1946年

- ジャンゴ・ラインハルト Django Reinhardt -

<ジャンゴ、アメリカに渡る>
 この年、ジャズ・ギターの神様、ジャンゴ・ラインハルトが渡米。ニューヨークでビ・バップのミュージシャンたちと共演し、逆に彼らに多くの影響を与えることになりました。43歳という若さでこの世を去ったこと、ロマ(ジプシー)出身という特異な存在だったこと、そして何より指が不自由だったことなどにより、彼の存在は生前から伝説的存在として、ビング・クロスビーを初めとする多くのミュージシャンたちが彼との共演を望んでいたといいます。
 ジャンゴ・ラインハルトとロマの音楽史は、もうひとつのヨーロッパ史といえるほど奥が深いのですが、そんな歴史を背負った男が、もうひとつのアメリカ史ともいえる黒人たちの音楽、ジャズに大きな影響を与えたわけです。1946年といえば、ヨーロッパでは戦争の傷跡がまだしっかりと残っていた時期です。そんな混乱した時代にヨーロッパとアメリカを又にかけて活躍した伝説のギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトに迫ってみたいと思います。

<ロマの音楽>
 ジプシー・キングスでも有名な「ジプシー」という名前は、最近では差別用語として使われなくなりつつあります。その代わりに使われるようになったのが「ロマ」という言葉です。ただし「ジプシー」という言葉は、元々「エジプトから来た巡礼の民」が「エジプト人 Egyptian」と呼ばれ、それが「ジプシー」に変じたとされ、けっして悪い言葉ではありませんでした。
 その祖先は11世紀にまでたどれるともいわれ、ロマの文化は北西インドあたりに起源をもつ非常に古い歴史をもっています。日本でも、ついこの間まで芸能人は「河原乞食」と呼ばれ差別されていましたが、それと同じような状況がヨーロッパでもずっとありました。彼らは定住することも、教会を中心とする社会に立ち入ることも許されず、逆に一般にの人々が関わることが許されない不浄の仕事である芸能人としてのみ社会に関わることを許されていたのでした。(他にも占い師、鋳掛け屋など特殊な職業もありました)
 19世紀のクラシックの世界にとって、ロマ文化の影響は以外に大きなものがありました。ビゼーの「カルメン」に描かれたフラメンコの文化もロマの文化から生まれたものです。20世紀のポピュラー音楽がアフリカやアジアなど植民地化されていた国々の音楽を吸収することで新しい音楽を生み出したのと同じことが、19世紀すでにクラシック音楽の世界でも起きていたのです。「ロマ」の音楽こそは、20世紀のポピュラー音楽にとって最初のエスニック音楽だったのかもしれません。

<ジャンゴの生い立ち>
 ジャンゴ・ラインハルトは、1910年1月23日にベルギーのリベンシーで生まれました。しかし、彼の家族はキャラバンを組んで移動するロマの一家だったので、住所も国籍もあってないようなものでした。
 彼の母親はダンサーで父親はヴァイオリンとギターを演奏しながら、その修理も仕事にしていたそうです。当然彼も音楽の道で食べてゆくことになり、マヌーシュというグループのメンバーとして、ベルギー国内だけでなくフランスや北アフリカにまで足を伸ばす生活をしていました。その後、彼はフランスに落ち着き、パリのカフェやミュゼットでギタリストとして活躍するようになりました。当時はジプシー音楽やワルツ、タンゴなどの人気曲を演奏していましたが、アメリカからやって来た新しい音楽「ジャズ」にひかれ、ジャズを中心に演奏するようになってゆきました。実は、当時カフェなどで演奏されていた楽器はアコーディオンやヴァイオリン、ピアノが中心でギターはほとんど見られませんでした。それはアメリカのジャズ界でも同じでした。その最大の理由は、弦楽器であるギターの奏でる音が他の楽器に比べて小さかったからですが、エレキ・ギターの登場により、状況は変わりつつありました。そんな状況の中、ヨーロッパではジャンゴ、アメリカではチャーリー・クリスチャン、2人の活躍によって、ジャズ・ギターという新しいジャズのジャンルが生み出されようとしていたのです。ところが、そんな彼を突然の悲劇が襲いました。

<悲劇からの再生>
 1928年11月、彼の住むキャラバンが火事になり、その火を消そうとした彼は左手と左半身に大やけどを負ってしまいました。18ヶ月に渡る入院生活の後、やっと社会復帰したものの彼の左手の小指と薬指は硬直したままで、その状態は生涯回復することはありませんでした。この事件が、もしあと10年遅かったら、彼独特の演奏法は生まれていなかったかもしれません。それ以上に彼はその事故から立ち直ることもできずに引退してしまっていたかもしれません。18歳という若さにあふれた時代だったからこそ、彼はその苦境からはい上がり、なおかつその状況を逆に利用することができたのではないでしょうか。
 具体的には、彼は2本の指が不自由になったことでコードを演奏できなくなったわけですが、メロディーを奏でるように弾くというもうひとつの方向性を見出すことで、そのハンデを克服したのです。彼はもともと音楽教育を受けてはいなかったので楽譜が読めず、コードの名前すら知らなかったといいます。そのことが、彼の音楽を自由なものにし、ケガの影響から立ち直るのに役立ったのかもしれません。
 彼に関しては、その独特のギター奏法に話題が集中しがちですが、「ヌアージュ」、「マイナー・スウィング」、「ティアーズ」、「ジャンゴズ・キャッスル」などオリジナル曲にも優れたものが多いことも忘れてはいけないと思います。

<ジャズ・ミュージシャンたちとの共演>
 見事に復活を果たした彼はアンドレ・エキヤン楽団に参加し、本格的に活動を開始します。1934年、彼はヴァイオリニストのステファン・グラッペリ Stephane Grappelliと出会い、フランス・ホット・ファイブ五重奏団を結成。このバンドには弟のジョセフ、いとこのロジャー・チャプットらが参加。その後メンバーを入れ替えながら1939年まで活動を続け、一躍彼の名を海外にまで広める人気バンドとなりました。
 そうした活動をおかげで彼はギタリストとしてパリにやって来た多くのジャズ・ミュージシャンたちと共演するチャンスを得ました。コールマン・ホーキンス、エディー・サウス、ベニー・カーターなど大物のミュージシャンたちとの共演は彼の名をさらに広めることになりました。
 しかし、こうした彼の活躍は戦争によって中断させられることになります。ついにドイツがオーストリア、チェコ、ポーランドを占領、そのためフランスはドイツに対し宣戦を布告し、いよいよ第二次世界大戦が始まりました。そのため、バンドは解散を余儀なくされ、ステファン・グラッペリはイギリスに活動拠点を移しましたが、ジャンゴはフランスを離れず、新たなバンド、スウィング・コンボを結成し活動を続けました。彼はフランスを愛していたのです。
 そして、1944年にパリが連合軍によって解放されると、モンマルトルに自らのクラブをオープンさせました。1946年には再びフランス・ホット・ファイブを結成し、本格的に活動を再開しました。そして、この年デューク・エリントンからの共演依頼に答えるため、ついに彼はアメリカへと出発しました。その後しばらくニューヨークに滞在し、ジャズの最先端としてブームを巻き起こしつつあった「ビ・バップ」のミュージシャンたちと共演するなどしますが、フランスへの望郷の思いが強まり、途中で帰国してしまいました。
 その後、しばらく彼は絵を描くことに熱中したりして、ジャズへの思いが薄れた時期もあったようですが、50年代に入ると再びビ・バップに熱中し始めました。彼のファンの多くは、そうした彼の新しいビ・バップ・スタイルを喜ばなかったとも言われていますが、彼は再びアメリカへと渡ってビ・バップのミュージシャンたちと共演しようと考えていたようです。
 しかし、1953年5月16日彼は43歳という若さでこの世を去り、その思いが果たされることはありませんでした。

<映画「ギター弾きの恋」>(1999年)
 ジャンゴのファンなら是非見ていただきたい映画です。監督はウディ・アレンで、主演はショーン・ペン、サマンサ・モートン、ユマ・サーマン。世界で二番目のギターの腕を持つと豪語するジャズ・ギタリストの悲しい恋の物語です。もちろん、彼が一番のギタリストと認めているのは、ジャンゴ・ラインハルトで、ラスト近くにはそのそっくりさんも登場します。音楽も、当時のジャズがたっぷりと聴けて、ジャンゴの時代を思い描くことができます。ノスタルジックで悲しい恋の物語を演じるショーン・ペンの演技はいつもの強面ではなく可愛らしさもあり絶品です。ウディ・アレンも物語の邪魔をしない程度に出演していますので、彼の演技のファンの方もご心配なく?

<追記:「ホット・ジャズ・トリオ The Hot Jazz Trio」>
 当時、ジャンゴとともにパリで活躍していた天才たちジャン・コクトー、ピカソ、サティらの世界をイメージさせる作品があります。ウィリアム・コツウィンクル William Kotzwinkleという作家が書いた小説「ホット・ジャズ・トリオ」(1989年)です。なんとその小説の主人公はジャンゴ・ラインハルトとそのバンドでした。その脇役として登場するのがジャン・コクトーパブロ・ピカソエリック・サティ、そのほかにもちょい役でロッシーニ、アンドレ・ブルトンココ・シャネルなども登場するという異色の幻想小説です。
 シュルレアリスムの奇才サルバドール・ダリが創造した柔らかくねじれた不思議な世界と当時世界中のアーティストが憧れた芸術の都、パリが融合した世界。サイケデリックなトリップ感覚は、当時コクトーをはじめ多くの芸術家がはまっていた阿片によるものだったとも考えられますが、読者はいつしか眩暈すら覚えるかもしれません。
 この小説の著者コツウィンクルは1938年ペンシルバニア州スクラトン生まれのアメリカ人です。彼は1975年には「Swimmer in the Secret Sea」でOヘンリー賞、1976年の「Doctor Rat」では世界幻想文学大賞を受賞しています。しかし、たぶん彼の最も売れた小説は、あのスピルバーグのヒット映画「ET」のノヴェライズ版でしょう。アメリカを代表する幻想文学の作家がノヴェライズ本も書かないと食べてゆけない?そういうことなのでしょうか?
「ホット・ジャズ・トリオ The Hot Jazz Trio」
ウィリアム・コツウィンクル William Kotzwinkle(著)
橋本槇矩(訳)
福武書店

<1946年の出来事>
第一回国連総会開催、安全保障理事会成立
パリ平和会議開催
インドシナ戦争(仏vs北ヴェトナム)
チャーチルの対ソ連演説の中で「鉄のカーテン」発言
スターリンがソ連の首相になる
社会主義インターナショナル結成(20ヵ国参加)
ニュールンベルグ裁判で判決(ゲーリングらに死刑判決)
フィリピンがスペインから独立
蒋介石が国民政府主席に就任
ビキニ環礁で原爆実験
極東軍事裁判所開廷
日本国憲法公布、天皇の神格否定の年頭詔書
南海地震(紀伊半島)1443人死亡
俳優座第一回公演「検察官」(ゴーゴリー作)

<音楽>
「ヘイ・ババ・リバップ」ライオネル・ハンプトン楽団
「ジプシー」インク・スポッツ
「チューチューチ・ブギ」ルイ・ジョーダン
「クリスマス・ソング」ナット・キング・コール
「ドリフティン・ブルース」チャールズ・ブラウン
「ブギウギ・ベイビー」デルモア・ブラザース(ヒルビリー)
ビル・モンローがブルーグラスを始める
イブ・モンタンが映画「夜の門」で名曲「枯葉」を歌う
ミュージカル「アニーよ銃をとれ」(アーヴィング・バーリン作)

「リンゴの唄」並木路子
「かえり船」田端義夫
「ジープは走る」鈴村一郎
「悲しき竹笛」近江俊郎
「風はそよ風」奈良光枝

<文学、思想>
「薔薇の奇跡」ジャン・ジュネ
ヘルマン・ヘッセがノーベル文学賞受賞
「暗い絵」野間宏
「堕落論」坂口安吾
「サザエさん」(長谷川町子作)夕刊フクニチにて連載開始


<時代を変えた発明、モノ>
ポリエチレン製容器「タッパーウェア」発売(米)
コッラディーノ・ダスカニオのデザインによる「ヴェスパ」発売(伊)

<ヴェトナム戦争>
「ヴェトナム戦争とはすなわち、姿を変えて生き残った、第一次世界大戦以前から続く、愚かしい”十九世紀的原則”を処理するための苦悶だったのである」
「二十世紀」橋本治著

<1946年の物故者>
アルフレッド・スティーグリッツ(写真家、ダダイスト)
H・G・ウェルズ(SF作家、歴史家)
ジョン・メイナード・ケインズ(経済学者)
坂田三吉(将棋棋士)

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