「独裁者 The Great Dictator」
1940年

- チャーリー・チャップリン Charles "Charlie" Spencer Chaplin -

<追記>(2013年10月)
 四方田犬彦の「映画史への招待」に驚きの記述がありました。
「青年のころのアドルフ・ヒトラーはどうしたら大衆に強烈にアピールすることができるかを考えぬいた結果、当時流行していたチャーリー・チャップリンのフィルムを真似てチョビ髭を生やし、あの独特の演説スタイルを編み出したと伝えられている。・・・のちにヒトラーが国家社会主義者としてドイツに第三帝国を実現させたとき、それに憤慨したチャップリンは巧妙な復讐をした。・・・」
 もちろん、それは自分のそっくりさんとしてヒトラーを登場させたこの映画を撮ることでした。本当なの!

<ファシズムの時代>
 1940年、この年ドイツはイタリア、日本と日独伊三国軍事同盟を結成。ファシズム国家の勢いはさらに増し、ドイツ軍はパリを陥落させてフランスを征服。デンマーク、ノルウェー、ベルギー、オランダなど、ヨーロッパのほとんどを制圧すると同時にイギリスへの攻撃を開始するべく爆撃機がロンドンへと飛び立ちました。
 ドイツがオーストリアを併合した時、フランスとイギリスはドイツが共産主義国ソ連のヨーロッパへの侵攻を軍事的、政治的に食い止める盾となることを期待し、あえて目をつぶったと言われています。ところが、当のドイツはそれをきっかけに逆にフランス、イギリスへと攻め入ったのでした。(残念ながら、フランス、イギリスにとっては自業自得ともいえる結果でした)
 今や、ドイツの侵攻を止められるのは、ソ連しかないだろうという状況になっていました。当然、ドイツ国内でのユダヤ人に対する迫害は勢いを増し、アインシュタインをはじめ多くのユダヤ人がヨーロッパを後にし、その多くがアメリカに亡命しました。
 チャップリンの代表作「独裁者」は、こうして状況のもとで製作、公開されました。しかし、「自由の国アメリカ」で、この映画はけっして絶賛されたわけではありませんでした。それどころか批判の対象にすらなったというのです。でも、いったいなぜ?
 この詳細については、「第二次世界大戦と戦意高揚映画」のページをご覧下さい!

<「独裁者」誕生のきっかけ>
 チャップリンは、前作「モダンタイムス」(1936年)では機械化が進み、人間性を失いつつある資本主義社会の未来を風刺し、それまでのドタバタ喜劇から社会派の映画作家へと転進をとげつつありました。当然、ヨーロッパで広がりつつあるファシズムの脅威に対しても早くから関心を持っていたようです。
 ある説によると1935年にヒトラーがユダヤ人を迫害するための法律である「ニュールンベルグ法」を制定した頃、すでに彼はヒトラーについての映画を作る準備を始めていたともいわれています。確かなのは、彼が「独裁者」の脚本に着手した1938年は、ナチス・ドイツがミュンヘン会議により、オーストラリア、チェコ併合を認められた年であり、ユダヤ人の国外追放を開始した年でもあったということです。
 アメリカにおいては、映画界だけでなく経済界、音楽界、芸術、科学全般の分野でユダヤ人は圧倒的な力をもっていました。それだけにヒトラーに対する批判が起きるのは当然のことと思えます。しかし、実際にヒトラーに対する批判を口にし、なおかつ、現実に抗議活動を行ったのは、驚くべきことにチャップリンただ一人だけだったのです。それどころか、アメリカ国内にもヒトラー支持者は数多く、ソ連の共産主義よりはドイツのファシズムの方を支持するというのがアメリカ全体の空気だったのです。この状況は、アメリカとドイツが戦闘状態に入るまで変わらなかったようです。(ユダヤ人の大虐殺については、戦後になって明らかになったことで、ユダヤ人ですらその悲惨な状況を知ることはできませんでした)

 1937年、イギリス映画界のプロデューサー、アレグザンダー・コルダが「放浪者チャーリーがヒトラーと同じようなヒゲをはやし、人違いされる喜劇を二役で作ったらどうだろうか」と提案。それに対しチャップリンは、「ヒトラーに扮するときには、デタラメ言葉を繰り返して群衆を前に演説をぶちあげ、好きなだけしゃべりまくればいい。そして、浮浪者に扮するときには、ほとんど何もしゃべらなければいいいのだ、と」
 ヒトラーの喜劇は、風刺劇とパントマイムを両立させる絶好の機会でした。
 映画の公開後、ナチスはこの映画を当然ながら批判します。しかし、映画の影響は大きく、多い時には一日に三回も演説を行っていたヒトラーは映画の公開後、翌年は一年間に7回しか演説をしていません。(さらにその翌年は5回のみ)
 それは自らの演説がパロディ化されたことで、やりずらくなったと考えられます。

<チャップリンの政治姿勢に対する批判>
 
すでにチャップリンの政治的な姿勢が左翼的であることは知られていたため、彼の作品に対する姿勢は常に捻じ曲げられる傾向にありました。そのため、「独裁者」は「コミュニストによるファシスト批判の映画であり、どっちもどっちであるととらえられてしまったのです。この映画の公開があと数年遅れているか、もしくは戦後に作られていれば、アメリカ社会の反応は、まったく違ったものになっていたでしょう。しかし、この映画の価値は誰よりも早くファシズムの本質を見抜き、それを笑い飛ばすことで闘いを挑んだことにこそあるのです。
 ヒトラーという人物が精神を病んだちょび髭の子男にすぎないのだということを、まるで「裸の王様」を見破った少年のように声に出して叫んだことにこそあるのです。だからこそ、この映画は1940年という年に作られければならなかったのです。
 芸術家とは「かつて労働者たちが炭鉱内に持ち込んだカナリア」の役目を果たさなければならない。そういったのはアメリカが生んだ偉大なSF作家カート・ヴォネガットです。それは炭鉱内に有毒ガスが充満してきた際、人間よりも繊細なカナリアはいち早く自分の死によってそのことを知らせてくれるということです。
 しかし、残念なことに、この時ヨーロッパの国々はすでに映画を見ていられる状況ではありませんでした。アメリカでの公開とは異なりヨーロッパでの公開は遅すぎたのかもしれません。。結局、この映画をヨーロッパの人々、それにアメリカや日本などの人々がちゃんと見ることができるようになったのは、これから30年後、1970年代に入ってからのことになります。
 では、「独裁者」が未だ映画史に残る傑作としてベスト10に選出されているのはなぜでしょうか?
 それは「独裁者」がリヴァイバル上映される時、必ず世界のどこかにヒトラーに匹敵する「独裁者」がいるからに他ならないでしょう。そして、その「独裁者」たちがみな「笑えるほど愚かしい人物」であることに変わりはないからなのです。ただし、それ以上に重要なのは、「独裁者」がコメディー映画として、笑えるギャグに満ちていることです。特にあの有名な床屋のハンガリー舞曲のシーンは、いつ見ても笑えます。そして、笑えば笑うほど、「独裁者」を見て笑うことができる社会が幸福であるということを認識させてくれます。現実は「独裁者」よりは、よりブラックな笑いの映画「未来世紀ブラジル」のようだったり、あまりに逃げ場がない「マトリックス」のようだったりするかもしれないのです。

<「独裁者」ラストの演説>
私は皇帝になりたくない 支配はしたくない できれば援助したい
ユダヤ人も黒人も白人も 人類はお互いに助け合うできである
他人の幸福を念願として・・・お互いに憎み合ったりしてはならない
世界には全人類を養う富がある
人生には自由で楽しいはずであるのに 貪欲が人類を毒し・・・憎悪をもたらし悲劇と流血を招いた
スピードも意思を通さず 機械は貧富の差を作り 知識をえて人類は懐疑的になった
思想だけがあって感情がなく 人間性が失われた
知識より思いやりが必要である 思いやりがないと暴力だけが残る
航空機とラジオは我々を接近させ 人類の良心に呼びかけて 世界を一つにする力がある
私の声は全世界に伝わり 失意の人々にも届いている
人々は罪なくして苦しんでいる
人々よ失望してはならない 貪欲はやがて姿を消し 恐怖もやがて消え去り 独裁者は消え去る
大衆は再び権力を取り戻し 自由は決して失われぬ!
兵士諸君 犠牲になるな! 独裁者の奴隷になるな!
彼らは諸君をあざむき 犠牲を強いて家畜のように追い回す
彼らは人間ではない!心も頭も機械に等しい
諸君は機械ではない!人間だ!心に愛を抱いている
愛を知らぬものだけが憎み合うのだ
独裁者を拝して自由のたえに戦え!
”神の王国は人間の中にある”すべての人間の中に!諸君の中に
諸君は幸福を生む力を持っている
人生は美しく自由であり 素晴らしいものだ!
諸君の力を民主主義のために結集しよう!よき世界の為に戦おう!
青年に希望を与え 老人に保障を与えよう
独裁者も同じ約束をした だが彼らは約束を守らない 彼らの野心を満たし 大衆を奴隷にした!
戦おう!約束を果たすために世界に自由をもたらし・・・国境を除き・・・貪欲と憎悪を追放しよう
良識の為に戦おう 文化の迫害が全人類を幸福に導くように 兵士諸君 民主主義の為に!

ハンナ 聞こえるかい 元気をお出し ご覧暗い雲が消え去った
太陽が輝いている 明るい光がさし始めた 新しい世界が開けてきた
人類は貪欲と憎悪と暴力を克服したのだ
人間の魂は翼を与えられて やっと飛び始めた 希望に輝く未来に向かって
輝かしい未来が君にも私にもやって来る 我々すべてに!
ハンナ 元気をお出し ハンナ 聞いたかい 聞きなさい!

 チャップリンの死後、「独裁者」のメイキング映像が見つかり、その中に当初ラストシーンに使用されるはずだった兵士たちが武器を捨てて踊り出すシーンが存在したことが明らかになりました。なぜ、その映像が使用されなかったのか、それはヨーロッパでの戦況が明らかになり、あり得ないラストシーンで無理やりハッピーエンドにしている場合でないことをチャップリンが強く意識したからでした。もう事態は予断を許さないところまで来ていることを、伝えるしかないと彼は判断したのです。

<トーキーの導入>
 チャップリンは「モダンタイムス」のラスト・シーン近くのダンスと歌のシーンで、初めてトーキーを使用しました。しかし、その使い方はチャップリン自作のオリジナルの言語による歌を披露しただけで、トーキー方式を本格的に採用したとはいえないものでした。その意味では「独裁者」こそが、彼の初トーキー作品だったことになります。1914年に映画デビューして以来、26年間沈黙を続け、ため込まれていた熱い思いがこの時一気に放たれたともいえます。たぶんヒトラーが現れなくてもチャップリンは、いつかトーキー映画を撮っていたことでしょう。しかし、チャップリンにとっては、1940年という年が最も重要な勝負の年であったからこそ「独裁者」という歴史的傑作たと考えるべきでしょう。
 社会の状況がどうであろうと、まわりの人々がどう思おうと、やり抜いてこそ歴史を突き抜ける傑作が生まれる。20世紀前半の戦乱の中で生まれた傑作の多くはまさにこうした作品なのです。混乱の時代は熱い芸術家魂を育てる素晴らしい時代でもありました。

 そもそも笑いというのはさまざまな意味が込められた身体反応だが、単なるくすぐりの笑いから始まって、共感現象、批判精神、理性のカタルシスと、それが意味するところは広い。そしてスラップ・スティック・コメデイがくすぐりの笑いとすれば、ブラック・コメディは批判精神をジョークで具現化したものなのである。その際、皮肉や反語でものを語る、いわゆる異化効果的な演出が用いられる。その意味では、この時代にはブラック・コメディはほとんど作られなかったと言えるのだ。あの「独裁者」ですら、あまりにメッセージが直接的でブラック・コメディとは言い難い。チャップリンはスラップ・スティックで笑わせ、テーマは生真面目に演説で語ってしまったからだ。
・・・チャップリンはどうも、ブラック・コメディに必要な異化効果というものを理解していなかったようだ。

福井次郎(著)「『カサブランカ』はなぜ名画なのか」より

「独裁者 The Great Dictator」 1940年公開
(監)(製)(脚)チャールズ・チャップリン
(撮)カール・ストラス、ロリー・トザロー
(音)メレディス・ウィルソン
(出)チャールズ・チャップリン、ジャック・オーキー、ポーレット・ゴダード、チェスター・コンクリン

<チャップリンの生涯>
 チャールズ・チャップリン Charles Chaplinは、1889年4月16日に英国の首都ロンドンで生まれました。父親のチャールズ、その妻のハナともにボードビルの芸人でしたが、父親はアルコール依存症で母親は精神的に弱く、彼と兄のフランクは両親を子どもの頃から支えることになりました。この当時の貧しい暮らしは、その後の彼の成功に向けた強い意志の源だったといえます。生活を支えるために8歳の頃からミュージックホールの舞台に立っていた彼は、コメディアンとしての才能を磨きながら次第に人気者になって行きました。
 1907年、ヴォ―ドビル劇団、フレッド・カルノー一座のメンバーとして、彼はアメリカへと渡ります。アメリカ各地での公演旅行中、コメディ映画の巨匠マック・セネットに気に入られた彼は、そのままアメリカに残る道を選択します。1913年にキーストン社と契約し、マック・セネットの作品出演し始めます。彼のトレード・マークともなった山高帽にちょび髭、ドタ靴にステッキというスタイルを武器に全米でもトップクラスの人気俳優になります。
 1915年、エッサネイ社に移籍すると自ら監督を務めるようになり、人気女優エドナ・パーヴィアンスとのコンビで次々にヒット作を生み出してゆきます。マック・セネットの下では年収7800ドルの俳優だった彼は、年収6万7000ドルの監督兼俳優へのステップ・アップを果たしています。
 1916年、彼はミューチャル社に移ると、それまでのスラプスティック・コメディーから、人生の苦しみや悲しみ、失恋や警官への抵抗などの要素をも含んだ幅の広い内容へと作品が変化します。
<著作権へのこだわり>
 1917年、チャップリンは偽チャップリン(モノマネ・チャップリン)たちを相手に訴訟を起こしました。
「チャップリンの模倣を将来にわたって禁止すること」
「チャップリンの出演作に見せかけた作品の上映禁止」
「総額25万ドルの損害賠償」
 彼はその裁判に全面勝訴。彼の裁判は、アーティストが生み出したオリジナル・キャラクターを著作権によって守る先駆となりました。

 1918年、ファースト・ナショナル社に移籍。彼は100万ドルで12本を映画の製作を契約します。しかし、完璧主義者の彼は、映画が長編になると製作期間がどんどん長くなり、結局9本しか撮れませんでした。完璧を目指す彼は、自らの撮影スタジオを設立します。
 チャップリンは、何度も撮り直すことで納得のいく作品を世に出す芸術的自由と、資金的に他に依存しない経済的自立、そして作品やキャラクターにまつわる法的権利を獲得しました。集団で創り上げる映画において、この三つを自らのものとしたのは、チャップリンが初めてでした。そのおかげで、彼の作品はほぼ完璧に保存され、今でも高画質で見ることができるのです。(バスター・キートンのように権利を求めなかった作家の作品の多くは、その後失われています)

 1919年、メジャーの映画会社による独占に反発した彼は、当時の仲間だったダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォード、D・W・グリフィスと共にユナイテッド・アーティスツ社を設立しメジャーに対抗する勢力となります。
「キッド The Kid」 1921年
(監)(脚)(出)チャールズ・チャップリン
(撮)ローランド・トセロー
(出)ジャッキー・クーガン、エドナ・パーヴィアンス
 しがない浮浪者が捨て子を拾い、その子と共に稼ぎながら父と子の関係を築いてゆきます。しかし、5年後にその子の母親が彼を探しにやって来ます。ドタバタ喜劇と感動の家族ドラマの融合でチャップリンの代表作となりました。25万ドルの製作費をかけたものの、その10倍は稼ぐ大ヒットとなりました。この映画は世界中でほぼ同時期に公開された最初の映画でもありました。

<サイレント映画へのこだわり>
 なぜ私は無声映画を作り続けたのか?第一に、サイレント映画は普遍的な表現手段だからだ。トーキー映画にはおのずと限界がある。というのも、特定の人種の特定の言葉に規定されてしまうからだ。
チャップリン

 彼はトーキーを取り入れなかったものの、音楽へのこだわりは誰よりも強かったと言えます。
 当時の観客は映像と生演奏のコレボレーションを楽しんでいたため、映画館で奏でられる音楽が映像の楽しさを活かしたり逆に殺したりした。チャップリンは早くから映画で奏でられる音の重要性に気づき、1921年の「キッド」の時点で、「このシーンにはこの音楽を演奏すてください」というキューシートを各映画館に配布したほどだった。
 「街の灯」もサイレント映画のように作ったが、トーキーの技術を利用し、全編に自ら作曲した音楽と効果音をつけて。「サイレント」ではなく「サウンド版」として公開しています。
「ディズニーとチャップリン」大野裕之より

「黄金狂時代 The Gold Rush」 1925年
(監)(脚)(出)チャールズ・チャップリン
(撮)ローランド・トセロー、ジャック・ウィルソン
(出)マック・スウェイン
 西海岸で起きた金探しの一大ブームに乗り遅れまいとやってきた主人公が、大荒の中、山小屋に逃げ込み採掘者の大男ビッグジムと閉じ込められます。食料も尽き、しだいに幻覚を見るようになったビッグジムは主人公を鶏と間違えて追いかけ始めます。狭い空間でそこにあるものだけで展開するブラックなギャグの連発は、スラプスティック・コメディとしての最高傑作とも言われます。革靴とナイフとフォークで食べるシーンやテーブル上での見事な指ダンスなど、芸術の域にまで高められたギャグは感動ものです。

「街の灯 City Light」 1931年
(監)(脚)(音)(出)チャールズ・チャップリン
(撮)ローランド・トセロー、ゴードン・ポロック、マーク・マークウット
(美)チャールズ・D・ホール
(音)ホセ・ペディラ・サンチェス、アルフレッド・ニューマン
(出)ヴェージニア・チェリル、ハリー・マイヤーズ、ハンクマン(ボクシングの対戦相手)
目の不自由な娘を愛してしまった貧しい男が、自分を金持ちに見せようと奮闘しながら彼女を助け、彼女の目の治療費用を稼ごうと様々な仕事に挑みます。ラストに目が見えるようになった彼女と出会った男は・・・。
 デパートの中でのローラー・スケートのスリルと笑い、そして今や伝説的なボクシングの爆笑試合!完璧な演出と演技によって生み出されたギャグの連続パンチは、まさに究極の芸術作品です。これって、どうやって撮ったの?その絶妙なタイミングは、何回撮り直したのか?何度見ても凄い。この映画の撮影に彼は1年を費やし、編集作業などに2年かけたとのことです!撮り終わった時のフィルムは、公開版の150倍あり、200万ドルもかかってしまったといいます。
 当時の映画界では、世界初のトーキー映画「ジャズ・シンガー」(1927年)の公開以降、トーキー映画が映画界の主流になりつつありました。そんな中、サイレント映画にこだわり続けるチャップリンの作品は時代遅れとされ、200万ドルもかけたものの、どの映画館も上映しようとしませんでした。
 唯一、ニューヨークのジョージ・M・コーハン劇場だけがこの作品を上映。ところが宣伝などしていないにも関わらず、口コミで観客が増え続け、3か月近く上映され続けることになり、純利益で40万ドルを稼ぐことになります。

<ヨーロッパを旅したチャップリン>
 1931年彼は世界を巡る旅に出て、ヨーロッパ各地も訪れています。しかし、そこで彼が感じたのは再び戦争に向かいつつある危機的雰囲気でした。
「愛国心は、かつて世界に存在した最大の狂気だ。私はこの何か月かヨーロッパの各国をまわってきたが、どこでも愛国心がもてはやされていた。これがどういう結果になるかというと、まら新たな戦争だ。願わくば、この次の戦争では、老人を前線に送ってもらいたいね。今回のヨーロッパでは、真の犯罪者は老人なのだから」
チャップリン

「モダン・タイムス Modern Times」 1936年
(監)(脚)(音)(出)チャールズ・チャップリン
(撮)ローランド・トセロー、アイラ・モーガン
(出)ポーレット・ゴダード
 チャップリンがトレードマークのスタイルで出演した最後の作品。SF映画のようにオートメーション化が進んだ最新の工場で働く主人公は、文字どおり工場の歯車となって働くうちにおかしくなり、機械の中に巻き込まれてしまいます。
 非人間的な機械化されつつある社会への批判を込めた反ユートピア近未来SFともいえる作品。(当時としては)自由へと向かい旅立つ二人の後姿は、放浪紳士としてのチャップリンとの別れともなりました。

 「独裁者」での批判が正しかったことは、その後のナチス・ドイツの侵攻作戦やユダヤ人の大虐殺により明らかになります。しかし、1947年の「殺人狂時代」で、彼は戦争を行う国家すべてを「窮極の大量殺人犯」と否定したために、反アメリカ=共産主義者という疑惑の目で見られることになります。彼に対する批判は、はるかに年下の女性との結婚、実子認定裁判のトラブル、国税局からの脱税の追及などにより強まり始めます。アメリカの市民権を取得しようとしない彼をFBIはソ連のスパイとして疑うようになり、彼には監視張りつくようになりました。(1950年マッカーシー上院議員が行った演説から「赤狩り」が始まっていました)
 1947年9月、チャップリンは非米活動委員会の公聴会に召喚されます。
 それに対し、彼は「放浪紳士チャーリー」の扮装で出廷すると声明を出します。公聴会はテレビ中継されることになっていたため、会場はチャップリンのショーになると予想されました。そうなれば公聴会が笑いものになる可能性が高い。そう考えた委員会は彼の召喚を中止します。

 1952年、ヨーロッパに「ライムライト」のプロモーションで出発した彼の再入国許可が取り消されました。それは彼にとって実質的な追放通知であり、その後彼はアメリカには戻らず、そのままスイス、レマン湖のほとりローザンヌに家を建てそこで生涯を閉じることになります。
 この時、マグダネリー司法長官は世界中からの批判に対し、こう回答しました。
「チャップリンが合衆国の安全を脅かす危険人物である証拠は存在する。だが、それを明らかにすると敵の防衛の助けとなるので、今は公開しない」
 これこそフェイクでした。

 「赤狩り」の終結後、1970年代に入ると彼の名誉を回復すべきという動きが起きます。そして、1972年、彼はアカデミー名誉賞を受け取るため、アメリカを訪れます。その年、やっとアメリカ国内で公開された「ライムライト」は、アカデミー作曲賞を獲得。その作曲者としても彼にはアカデミー賞が渡されました。

<日本でのチャップリン>
 1970年代、日本でもチャップリンは再評価の時期を迎えます。彼の作品が次々にリバイバル上映され、僕も彼の作品を映画館で観ることができました。映画を観始めたばかりの僕にとっては、彼の映画もニューシネマの「バニシング・ポイント」も同じ時代の映画だったといえます。実際、僕には彼の映画が古いようには思えず、単に白黒フィルムで昔の時代を描いた映画レトロなムードの映画だったのです。サイレント映画だったので、なおさら古さを感じなかったのかもしれません。
 彼の人生をさらに詳しく知りたい方は、彼の生涯を追ったドキュメンタリー映画「放浪紳士チャーリー」(1976年)がお薦めです。(監督はリチャード・パターソンで撮影はなんとネストール・アルメンドロスです)リチャード・アッテンボロー監督の伝記映画「チャーリー」(1992年)も見ごたえがあります。(チャップリンを演じているのは、ロバート・ダウニーJrです)

<チャップリンの演出法>
 チャップリンの演出法は極めて特異で、まずすべての役を彼自身が演じて見せ、俳優たちにはその通りするよう求めた。「ライムライト」のヒロイン、クレア・ブルームも、筆者のインタビューの際に「セリフの言い方はもちろん、手の置き場所、視線の方向まですべて指示された」と教えてくれた。彼の演出には「偶然というものはなかった。ただ彼の天才があるだけだった」と回顧している。

<チャップリンと音楽>
 チャップリンは正式な音楽教育を受けていないため、楽譜を書くことはできなかったようですが、早くから映画音楽の重要性を意識した映画人でした。「モダンタイムス」の挿入曲である「スマイル」や「ライムライト」の「エターナリー」などは、誰もが知るスタンダード・ナンバーとなった彼の曲です。
 彼の映画と音楽の関係について、日本が生んだ偉大なる映画音楽作家、伊福部昭はこう語っています。

 チャップリンの映画は音楽が頻繁に流れてくる。だが、肝心なところ、ポイントとみなされる箇所は音楽を外す例が多かった。現実音をはぶくこともある。その処理法が強く印象に残った。チャップリンは音楽も自分で作る。他人任せにはしない。音楽を常に流しているようで、実はつけどころを練りに練っている。映像、ドラマだけでいきたい箇所は音楽をいっさいつけない。映画で流す音楽はそういうものだ。自分もそのような映像音楽を目指したい。チャップリンの映画を観て、伊福部はそんな想いを強く生じさせた。
小林淳「伊福部昭と戦後日本映画」より

 編曲者たちは、コメディのシーンに楽しい音楽を合わせようとしたが、チャップリンは「楽しいシーンに悲しい音楽をつけるんだ。これが僕の対位法だ」と主張した。コメディにあえて美しい音楽をつけることで、笑いの奥底に悲劇や冷徹な社会批評が見えてくる。身体が音楽化し、音楽が身体化して物語を紡ぐのがチャップリンだった。

<参考>
「ディズニーとチャップリン」
 2021年
(著)大野裕之
光文社新書

<1940年の出来事>
日独伊三国軍事同盟
パリが陥落し、フランスがドイツに降伏
その後、ドイツ軍はデンマーク、ノルウェー、ベルギー、オランダを占領
ドイツ空軍によるロンドン爆撃開始
チャーチル戦時連立内閣(英)
アインシュタインがアメリカに帰化

フランクリン・ルーズベルトがアメリカ初3期目の大統領に当選
ソ連からメキシコへ亡命していたトロッキーが暗殺される
共産八路軍、華北で日本に大攻勢
紀元2600年の祝賀行事開催される(初代天皇の神武天皇から2600年)
第二次近衛内閣「大東亜共栄圏」建設の声明発表(松岡洋右外相が発表)
大政翼賛会の発足(議会制民主主義が実質的に停止)
国民服導入される
日本海軍が零式艦上戦闘機(ゼロ戦)を正式採用
東京のダンスホールが閉鎖される
東京オリンピックが中止となる(代替開催のヘルシンキも中止)

<音楽>
「ココ」デューク・エリントン楽団
フランク・シナトラがトミー・ドーシー楽団の専属歌手となる
ベニー・モレーがハバナで活動を開始(キューバ)
黒人コーラス・グループの先駆け、イブニング・バーズが「ン・ブーべ」発表(南ア)
クロンチョンの名曲「ブンガワン・ソロ」発表(インドネシア)
「ブルーベリー・ヒル Blueberry Hill」(グレン・ミラー楽団のカバーがヒット、ファッツ・ドミノの代表曲でもある)
「星に願いを When You Wish Apon A Star」クリフ・エドワード
「星に願いを When You Wish Apon A Star」グレン・ミラー楽団(映画「ピノキオ」のテーマ)
「In The Mood」、「ケアレス Careless」グレン・ミラー楽団
「フェリーボート・セレナーデ Ferryboat Serenade」アンドリュー・シスターズ
「I'll Never Smile Again」トミー・ドーシ―楽団&フランク・シナトラ
「Indian Summer」トミー・ドーシ―楽団&フランク・シナトラ(1919年のジャズ曲カバー)
「Make Believe Island」ミッチェル・アイレス
「オー・ジョニー Oh Johnny」Elsie Carlisle
「Only Forever」ビング・クロスビー
「ウッドペッカー・ソング」グレン・ミラー楽団&マリオン・ハットン
「Freneci」アーティー・ショー楽団
「We Tree(My Echo,My Shadow and Me)」インク・スポッツ
「身も心も Body and Soul」コールマン・ホーキンス楽団
「タキシード・ジャンクション」グレン・ミラー楽団
「You Are My Sunshine」ジミー・デイヴィス

<美術>
「空の青」ワシーリー・カンジンスキー
「巨匠とマルガリータ」ミハイル・アファナーシェヴィチ・ブルガーコフ

<文学、思想など>

ジョン・スタインベックがピューリッツアー賞を受賞
「アメリカの息子 Native Son」リチャード・ライト著


<映画>

「怒りの葡萄」(監)ジョン・フォード(原)ジョン・スタインベック(主)ヘンリー・フォンダ(助演)ジューン・ダーウェル(アカデミー監督賞、助演女優賞))
「エイブ・リンカーン」(監)ジョン・クロムウェル(原)(脚)ロバート・シャーウッド(出)レイモンド・マッセイ、ジーン・ロックハート
「海外特派員」〈監)アルフレッド・ヒッチコック(脚)チャールズ・ベネット、ジョーン・ハリソン〈出)ジョエル・マクリー、ラレイン・デイ
「西部の男」(監)ウィリアム・ワイラー(主)ゲイリー・クーパー(助)ウォルター・ブレナン(アカデミー助演男優賞
「バグダッドの盗賊」〈監)ルドウィッヒ・ベルガー、マイケル・パウエル他〈出)サブー、コンライト・ファイト
「フィラデルフィア物語」(監)ジョージ・キューカー(主)ジェームス・スチュアート(アカデミー主演男優賞
「レベッカ」(監)アルフレッド・ヒッチコックアカデミー作品賞
「恋愛手帖」(監)サム・ウッド(主女)ジンジャー・ロジャース(アカデミー主演女優賞
「独裁者」(監)(脚)(主)チャーリー・チャップリン
「我等の町 Our Town」 
〈監)サム・ウッド
(製)ソル・レッサー(原)ソーントン・ワイルダー(脚)フランク・クレイヴン、ハリー・チャンドリー(撮)バート・グレノン(音)アーロン・コープランド
〈出)ウィリアム・ホールデン、マーサ・スコット、フランク・クレイヴン、トーマス・ミッチェル、フェイ・ベインター、ボーラ・ボンディ 
マサチューセッツの小さな町を舞台にそこに住む人々の40年ほどの年月を描いた人生賛歌。
舞台劇が元になっていて、細切れのドラマが映画的背景をバックに展開します。
狂言回しが観客に向かって話しかけるという変わった構造も新鮮。昔話を語るような、守護天使が人間に語りかけるような・・・。
「アメリカン・グラフィッティ」の20世紀初め版。「素晴らしき哉、人生!」の歴史変更なし版。
「民族の祭典 オリンピア第一部」(監)レニ・リーフェンシュタール〈撮)ハンス・エルトル、ワルター・フレンツ他
「美の祭典 オリンピア第二部」(監)レニ・リーフェンシュタール〈撮)ハンス・エルトル、ワルター・フレンツ他
「ピノキオ」〈アニメ版)〈監)ベン・シャープスティーン、ハミルトン・ラスケ

「小島の春」〈監)豊田四郎(脚)八木保太郎〈出)夏川静江、菅井一郎、杉村春子
「支那の夜」(監)伏見修(出)李香蘭(大ヒットとなる)
「西住戦車長伝」(監)吉村公三郎(原)菊池寛〈出)佐分利信、上原謙
「風の又三郎」〈監)嶋耕二(原)宮沢賢治(出)片山明彦、大泉晃
「浪花女」〈監)〈原)溝口健二〈脚)佐田義賢(出)阪東好太郎、高田浩吉

<時代を変えたモノ>
「ナイロン・ストキング」デュポン社が発売(米)

<1940年という年>
「日本のファシズムは、やる方にも明確なポリシーがない。『一歩踏み出した以上もう後戻りは出来ない』だけで前に進むから、いつの間にかとんでもないことになってしまっている。・・・」
「元老という特権的な存在は消滅して、重臣という古い時代の存在も消え、しかし、その代わり「派閥のボス」や「党の長老」というものが出て来るのが戦後である。総理大臣は変わらずに「話し合い」によって決められた。一部の人間による不明朗な談合政治が「動かす必要のない伝統」として残っていたからである。西園寺公望から60年たっても、あまりこの歴史的不自然は気づかれていないようだ」

橋本治「二十世紀」より

<1940年の物故者>
ウォルター・クライスラー(クライスラー社創設者)(米)
スコット・フィッツジェラルド(小説家)(米)
パウル・クレー(画家)(スイス)
小熊秀雄(詩人、小説家)
西園寺公望(政治家)

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