが実現。このライブは、ニグロ・スピリチュアルの歴史上初めて、コンサート会場で黒人歌手によって歌われた記念すべきものとなりました。

<イギリスとの出会い>
 1928年4月、彼はロンドンで公演されるミュージカル「ショー・ボート」に出演することになりイギリスへと渡りました。ジェローム・カーンとオスカー・ハマースタインJr.によるこの作品は、後に3度も映画化されるミュージカル史に残る傑作です。そのうち、2本目の映画化となった作品にはロブソンも出演、この時彼が歌った「オールマン・リバー」は、スタンダード・ナンバーとして永遠に残ることになりました。その歌の歌詞はこんな感じです。

 黒ん坊は働く ミシシッピー川で
 黒ん坊は働く 白人が遊んでいる間も
 朝から晩まで舟をひいて
 あの世に行くまで 休むひまもなく
 
 はしけを引っぱれ 積み荷をおろせ
 ちょっとでも飲んだくれりゃ 監獄送り
 もうへとへとだ うんざりだ
 生きるも嫌だし 死ぬのもこわい
 だけどオールマン・リバーは 黙ってただ流れるだけ
 
 その後、彼はアメリカに比べて人種差別の少ないイギリスに活動の拠点を移し、ヨーロッパを中心に活動してゆくことになりました。どんなに高い評価を得ても、アメリカではホテルも列車も、常に黒人は差別され、有名になればなるほど、そのギャップは彼を傷つけるようになっていたからです。彼にとって、アメリカに帰るメリットは何もありませんでした。彼はそのままロンドンに永住する道を選ぶこともできたのです。しかし、そんな彼の考えを変える出来事が起きます。

<ナチス・ドイツの衝撃>
 1934年、モスクワで公演を行うために彼はロンドンから出発し、ベルリンで列車を乗り換えることになっていました。ところが、その時ホームで列車を待つ彼らを見つけたナチス・ドイツの兵隊たちが突然彼を取り囲んだのです。その時、彼の顔を睨みつける兵士たちの目は、かつてアメリカ南部ミシシッピー州を訪れた時に彼が遭遇した暴徒たちのものとまったく同じだったのです。彼はそれまで知らなかったファシズムの恐怖を身をもって体験することで、反ファシズムの運動を大きな関心をもつようになりました。その影響もあり、1936年にスペイン内乱が始まると、フランコ率いるファシスト政権に反対する人々が海外から数多く集まった中に彼の姿もありました。
 ヒトラーとムッソリーニの援助を受けたフランコの軍隊に対し、厳しい戦いを強いられていた共和国軍への義援金を集めるためのライブにロブソンは喜んで参加。さらには、自らスペインに出向き、そこで義勇兵やけが人たちのためのコンサートを行いました。

<映画「誇り高き谷間」>
 1939年、彼はイギリスのウェールズ地方で撮影された「誇り高き谷間」という映画に出演しました。炭鉱で働く労働者たちの厳しい現実を描いたドキュメンタリー・タッチの作品のため、彼は舞台となった鉱山で働く人々と撮影を通してしだいに友情で結ばれるようになりました。厳しい現実と闘っているのは、黒人たちだけではなく白人労働者も同様であると感じた彼は、そうした労働者たちともいっしょに闘えると考えるようになります。そして、自分もまた祖国の人々、差別されている黒人たちとともに闘わなければならないと決意を固めました。こうして、凱旋帰国を果たした彼だからこそ、「アメリカ人のバラード」という歴史的な曲を歌う役が与えられたのでしょう。

<歴史から消された男>
 ポール・ロブソンの名は、黒人音楽がかなり好きな人々の間ですらほとんど知られていません。恥ずかしながら、僕もついこの間まで彼の名前しか知りませんでした。どうやら彼の名が歴史から消えてしまっているのには、いくつかの理由がありそうです。
 理由のひとつとしてあげられるのは、彼がジャズ・ミュージシャンでもブルースマンでもR&B歌手でもなかったことでしょう。オペラ歌手、舞台俳優、ミュージカル俳優、映画俳優として活躍した彼は「オールマン・リバー」の歌い手として特に有名です。しかし、「オールマン・リバー」という曲は、ミュージカル「ショー・ボート」の挿入歌であり、白人作曲家によるポップスのスタンダード・ナンバーと見られていました。さらに彼は数多くのコンサートを行いましたが、レコーディング・アーティストではなくヒット曲を放つつもりもありませんでした。そして、何より彼の歌は黒人大衆向けの歌ではありませんでした。それは白人大衆を教化することを意識した歌であり、そのぶんソウルフルさに欠けていました。当然、彼の歌は黒人大衆からは支持されず、一部のインテリ層の支持だったようです。そしてさらに彼は共産主義者としてのレッテルを貼られていました。彼の活躍した時代が「赤狩り」の時代と重なっていたことは彼のキャリアにとって致命的でした。当時の「赤狩り」が馬鹿げたものだっただけに、それに対するソ連が目指す社会が魅力的に見える部分も確かにあったのです。だからこそ、彼はソ連に駆け込むことまでしたのです。しかし、そんな彼の行為を「赤狩り」真っ只中のアメリカは許しませんでした。
 彼はパスポートを没収され国外に出国することができなくなりました。さらには、政府の圧力により、すべてのレコードは廃盤にされてしまいました。それは民主主義国家とは思えない仕打ちでした。さらに彼にはそれ以上の危険が迫ります。

<ピークスキル事件>
 1949年8月27日、ニューヨーク近郊の田舎町、ピークスキルの野外ステージで公民権運動の資金を集めるため、コンサートが行われることになりました。そのメイン・アーティストとしてポール・ロブソンに声がかかり、彼は会場となる野外劇場へと向かいました。しかし、その時彼の立場はそれまで以上に悪いものになっていました。
 そのコンサートに先立つ同年4月に、パリで開催された世界平和擁護者大会に出席した彼はこう演説しました。
「アメリカが世界に向かって民主主義の指導者のように振舞っていながら、国内では人種差別をそのままにしているのは矛盾もはなはだしい」
 この言葉を発表した後、彼に対するアメリカ国内での人気は急激に下がり始めます。それどころか、彼はリンチのターゲットになってしまったのです。そのためピーチスキルの街では在郷軍人や地元の反共団体、そしてK.K.K.のメンバーらが集結し、彼にリンチを加えようと待ち構えていました。街にあふれた暴徒たちに阻まれて、彼は結局コンサート会場にたどり着くことができず、会場も暴徒たちによってメチャメチャに破壊されてしまいました。
 この事件以後、彼の責任ではないにも関わらず、事件が起きることを回避するためと称して、彼のコンサート出演はことごとく妨害されるようになりました。そしてしだいに彼の名は社会的に抹殺されるようになってゆきました。
 1950年に無効とされ没収された彼のパスポートは、1958年公民権運動の盛り上がりの中、やっと裁判での勝訴によって戻ってきました。その後、社会的な名誉を取り戻した彼は静かな余生を送り、1976年1月23日77歳でこの世を去りました。
 かつて、ポール・ロブソンという名の黒人シンガーがいたことを僕も覚えておきたいと思います。

<1939年の出来事>
ドイツ軍がチェコ、ポーランドに侵攻。ドイツに英仏が宣戦布告し、第二次世界大戦が始まる
アインシュタインがルーズベルト大統領宛に原子爆弾開発を促す書簡を送る
独ソ不可侵条約締結
スペインでフランコのファシスト政権が樹立される
チリでマグニチュード8.3の大地震が起き、死者が3万名に達する
トルコでマグニチュード8・0のエルジンジャン大地震が起き、死者は3万3千名に達する
ソ連軍がフィンランドに侵攻
ノモンハン事件(日露軍事衝突)
甘粕正産が満州映画協会理事長に就任
東京都が隣組回覧板を配布開始
大相撲、双葉山の連勝が69で止まる

<音楽>
「奇妙な果実」 ビリー・ホリデイ
カルメン・ミランダがアメリカに渡る
チャーリー・クリスチャンがベニー・グッドマン楽団に入る
ストラヴィンスキーがアメリカに移住
黒人オペラ歌手マリアン・アンダーソンがワシントンで野外コンサートを開催
「イフ・アイ・ディドゥント・ケア If I Didn't Care」インク・スポッツ
「天使は歌う And the Angels Sing」マーサ・ティルトン
「ビア樽ポルカ」ウィル・グラーエ(チェコの作曲家ヤロミール・ヴェイヴォダのカバー)
「Deep In A Dream」チャック・ウェッブ楽団
「Deep Purple」ラリー・クリントン
「ムーンライト・セレナーデ」、「茶色の小瓶」、「The Man With the Mandlin」グレン・ミラー楽団
「My Prayer」ジョルジュ・ブーランジェ&ジミー・ケネディー(インク・スポッツ、グレン・ミラーらがカバー)
「ペニー・セレナーデ」ガイ・ロンバルド&ロイヤル・カナディアンズ
「虹の彼方に Over The Rainbow」ジュディ・ガーランド(映画「オズの魔法使い」より)
「Three Little Fishies」ケイ・カイザー楽団
「ゴッド・ブレス・アメリカ God Bless America」ケイト・スミス

<映画>
「オズの魔法使い」(監)ヴィクター・フレミング(出)ジュディ・ガーランド
「風と共に去りぬ」(監)ヴィクター・フレミング(出)ヴィヴィアン・リー(アカデミー作品賞、監督賞、主演女優賞
さらに黒人初のアカデミー賞(助演女優賞)をハティ・マクダニエルが受賞
「グッドバイ・ミスター・チップス」(出)ロバート・ドーナット(アカデミー主演男優賞
「ゲームの規則」〈監)〈脚)ジャン・ルノワール(出)マルセル・ダリオ、ジャン・ルノワール
「コンドル」〈監)〈原)ハワード・ホークス(脚)ジュールス・ファースマン(出)ケイリー・グラント、ジーン・アーサー
「駅馬車」(監)ジョン・フォード(出)ジョン・ウェイン(トーマス・ミッチェルがアカデミー助演男優賞
「大平原」〈監)(製)セシル・B・デミル〈出)バーバラ・スタンウィック、ジョエル・マクリー
「旅路の果て」〈監)〈脚)ジュリアン・デュヴィヴィエ〈脚)シャルル・スパーク〈出)ヴィクトル・フランサン、ルイ・ジューヴォ
「スタンレー探検記」〈監)ヘンリー・キング〈原)ハル・ロング、サム・ヘルマン〈出)スペンサー・トレーシー
「スミス都へ行く」〈監)〈製)フランク・キャプラ(出)ジェームズ・スチュアート、ジーン・アーサー、クロード・レインズ
「ニノチカ」〈監)〈製)エルンスト・ルビッチ(脚)ビリー・ワイルダー〈出)グレタ・ガルボ、メルヴィン・ダグラス
「望郷 ペペル・モコ」(監)ジュリアン・デュヴィヴィエ(出)ジャン・ギャバン
「わが家の楽園」(監)フランク・キャプラ(出)ジーン・アーサー、ライオネル・バリモア
「格子なき牢獄」(監)レオニード・モギー(出)コリンヌ・リュシェーヌ、アニー・デュコー
「陽は昇る」〈監)マルセル・カルネ〈脚)ジャク・ヴィオ〈出)ジャン・ギャバン、ジャクリーヌ・ローラン
「彼奴は顔役だ!」〈監)ラオール・ウォルシュ(原)マーク・ヘリンジャー〈出)ジェームズ・キャグニー、ハンフリー・ボガート
「ゴールデン・ボーイ」〈監)ルーベン・マムーリアン(出)バーバラ・スタンウィック、アドルフ・マンジュー、ウイリアム・ホールデン

「土」(監)内田吐夢(原)長塚節(出)小杉勇、風見章子
「残菊物語」(監)溝口健二(脚)依田義賢(出)花柳章太郎、高田浩吉
「土と兵隊」(監)田坂具隆(原)火野葦平(出)小杉勇、井染四郎
「兄とその妹」(監)(原)(脚)島津保次郎(出)佐分利信、三宅邦子

<文学>
「怒りの葡萄 The Grapes of Wrath」ジョン・スタインベック John Steinbeck

<美術>
「二人のフリーダ」 フリーダ・カーロ(メキシコ)

<時代を変えた発明、モノ>
ドイツのハインケル社が世界初のジェット機(He178)開発に成功
アメリカでテレビ放送が始まる

<1939年という年>
「第二次世界大戦というものは、実は『その勃発以前に黙認された長い侵略の期間を持った末の戦争』である」
「不思議だが、人間というものは、豊かさの中で破滅への準備をするものらしい。豊かさの中で、人はそれを失うまいとして足をすべらせて破綻へと至る。・・・第二次世界大戦前は『豊かな時代』だった。だからこそ戦争は起こったのだ」

橋本治著「二十世紀」より

<1939年の物故者>
泉鏡花(作家)
ウイリアム・バトラー・イエイツ(アイルランドの詩人、劇作家)
S.S.ヴァン=ダイン(推理作家、美術評論家)
ジークムント・フロイト(精神分析学の創始者)
マ・レイニー(ブルース歌手)

20世紀年代記(前半)へ   トップページへ