1948年

- ジョン・ケージ John Cage -

<音楽とは何ぞや?>
 「音楽とは何ぞや?」そんな問いは無意味なのかもしれません。美しい音楽、楽しい音楽があれば理屈などいらない。確かにそのとおりです。しかし、音楽が街中にあふれ、意識しないまま、それを耳にしているうちに音楽に感動を覚えなくなってしまった方も多いのではないでしょうか。逆に駅の喧騒の中で聞こえてきた托鉢の僧侶が鳴らす鐘の音に聞き入ってしまったことがありませんか?たったひとつの音でも人を感動させることは可能なのです。
 1948年、現代音楽の歴史における最大のカリスマ・ヒーロー、ジョン・ケージは、ピアノに異物を仕掛けることで不思議な打楽器を奏でるプリペイド・ピアノという手法を用いて「ソナタとインターリュード」というオリジナル曲を自らピアノを弾いて発表しました。
 その後も彼は次々と音楽の概念をくつがえす作品やパフォーマンスを発表し、多くのミュージシャンやアーティストに影響を与えることになります。音楽だけでなくダンスや美術、映像などあらゆるジャンルの芸術に影響を与えた彼の存在は、いろいろな意味で現代の音楽に結びついています。そして、彼の生き方もまたその音楽同様、意外性に満ちています。現代音楽の奇才ジョン・ケージとはいかなる人物だったのでしょうか?

<ジョンの青年時代>
 ジョン・ケージは、1912年9月5日カリフォルニア州のロスアンゼルスに生まれています。彼の父親は潜水艇や不思議なオブジェを作り、まわりを驚かせる天才肌の発明家だったそうです。その血を受け継いだ彼もまた天才といえる人間だったようで、高校も首席で卒業しています。
 天才的な父親をもつカリフォルニア出身の音楽家といえば、歴史学者、気象学者、数学教師、なんでもござれの父親に育てられたロック界の巨人フランク・ザッパを思い出させます。そういえば二人の生き方はけっこう似ているかもしれません。ただ二人が違うのは、ケージは大学を途中でやめてパリに渡ったことです。彼はパリで初めは建築家ゴールドフィンガーの元で建築を学んだ後、ピアノや作曲について学ぶようになり、その後一年にわたりヨーロッパを放浪しながら詩や絵を書き、作曲もするようになりました。
 後に成功を遂げたアメリカ人アーティストの多くは、ジャンルを問わず彼のようにヨーロッパを巡りながら美術や音楽、文学、建築を学び、そこから新しい発想のアートを生み出して行きました。彼もまたその典型でした。彼の放浪の旅は、19世紀ヨーロッパ文化と20世紀アメリカ文化の融合の旅であり、ヨーロッパの伝統を新しい舞台で再構築するための情報収集の旅でもありました。

<アメリカにて>
 アメリカに戻った彼は、庭師をしたり現代美術の講師をしながらリチャード・ブーリグ Richard Buhligから作曲を、ヘンリー・カウエル Henry karahaからは現代音楽、民族音楽を、アドルフ・ワイス Adolph Weissからハーモニーと作曲を学び、その後はクラシック音楽に革命を起こしていた作曲家アルノルト・シェーンベルクから対位法を学びました。この頃、彼はシュルレアリスムの彫刻家として活動していたゼニア・アンドレイエヴナ・カシェヴァロフと結婚。その後、二人は離婚しますが、彼女はミュージシャンとして彼のコンサートに出演するなど、協力関係を持ち続けることになります。彼はその後、世界的なダンサー、マース・カニングハム(男性)とも友人以上の関係をもつことになります。才能にあふれた天才にとっては性の違いよりも、お互いの才能を認め合えるかどうかの方が重要なのかもしれません。

<シェーンベルクの12音技法>
 ケージはシェーンベルクから12音技法を学び、その影響で、それまでの音楽とは異なるリズムを中心とする新しい音楽を作り始めます。それがいかなる音楽なのか?12音技法についてちょっと説明しておく必要がありそうです。
 西洋音楽には、ハ長調やイ短調など調性と呼ばれる音楽における作曲上の枠組みがあります。ある曲をハ長調と指定することは、その曲の音階における主役と脇役を決めることでもあります。そうすることで、自ずとその曲の雰囲気、ムード(悲しい曲とか楽しい曲とか)も決まってくるわけです。
 それに対して、シェーンベルクが打ち出した12音技法とは、そうした調性を取り去ることで、12音階それぞれの音の立場を完全に平等にしてしまうことでした。したがって、その無調の曲においては、主役も脇役もなく、すべての音が平等な分、曲の雰囲気もつかみずらくなります。その曲が、楽しい曲なのか?悲しい曲なのか?その判断は人それぞれの判断に任されることになるわけです。そして、この「音の平等」と「曲のもつイメージの排除」こそが、ジョン・ケージの求める音楽の基礎となったのです。

<モダン・ダンスとの出会い>
 こうして、音それぞれが平等な地位を獲得すると次に重要になってくるのは、音と音の間に存在する沈黙すなわち「リズム」の存在です。そこでケージは、それまでの西洋音楽の枠組みから離れ、リズムを主役とする音楽を作ろうと考えるようになりました。彼は、そうしたリズム重視の音楽を生かせる場として、ダンスの世界に目を向けるようになり、モダン・ダンスへの曲提供を行うようになりました。
 1942年、彼は現代美術の奇才マックス・エルンストの招きでニューヨークに行き、そこで多くのアーティストたちと知り合います。なかでもモダン・ダンス界を代表するダンサー、マース・カニングハムとの出会いは、その後の彼の活動を大きく変えることになります。そしてちょうどこの頃、1946年から1948年にかけて彼が作曲したのが、プリペイド・ピアノのための「ソナタとインターリュード」だったのです。

<プリペアド・ピアノ>
 この不思議なピアノ音楽を生み出す元となったのは、インドの思想家アナンダ・K・クーマラスワミの著書にあった<不変の感情>という概念にあったそうです。一聴するとピアノというよりは、ゆったりと演奏されたインドネシアの民族音楽ガムランを思い起こさせるこの曲は、「環境音楽」の先駆けだったといえるかもしれません。<不変の感情>に基づき感情を安定させ、心を落ち着かせることから始まるという意味では、まさに東洋的で精神的な音楽とも言えるでしょう。
 ではこのプリペイド・ピアノの構造は具体的にどうなっているのかというと。グランド・ピアノにある88の音の内、49に対して53の金(ボルト、ナット、ねじ)と16のゴム、4個のプラスチック片がセットされ、独特の音を出すように調整されています。当然、その調整は非常に微妙な技術を必要としており、僕が持っている高橋悠治演奏のアルバムの場合、ピアニストである高橋氏自らが数時間かけて調整を行ったということでした。演奏することよりも、調整することの方が大変なのかもしれません。
 実はこのプリペアド・ピアノの誕生は、偶然によるものでした。1935年にケージは黒人音楽家シヴィラ・フォートのために打楽器の曲を作りました。ところが、会場のステージが予想外に狭く、打楽器を置くスペースがないことがわかり、急遽考え出された方法が後のプリペアド・ピアノの原型となりました。ケージは、会場にあったピアノの弦に雑誌や灰皿など、ありあわせの物を置くことでピアノから打楽器の音を出させることにしたのです。
 その後、この方法を素材や大きさ、形などを変えることで、より細かく調整できるようにし、音質も選べるようにしたのが、完成形のプリペアド・ピアノですが、そこから出る音はピアノの音のように正確なものではなく、毎回異なる音にならざるをえません。しかし、こうして「偶然」によって音が変わることを逆に利用して、ケージは次なるパフォーマンス「チャンス・オペレーション」を展開することになります。具体的には、貨幣を投げるなどして偶然性を利用した作曲を行い、それと詩の朗読、スライド、舞踏、講演会などを組み合わせた総合的な偶然性によるパフォーマンスを展開しました。

<4分33秒の衝撃>
 1952年、ケージは彼の名を永遠に歴史に刻むことになる作品「4分33秒(第一番)」を発表します。4分33秒間、ピアノの前にすわり、無音の状態を作り、その間観客は心の中の音や会場の外からの音などを聞きながら、それぞれの音楽をイメージする。この作品によって彼の名は世界中に知られることになりましたが、彼のことをインチキ作曲家と呼ぶ者が現れたのも確かです。どんな音楽も、聴く人しだいで「悲しく聞こえたり」「楽しく聞こえたり」する可能性があるのは確かです。ならば、その考え方を拡張すると「4分33秒」のような聞く者に完全に下駄を預けてしまう作品が登場するのも必然かもしれません。そのことに気づかせるだけでも、「音楽」の本質について4分33秒間じっくりと考える機会を与えてくれるだけでも、その曲の価値は十分あるのかもしれせん。
 ちなみにこの「4分33秒(第一番)」には、続編ともいえる「4分33秒(第二番)」があります。こちらの別名は「0分00秒」ともいい、何も弾かないのではなく、何を弾いてもいいし、何を弾かなくてもいいというものだそうです。(確かに自由度が増した発展形といえるかもしれません)

「『4分33秒』の意義のひとつは、この演奏がいかなる意味でも聴衆に沈黙を体験させてはいないという事実である。なるほど制度的な意味で、そこに音楽としてのピアノ音は存在していなかった。だが聴衆はウッドストックの森から聞こえてくる鳥の声や葉擦れの音、聴衆みずから立てる小さな咳払いや呼吸音、さらにいえば血管の中を血液が流れる音までを知らずと聴いていたのであり、ただ芸術という制度的コードに適わないという事実から、そうした音声を濾過器にかけて、認識の領野から排除していたにすぎないのだ。・・・」

「『4分33秒』にあってもうひとつ忘れてはならないことは、それが厳格な儀礼性を伴ってなされた実演であったという事実である。この曲は三つの楽章から構成されている。チュードアはそれに対応して、ピアノの蓋を3度にわたって、けっして音をたてないように開閉した。そしてあらかじめ定められた時間のなかに、曲という媒介を通して始まりと終わりを設定し、分節化を行ったのである。音楽が音楽作品として制度的に文化の内側に受け入れられるためにもっとも重要なことは、それがいかなる内容をもつかではなく、もっぱら時間の分節化に成功することである。
 ケージのユーモアとは、作品の形式と外縁をめぐるこうした認識であった。この発想がデュシャンに負うていることについては、もはやいうまでもないだろう。」

四方田犬彦著「音楽のアマチュア」より

<現代音楽界のグル>
 1954年、彼はヨーロッパ各地で演奏会を行い現代音楽の世界に大きな衝撃を与え、その後は教師として、グルとしての活動も行うようになります。その教え子たちの中には、あのベック(ハンセン)の祖父にあたる現代美術作家アル・ハンセンもいました。偶然性の音楽にこだわった彼は、その後もどんどん新しい曲を作り、そこから作者の意図を消し去るという彼ならではの作業を続けてゆくことになります。
 1960年代後半には、イリノイ大学でコンピューターを用いた自動作曲を行ったり、作品名から作者の意図を消すために数字を用いる(ナンバー・ピース)など、次々に新しいアイデアを実践してゆきました。こうして、次々に新しいアイデアを実現してゆく彼の仕事は、音楽家というよりも発明家のそれに近かったのかもしれません。
 ただし、彼は発明家ではあっても実業家ではありませんでした。そのため、知名度の高さの割りに経済的にはけっして豊かではなく、常にギリギリの生活をしていて、普段の彼と会った人は普通のおじさんにしか見えなかったようです。ただ彼には「ケージ・スマイル」とも呼ばれた素敵な笑顔がありました。音楽の現場では非常に厳しい人だったようですが、現場を離れるとそんな偉大さを感じさせない人物だったようです。
 20世紀の音楽だけでなく芸術全般にまで大きな影響を与えたジョン・ケージは、」生き方もまた偶然性にもとずく気ままなものだったようです。「ケージ・スマイル」は、そんな生き方が生み出した最高のパフォーマンスだったのかもしれません。音楽なんて、なくったっていいのです。もちろん、「4分33秒」という枠組みもいりません。ただあなたにとって素敵な時が流れてさえいれば、その周りの音はみな最高の音楽となっているのです。

「ケージの音楽は常にわたしを驚かせる。いや、驚かせるばかりか、わたしに自分の思考の狭さを認識させ、それと不幸な枠組みから解き放って、より自由な拡がりのなかへと導き出してくれる。その意味が、わたしのなかでケージの位置は、ベリオやブーレーズといった同時代の作曲家とはまったく違っている。ここに名を挙げた者たちは、明らかに文化(それも高位の)の側に帰属している。だがケージだけはひょっとしたら文化と非文化の境界に立って、ヘラクレイトスのように神殿で子供と石蹴り遊びに興じているかもしれないのである。・・・」
四方田犬彦著「音楽のアマチュア」より

<カリスマのお言葉>
「好まないものに出会ったら、それを排除するのではなく、好むように自己を仕向けていく契機と見るべきなのだ」

「世界のすべてのものには、それ自身の精神が宿っている。ものを振動させることで、この精神は耳にきこえるものとなる」

「作曲は一つのこと、演奏はもう一つ別のこと、聴くことは第三のこと、この三つの行為に価値の差は存在しない」

ジョン・ケージ

1992年8月12日 ジョン・ケージはこの世を去りました。

<1948年の出来事>
世界保健機構(WHO)成立
世界人権宣言
極東国際軍事裁判終了(東条英機らの戦犯に死刑求刑)
ボゴタ憲章(米州機構成立)
ヨーロッパ経済協力機構(OEEC)結成(マーシャル・プランの受け入れ)
ソ連によるベルリン封鎖
チェコで二月革命(共産党により無血革命でマサリク首相自殺)
イスラエル共和国成立(中東紛争の始まり)
性についての衝撃的調査、キンゼー報告発表される
中国共産党軍が北京入場
大韓民国(李承晩大統領)朝鮮民主主義人民共和国(金日成首相)
ビルマ独立
帝銀事件(日)
全学連結成される
ベビー・ブームがピークに達した年(日)

<音楽>
アトランティック、ジュビリー、ジー、ルーレットなど個性的なレーベルが次々とNYで活動開始
ラジオの黒人向けチャンネルWDIA誕生
「シャイン」フランキー・レイン
「マニャーナ」ジョー・スタッフォード
「It's Too Soon To Know」オリオールズ
「ジャングル・ブギ」笠置シヅ子
「東京ブギウギ」笠置シヅ子
「湯の町エレジー」近江俊郎
「憧れのハワイ航路」岡晴夫
「異国の丘」竹山逸郎、中村耕三
美空ひばりが横浜国際劇場にてデビューを飾る


<文学、思想>
「遠い部屋、遠い声 Other Voice,Other Rooms」トルーマン・カポーティ
「花のノートルダム」ジャン・ジュネ Jean Genet
「俘虜記」大岡昇平
T.S.エリオットがノーベル文学賞受賞


<美術>
「第一番A」ジャクソン・ポロック


<時代を変えた発明、モノ>
フィリップス社が回転式シェーバー発売
ジョージ・ド・マストラルがベルクロ(マジック・テープ)を開発(スイス)
アディ・ダスラーがアディダス社を設立
本田技研工業設立

<1948年という年>
「『人類は、ある年一斉に戦争を始めた』ということだけは歴史に残るが、『人類はある年一斉に子供を作った』とは、あまり歴史に残らない。そういう事実を直視しようとしなかったからこそ、それ以前の人間たちは戦争なんかを始めたのかもしれない」

「二十世紀」橋本治著
そして、この年、あの有名なキンゼー報告が発表されました。

<1948年の物故者>
アナントン・アルトー(フランスの劇作家、詩人、俳優)
サニー・ボーイ・ウィリアムソン(ブルース歌手)
セルゲイ・エイゼンシュタイン(ロシアの映画監督)
チャノ・ポソ(キューバ出身のラテン・パーカッショニスト)
D・W・グリフィス(アメリカの映画監督)
ベーブ・ルース(野球選手)
マハトマ・ガンジー(暗殺)
ムハンマド・アリー・ジンナー(パキスタン建国の父)
ルース・ベネディクト(アメリカの文化人類学者)
菊地寛(劇作家、作家、文芸春秋創業者)
太宰治(入水自殺)
美濃部達吉(法学者)

<映画>
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