1945年

- チャーリー・クリスチャン、ケニー・クラーク・・・etc.-

<本当のジャズ・エイジ>
 1920年代という時期を小説家スコット・ジェラルドは「ジャズ・エイジ」と呼びました。しかし、多くのジャズ・ファンにとって、本当の意味の「ジャズ・エイジ」とはこの年1945年から始まる数年間のことかもしれません。ではなぜ1945年なのか?それは第二次世界大戦が終わり、経済的、政治的に自由が増したことで音楽活動が活発になったからということだけではありません。そこにはもっと具体的な理由があります。実は1942年からこの年の1月まで、ジャズの録音はまったく行われていませんでした。その原因には、戦争による資材不足もあげられますが、それが直接の原因ではなく、アメリカ音楽家組合(AFM)と大手レコード会社との対立から始まったレコーディング・ストライキこそがその最大の原因でした。そのため、1942年頃から始まっていたチャーリー・クリスチャンやケニー・クラーク、チャーリー・パーカーらによるジャズの革命「ビ・バップ」初期の音は、この年までレコードに収められることがなかったのです。
 そのため、それ以前に彼らがどんな過程をへてビ・バップを生み出すに至ったのか、その過渡期の音楽は永遠に失われてしまいました。とはいえ、1953年にこの世を去るチャーリー・パーカーもこの年はまだまだ絶頂期にいたので、我々は彼の全盛期の演奏をレコード、CDで聴くことができます。
 というわけで、この年からそれまでごく一部のジャズ・ファンにしか知られていなかった「ビ・バップ」の全貌が、やっとレコードとして記録され始めることになり、世界中のジャズ・ファンに遺産として残されることになったのです。この後このビ・バップ革命により「ジャズ」が大きく変貌をとげ、それまでとはまったく異なる新しい段階へと進むことになるのはいうまでもありません。

<ビ・バップ革命とは?>
 ビ・バップ革命とはいかなるものだったのでしょうか?
 最も重要なのは、「ビ・バップ」が「ジャズ」の即興演奏(インプロヴィゼーション)により自由な枠組みに主役の座を与えることで、ジャズの音楽的構造を完全に覆してしまいました。そのため、その時々の演奏は二度と同じものを聴くことができない貴重なものとなり、逆に失敗すれば観客から情け容赦のないブーイングを浴びせられることもある、ひと時も気を抜くことのできない真剣勝負の場となりました。
 そうなると、ミュージシャンは常に技を磨き、新しいアイデアを生み出す努力を続けなければ、すぐに周りのミュージシャンたちに追い抜かれてしまうことになります。こうした状況のおかげで、若手の才能あるミュージシャンがどんどん登場し、新しい音を生み出してゆくことになりました。ところが、こうして登場した若手のミュージシャンたちの多くは、それまでのミュージシャンたちとは異なるある価値観を持っていました。

<人種問題について>
 黒人ミュージシャンたちの人種問題に関する意識構造は、この時期大きく変わろうとしていました。その最大の原因は第二次世界大戦がもたらしたものだといわれています。戦争中、多くの黒人たちが人種差別の解消を求めて、軍隊に入隊しました。それはアメリカの戦いに積極的に協力することで、アフロ・アメリカンもまたアメリカという国家の担い手であるということを証明しようという意図からでした。もちろん、経済的理由から教育を受けるための奨学金を得るために軍隊に入隊する者やもっと単純に食べてゆくために入隊する者も多かったのも事実でしたが、幸いなことに軍隊内での差別は現実社会における差別に比べると些細なものでした。さらに彼ら黒人たちのほとんどは故郷の町から出たことがなかったのですが、軍隊に入ったおかげで都会に出る機会を得ただけでなく、ヨーロッパ戦線に向かった兵士たちはそこで黒人への差別がないもうひとつの白人社会が存在することを知ることにもなりました。
 これらの体験によって、彼らはアメリカという国をより客観的に見ることができるようになり、人種差別という行為がいかに愚かなものであるかを再認識することができました。戦後故郷に戻った彼らは、そこで以前のように白人たちによって差別されることを簡単に認めることはできなくなりました。ジャズ界においても若者たちのそうした意識の変化は大きく、マイルス・デイヴィスなどはその典型的な例でした。彼以前にジャズ界、ポップス界で白人たちに受け入れられた人気者たち、ルイ・アームストロングナット・キング・コールをマイルスが白人におべっかを使う「アンクル・トム」のような存在であると批判したのもしかたなかたのかもしれません。
 しかし、ビ・バップ革命のリーダーだったチャーリー・パーカーだけは、そのどちらでもない例外的な存在でした。マイルスが怒り、サッチモが笑顔で許した人種差別に対し、パーカーは薬やアルコールによる自己破壊と白人女性とのセックスという矛盾した方法で答えました。彼のこうした精神的混乱は、この時期の黒人の若者たちがぶつかっていた矛盾した社会構造と共通するものだったのかもしれません。しかし、彼の場合、そうした混乱した精神から生み出されたはずの音楽には混乱はまったくみられませんでした。それどころかすべての混乱にメロディーとリズムによる秩序を与えようとするかのような絶え間のない彼の努力は、どんなミュージシャンにも真似ができないものだったのです。

<ビ・バップ誕生と太平洋戦争>
 ビ・バップの基本ともいえるインプロヴィゼーション(即興演奏)重視の音楽性は、どうして生まれたのでしょうか?実は、その直接のきっかけとなったのは日本との太平洋戦争にあったようです。
 太平洋戦争と開戦当初の意外な苦戦により、アメリカの西海岸では夜間の電力統制が行われるようになりました。そのため、クラブは夜間の営業時間が限られるようになり、ジャズ・ミュージシャンたちの仕事は少なくなりました。
 兵器の増産が求められた工業界ではそれまで楽器工場だったところまでが兵器を作るようになり、そのため楽器が不足し始めることになりました。
 遠く離れた日本との戦争には兵器だけでなく膨大な量の燃料が必要となり、そのために燃料となる石油が不足し、鉄道などの交通手段の運行も大幅に制限されるようになりました。こうした状況は、バンドのコンサート・ツアーを困難にさせ、レコード録音がストでできないこともあり、バンドの維持が非常に困難になっていったのです。そうした状況に対し、バンドの経営者の多くはバンドを解散しないまでも、その人数を減らさざるをえませんでした。一時期大ブームとなっていたスウィング・ジャズの影響で、バンドの人数はかなり増えていましたが、その人数は急激に減ってゆくことになりました。(第一、スウィング・ジャズ自体、「この戦時下にダンスにうつつを向かすとは何事だ!」という批判を招きかねない状況だったのですから)こうして、ジャズ界では少人数で編成されたスモール・コンボのスタイルが主流となってゆき、そのために薄くなった音を補うために、それぞれのメンバーがソロ・パートを受け持つようになってゆきました。
<ビ・バップとは?>
「ビ・バップ」の音楽的特徴をもう少し具体的に書き出してみると。
 楽器の進化もまたスモール・コンボの活躍を後押しするようになります。例えば、1937年カウント・ベイシー楽団のギタリスト、エディ・ダラムがエレキ・ギターを用いて以降、それまで大きな会場では使えなかった楽器が電気の力を借りて使用できるようになりました。さらにエレキ・ギターに関しては、その演奏法をチャーリー・クリスチャンらの優れたミュージシャンたちが進化させることでサックスなどの楽器に対抗できるだけのソロ演奏を実現。ギターをジャズの主役にまで押し上げることになりました。
 それまでバス・ドラムを用いていたドラマーのリズム・キープは、ケニー・クラーク Kenny Clarkによって、ライド・シンバルを用いるやり方に変えられました。今では当たり前と思われるライド・シンバルによるリズム・キープも初めは「これじゃ、踊れないぞ!」とバンド仲間からダメだしをされていたそうです。さらにこのドラムにベースとピアノを加えた3つの楽器によるトリオがバンドのリズム・セクションとなり、トランペットとサックスを基本とするフロント・ラインのアドリブ・ソロをバック・アップしてゆく。これがビ・バップにおける演奏の基本となりました。
 もちろん、ピアノ・トリオのリズム・セクションは常にバック・アップに徹する脇役ではなく、時には自らがアドリブ・ソロを行ったり、他のメンバーのソロ演奏を後押ししたり相互に音のやり取りを行いながら、全員で曲を作り上げてゆきます。

<ビ・バップを生んだバトル>
 しかし、こうした「ビ・バップ」の基本ができるまでの間、ミュージシャンたちは音の交換をするというよりは、音によるバトルをすることで自らの能力の高さを示し、自分こそが最もヒップなミュージシャンであることを証明にしようとやっきになっていました。そして、その中心となっていた場所がチャーリー・クリスチャンのアルバムなどで有名な「ミントンズ・プレイハウス」です。
 その店には当時、新しい音を探求するミュージシャンたちが集まり、夜な夜なバトルを繰り広げていました。そこではミュージシャンとしての知名度も、それまでの実績も、まったく役に立たちませんでした。にも拘らず、その店にはコールマン・ホーキンス、ベン・ウェブスター、ジョニー・ホッジス、ベニー・カーター、ロイ・エルドリッジ、テディ・ウィルソンらのベテランたちや超大物のバンド・リーダー、デューク・エリントン、カウント・ベイシー、アーティー・ショー、ライオネル・ハンプトンベニー・グッドマンまでもが登場。そこに、チャーリー・パーカー、タッド・ダメロン、アート・テイタム、レスター・ヤング、チャーリー・クリスチャンら新進気鋭のミュージシャンたちが挑戦していたわけです。
 すでに十分な名声を獲得していたミュージシャンたちまでが何故あえてその店に出演したのでしょうか?
最新の音楽的アイデアを得るため?最強のミュージシャンという勲章を得るため?最良のバンド・メンを自分のバンドに引き抜くため?唯一つ共通するのは、彼らは皆、自分の才能に自信を持っていただろうということです。そんな自分こそが最強であるという自負を持つ者立ちがステージ上で衝突していた時代、それを目の前で見ることができた人々はなんと幸福だったことでしょう。黒人たちが自らの文化に誇りをもち、それを強い意志を持って主張できるようになった時代。ジャズの黄金時代がいよいよ目の前に迫りつつありました。

<1945年の出来事>
ヤルタ会談開催(ルーズヴェルト、チャーチル、スターリン)
国際連合、ユネスコ、世界銀行が設立される
ポツダム会談、ポツダム宣言(米、英、ソ連)
原子爆弾が日本に投下される(広島、長崎)、東京大空襲、沖縄に米軍上陸
ドイツ、日本が無条件降伏
ドイツ東西に分断される、ニュールンベルグ軍事裁判始まる
ポーランド、チェコ、ユーゴスラヴィア、ハンガリー次々と共産化し独立
ソ連軍、満州、朝鮮に侵攻
ヴェトナム民主共和国(北ヴェトナム)独立
アラブ連盟結成(エジプト、サウジアラビア、イエメン、シリア、レバノン、イラク、ヨルダン)

<音楽>
チャーリー・パーカーを中心にバップ革命進む
ブラック系インディー・レーベル、アラディン、スペシャルティ、アラディンがロスで、シンシナティーではキングが設立

「ココ」チャーリー・パーカー
「ハリウッド・スタンピード」コールマン・ホーキンス
「ザ・ハニー・ドリッパー」ジョー・リギンズ
「ばら色の人生」エディット・ピアフ
「海 La Mer」シャルル・トレネ
「センチメンタル・ジャーニー」ドリス・デイ
「時の終わりまで」ペリー・コモ
プロコフィエフの交響曲5番初演
NHKラジオで「紅白音楽試合」放送開始(「NHK紅白歌合戦」の前身)


<文学、思想>
「動物農場」ジョージ・オーウェル


<1945年の物故者>
アドルフ・ヒトラー
アンネ・フランク(「アンネの日記」作者)
ジョージ・パットン(アメリカ陸軍将軍)
ジョン・フレミング(物理学者)
スバス・チャンドラ・ボース(インド独立運動の中心人物)
セオドア・ドライサー(小説家、「アメリカの悲劇」)
バルトーク・ベーラ(クラシック音楽の作曲家)
フランクリン・ルーズベルト(第32代アメリカ大統領)
ポール・ヴァレリー(詩人、評論家)
ラス・ビハリ・ボース(インド独立活動家、銀座中村屋にカレーを伝えた)
野口雨情(詩人)

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