1942年

- エドワード・B・マークス、ラルフ・ピアー、ジェームス・シーザー・ペトリロ・・・etc. -

<ポピュラー音楽の世紀>
 「20世紀はポピュラー音楽の世紀である」と僕は思っています。しかし、それは良い意味も悪い意味含めてのことで、20世紀という時代の歴史とポピュラー音楽、すなわち流行歌の世界は切っても切れない関係にあったということです。世の中でどんな音楽が流行るかは、その曲が良い曲かどうかだけでなく、その曲が時代のニーズに合っていたか、その曲のヒットのためにどれだけのお金がつぎ込まれたか、その曲を演奏するアーティストにどれだけ魅力があるか、などいくつもの条件によって決まるのです。どんなに優れた曲でも、どんなに魅力的なアーティストでも、それが大衆の知るところにならなければヒットするわけがありません。まして、1942年という年は第二次世界大戦が始まった年です。世界のほとんどの国では食べるのがせいいっぱいであり、音楽にお金を使う余裕などなかったのです。そんな中でもアメリカだけは、かろうじて音楽を聞く余裕があったといえますが、それでも1942年の8月から1945年の1月までアメリカではレコードの録音がほとんどできなくなり、音楽業界は大混乱に陥ることになります。といっても、その原因の多くは戦争ではなくアメリカという国らしい音楽ビジネス業界の内紛によるものでした。

<混乱の原因>
 混乱を招くことになった発端は、確かに戦争でした。第一次世界大戦は、戦場とならずにすんだアメリカに巨額の利益をもたらしましたが、第二次世界大戦では日本との直接対決ということもあり、アメリカはそれなりの経済的打撃をこうむることになりました。
 先ずは若手のミュージシャンが兵士として戦場へ送られることになりました。さらに、戦争で必要とする石油を確保するためにアメリカ国内での人々の移動が大幅に制限されるようになりました。そのため、ツアーによって稼ぎを得ていた多くのミュージシャンは急に稼ぎが減り、特に多くのミュージシャンを必要としていたビッグ・バンドは、この時期いっきに解散へと追い込まれて行きました。仕方なく人数を減らしコンボのスタイルでツアーを行うようになったジャズ・ミュージシャンたちはこの時期人数の少なさを補うため、それぞれのパートがソロ・パートをアドリブで演奏することで量を質によって補うようになります。実はこれがその後に来るジャズの次なる黄金時代、バップを生み出す原因ともなるわけです。しかし、それはまだ先の話。当時のミュージシャンたちにとっては、それ以外にも新しい敵が彼らの仕事を奪いつつあるという状況があrました。それはラジオによるライブ放送やレコードの放送、それにジューク・ボックスの普及でした。
 そこで厳しい状況を乗り切るため、ミュージシャンたちはレコード会社から何らかの補償を得たいと考えました。そこで登場したのがジェームス・シーザー・ペトリロという名前からして恐持てなボスに率いられたミュージシャン組合でした。この組合が大手のレコード会社に対して交渉を開始し、ストライキをチラつかせながら補償を要求したわけです。もちろん、レコード会社もまた戦争により売り上げが激減していたわけですから、要求に答えるのは元々困難でした。おまけにちょうどこの頃、戦争のおかげでレコードの原材料となるプラスチックの輸入が止まり、その在庫が一年半程度しかないことがわかったのです。当然、レコード会社は組合の要求をはねつけることになり、交渉は決裂。デッカ、RCA、コロンビアなど大手のレコード会社はミュージシャンがいないため、レコードの録音ができなくなってしまいました。

<ラジオ局対ASCAP>
 同じ時期にもうひとつの抗争が起きていました。それはラジオ局とそこでかかる音楽の著作権を管理する著作権管理団体(略称ASCAP)との抗争でした。1930年代の大恐慌でレコードの売り上げが急激に落ちたことから、ミュージシャンを守る立場のASCAPとしては、それまで低く抑えていたラジオでのレコード放送使用料の値上げをラジオ局に対して要求することになりました。それは一度は認められたのですが、1940年代に入り、その契約が切れる時期になり再びそれが問題となり、契約の延長を拒否した放送局側は突然、新たな著作権管理団体BMIを設立。そこで扱うアーティストは当然放送料を低く設定させようとしたわけです。これに対してASCAPは所属するアーティストすべての楽曲をラジオで使用できないようにしてしまいました。そうなるとラジオ局は非常に困るわけですが、BMIに所属するアーティストだけでやって行くしかありません。そうなると、今度は目ざとい音楽プロデューサーたちは自分で会社を立ち上げ、BMIへの所属によってチャンスをつかもうと考えるわけです。

<隙間を狙ったヒット>
 エドワード・B・マークスという人物は、ルンバの大ヒット曲「南京豆うり」をキューバから持ち帰ったプロデューサーで、彼はこの時期キューバからラテン音楽をもたらしてラテン音楽のブームを巻き起こすことになります。
 もうひとり、ラルフ・ピアーというプロデューサーもまたこのチャンスにBMIに加盟していますが、彼はカーター・ファミリーとジミー・ロジャースという30年代最高の人気カントリー・ミュージシャンの育ての親として有名です。彼らが持ち込んだアーティストたちはこうしていち早くチャンスをつかみ一気に全国レベルのスターになっていったのでした。考えてみると、この時期ラジオから流れていたカーター・ファミリーの音楽に憧れて、後にカントリー界の大御所になたのがジョニー・キャッシュで、彼がラジオにかじりついてカーター・ファミリーを聞くシーンが映画「リング・オブ・ファイアー」にもありました。
 さらにジャズが聴けなくなったこの時期、彼らに代わって表舞台に登場。人気を獲得し始めたのがクルーナーといわれる白人のポピュラー音楽のシンガーたちです。フランク・シナトラのデビューはこの年。そして、ビートルズにぬかれるまでポピュラー音楽界最大のヒットとして歴史にその名を刻んでいたビング・クロスビーの「ホワイト・クリスマス」もこの年にヒットした曲です。(この年から、というべきでしょうか)
 こうしてラテン音楽とカントリー音楽、ポピュラー音楽は、この時期に大きく伸びることになりましたが、逆にジャズはほとんどのミュージシャンたちが組合に所属していたため、まったくレコードの録音が行えず、仕方なくライブ活動に専念することになりました。そのなかで行われた夜明け前の自由な時間(アフターアワーズ)に行われたセッションから後にバップと呼ばれることになる音楽が生まれることになるわけです。売れることを意識するより、己の目指す究極の美の追及から生まれた「モダン・ジャズ」への道は、こうして売りたくてもレコードを作れない、馬鹿げた空白期間のおかげで生まれたともいえるのです。

<幼形進化>
 生命の進化を説明する理論の中に「幼形進化」という概念があります。それは、ある生物が進化によって新しい環境に適応するための方法として、大人になる前の子供の状態(幼形)で一度成長を止め、そこから大人として生きることで新しい進化の可能性を見つけ出すというものです。
 ビッグ・バンドというある意味「「恐竜」の段階に進化していたジャズは、数々の困難と出会うことでそれ以前の形態へと戻ることになり、そのため新たな時代に対応でき、より自由度の高い音楽を生み出せるスタイルを生み出すことに成功したのです。(これはロックおける1970年代のパンクの登場にも当てはまります)
 こうして、厳しい状況、環境におかれることで、人も文化も、あらゆるものは一度過去へと立ち戻ることで初めて新たな道を見出すことができるのではないでしょうか。

<1942年の出来事>
ミッドウェー海戦で勝利したアメリカ軍がガダルカナル島に上陸
原子核分裂による連鎖反応実験に成功(米)
北アフリカ戦線での戦闘激化、ドイツ軍の敗退始まる
ドイツ海軍が大西洋で潜水艦作戦開始
ポーランドのアウシュビッツなどでドイツ軍によるユダヤ人虐殺始まる
日本軍がマニラ、ラングーン、シンガポールを占領
関門鉄道トンネル開通

<1942年という年>
「『日本は中国から軍隊を撤退させ、その代わり国民政府は満州国を承認する。国民政府と日本が中国に作った傀儡政権は、合流して一つになる』−これが条件である。それまで日本のやり方に否定的だったアメリカとしては、”大幅な譲歩”に等しい。日米開戦前の日本には、『アメリカか、ドイツか』という選択肢があったのである。どっちがトクかはバカでも分かる。しかし、日本はバカ以下だったらしいのである」
橋本治著 「二十世紀」より

<音楽>
フランク・シナトラがソロ・デビュー
ビング・クロスビーの「ホワイト・クリスマス」(アーヴィング・バーリン作曲)が大ヒット
ライオネル・ハンプトン楽団の「フライング・ホーム」がヒット。イリノイ・ジャケーのホンク・テナーが流行となる
キャピトル・レコード(LA)、アポロ(ニューヨーク)、サヴォイ(ニュージャージー)設立される

<映画>
「悪魔が夜来る」〈監)マルセル・カルネ(脚)ジャック・プレヴェール、ピエール・ラローシュ(出)アルレッティ、マリーデア
「運命の饗宴」(監)ジュリアン・デュヴィヴィエ(脚)ドナルド・オグデン・スチュアート(出)シャルル・ボワイエ、リタ・ヘイワース
「カサブランカ」(監)マイケル・カーティス(出)ハンフリー・ボガート、イングリッド・バーグマン、クロード・レインズ
「疑惑の影」(監)アルフレッド・ヒッチコック(原)ゴードン・マクドネル(出)テレサ・ライト、ジョセフ・コットン
「雲の中の散歩」(監)アレッサンドロ・ブラゼッティ(音)アレッサンドロ・チコニーニ(出)ジーノ・チェルヴィ、アドリーナ・ベネッティ
「心の旅路」(監)マーヴィン・ルロイ(製)シドニー・フランクリン(出)ロナルド・コールマン、グリア・ガーソン
「逃走迷路」(監)アルフレッド・ヒッチコック(脚)ピーター・ヴィアテル他(出)ロバート・カミングス、プリシラ・レイン
「ミニヴァー夫人」(監)ウィリアム・ワイラー(主女)グリア・ガーソン(助女)テレサ・ライト(アカデミー作品賞、監督賞、主演女優賞、助演女優賞
「ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディー」(監)マイケル・カーティス(主男)ジェームス・キャグニー(アカデミー主演男優賞
「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(監)(脚)ルキノ・ヴィスコンティ(出)マッシモ・ジロッティ、クララ・カラマーイ
「Joohooy Yeager」(ヴァン・へフリンがアカデミー助演男優賞
「打撃王」(監)サム・ウッド(主演)ゲーリー・クーパー(原)ポール・ギャリコ
「バンビ」(監)デヴィッド・D・ハンド(ディズニー・アニメの傑作)
黒人歌手リナ・ホーンがMGMと契約(黒人として初)

「ハワイ・マレー沖海戦」(監)(脚)山本嘉次郎(特)円谷英二(出)伊藤薫、英百合子
(この映画で用いられた特殊撮影の技術が戦後「ゴジラ」を生み出すことになります)
「父ありき」(監)(脚)小津安二郎(出)笠智衆、佐野周二
「元禄忠臣蔵 後編」(監)溝口健二(原)真山青果(出)市川歌右衛門、山路ふみ子
「独眼流正宗」(監)(脚)稲垣浩(出)片岡千恵蔵、月形龍之介

<文学>
「異邦人」アルベール・カミュ(仏)
「無常という事」小林秀雄


<美術>

「ニューヨーク・シティT」ピエト・モンドリアン
「子供達の遊び」ドロテア・タニング

<時代を変えた発明・モノ>
ジェット戦闘機の先駆けとなったメッサーシュミット262、ロケットの原型となったV2号ミサイル(独)

<1942年の物故者>
北原白秋(日・歌人)
中島敦(日・作家)
与謝野晶子(日・作家、歌人)

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