1949年

- 服部良一、古賀政男、吉田正 -

<焼け跡からの復興>
 1945年に終わった第二次世界大戦で日本は壊滅的な打撃を受けました。それから4年の時が過ぎ、まだまだ国民の多くは食べてゆくだけでせい一杯でしたが、かろうじて未来に明かりが見えてきたのがこの頃でした。人々がやっと生活必需品を正規ルートで買うことができるようになったのも、この頃でした。(電球や歯磨きなど生活必需品111品目の販売が自由化されたのがこの年です)
 生活にわずかながらも余裕ができてくると人々の心にも余裕が生まれ、胃袋ではなく心を満たすための娯楽が求められるようになり始めます。こうして、この年人々の心の乾きを癒す歌謡曲の歴史に残る名曲が次々と誕生、それらの曲をつくった作曲家たちは、この後日本歌謡界の中心として活躍することになります。
 ただし、この時、日本の音楽界にはもうひとつ別の世界が存在していました。それはフェンスによって囲まれた米軍基地の中にありました。そこで演奏されていたアメリカ直輸入のサウンド、ジャズは、1950年代に入ると米軍基地を飛び出し日本全国に広がり始めます。そして、そのブームが終わった後も、日本人ジャズ・ミュージシャンたちの多くが歌謡界で活躍を続けることになります。
 フェンスの向こうとこちら側、二つの音楽界はこの年はまだ別々の道を歩んでいました。在日アメリカ軍の撤退によりフェンスがなくなる50年代、二つの音楽はいっきに一つの流れとなり、日本の歌謡曲の形を決定ずけることになります。そして、それがその後ロックやレゲエ、ソウル、ヒップ・ホップなどを取り込みながら、J−ポップという世界的にみても実にバラエティーに富んだ日本のポピュラー音楽の基礎となるのです。

服部良一
 1948年の大ヒット曲「東京ブギウギ」(歌は笠置シヅ子)の作者である服部良一は、「ポップスの父」とも呼ばれる戦後日本を代表する作曲家です。「東京ブギウギ」に代表されるブギ・ナンバーを次々とヒットさせた彼は、戦前から8ビートの「ジャズ」や「ブギ」それと「ブルース」を書いていましたが、戦時中も「R・ハッター」というペン・ネームで敵性音楽である洋楽系の曲を書き続けていたことでも有名です。その意味で、彼は戦後の歌謡界がアメリカの影響を強く受け始めた時、すでにその先頭に立つ用意ができていたといえます。だからこそ、日本の歌謡界にジャズなどのアメリカン・ポップスの要素を取り込む先駆けとして活躍してゆくことになったのでしょう。
 この年、彼は戦後の歌謡界を代表する名曲「青い山脈」「銀座カンカン娘」などを次々と発表。いよいよ日本の歌謡界を代表する存在になります。

<古賀政男>
 1948年の大ヒット曲「湯の町エレジー」の作者、古賀政男は戦前からすでに大活躍していた作曲家でした。「丘を越えて」「影を慕いて」「二人は若い」「東京ラプソディ」などのヒット曲を生み出した彼は、戦時中軍部に利用されることを良しとせず、ほとんど活動をしていませんでした。
 かたや後に「古賀メロディー」と呼ばれ日本の演歌の基礎となる曲をつくり続けた古賀政男と「ポップスの父」と呼ばれたハイカラ音楽の作者、服部良一。まったく正反対の二人は戦時中軍に対して批判的だったという点では、共通するものをもっていました。

<吉田正>
 もう一人、戦時中は兵士として大陸に渡り、その後シベリアで抑留生活を余儀なくされていた作曲家、吉田正がいます。彼はその抑留生活の中でも作曲活動を続け、大陸の雄大で懐かしいイメージに満ちた名曲「異国の丘」を作り、それを日本に持ち帰りました。1948年、その「異国の丘」が大ヒットし、大陸から生きて帰ることができた人々だけでなく多くの日本人の心をとらえました。 彼はこの後、ジャズ・シンガーだったフランク永井に「有楽町で逢いましょう」などの都会派歌謡曲」を提供し、演歌とは異なる新しい歌謡曲のスタイルを生み出すことになります。その他にも彼は、和田弘とマヒナスターズをハワイアン・バンドから歌謡曲のバンドへと転進させ、女性ジャズ・ヴォーカリストだった松尾和子をも歌謡界デビューさせています。そして、歌謡界最初の御三家といわれる男性歌手、橋幸夫をスターに育て上げたことで日本の歌謡界にアイドル歌手ブームを定着させた重要人物となります。

<フェンスの向こう側>
 日本に本格的なジャズ・ブームが訪れたのは、1952年にアメリカからジーン・クルーパー・トリオが来日し、コンサートを行ってからといわれています。しかし、この年、日本では数多くの日本人ジャズ・ミュージシャンたちがすでに活躍し始めていました。ただし、その活躍の場は一般の日本人が見ることのできないごく限られた場所でした。
 ひとつは「フェンスの向こう側」と呼ばれる米軍基地内のクラブ、そして米軍基地外では米軍関係者や在日アメリカ人らの為に営業していた大きなクラブなどのステージがその場所でした。そこでは主にスウィング・ジャズが中心に演奏されていましたが、母国アメリカからバンドを呼び寄せることが困難だったこともあり、日本人でジャズを演奏できるミュージシャンたちが集められ即席のバンドを作って演奏を行っていました。戦時中、アメリカの音楽はいっさい入ってきていませんでしたし、ジャズの演奏をするバンドなど許されるわけはなかったので、ジャズを演奏できるミュージシャンは貴重な存在でした。そのため場合によっては、バンドの人数合わせのために演奏がまったくできなくても楽器を手に舞台に立たされる場合もあったそうです。そんなんで通用したのか?と思われそうですが、高級なクラブを別にすると一般の兵士たちは貧しい地域出身ばかりなので生でジャズを聴いたことなどなかったようなのです。彼らは多少下手くそでも東洋の地で聴く故郷の音楽ジャズに十分満足していたのでしょう。しかし、どの店もそうだったわけではありません。軍のお偉いさんが来る高級な店ともなれば、当然観客の耳も肥えているので、より多くの収入を得ようとするなら、バンドの技術を磨いて高級店で働けるようになる必要がありました。だからこそ、彼らは日本にいながらにしてジャズ・バンドとしてのテクニックをいち早く身につけることができ、その後の日本の音楽シーンをリードする存在となるのです。

フェンスの向こうで育ったアーティストたち>
[原信夫]
 サックス奏者として米軍キャンプを回り、その後、ジャズ・バンドのシャープス&フラッツのリーダーとなり、歌謡界の裏方としても活躍しました。
[渡辺晋]
 ベース奏者として活動後、バンド・マスターとなり契約交渉などを担当。ミュージシャンよりも裏方の方が向いていると考え、そのノウハウを生かして渡辺プロダクション(ナベプロ)を設立。ミュージシャンのマネージメントを引き受け、戦後日本のショービジネスにおける最強の芸能プロダクションに育て上げました。
[秋吉敏子]
 ダンスホールでピアノ弾きのアルバイトをしたことがきっかけでジャズ・ピアニストとなり、その後1956年名門のバークリー音楽院に留学。日本人として最も有名なジャズ・ミュージシャンとして世界的存在となりました。
[堀威夫]
 大学在学中、カントリー&ウエスタン・バンドでギターを演奏し、クラブに出演。その後堀プロダクションを設立し、数多くのアイドル歌手を育てることになります。
[その他]
 その他、米軍キャンプやクラブで活動し、その後歌謡界に転進した中には、歌手では雪村いずみ、江利チエミ、ペギー葉山などがいました。さらにその他のミュージシャンの中にも、ジョージ川口、渡辺貞夫、宮間利之、小坂和也、さらには後に坂本九の歴史的名曲「上を向いて歩こう」など、多くのヒット曲を書くことになる中村八大もまた、人気ジャズ・グループのシックス・ジョーズでピアニストとして活躍していました。

<ショービジネスの新しいシステム>
 実は、こうした人々の功績は、単にアメリカの音楽を日本に定着させたことだけではありません。彼らは同時にアメリカのショービジネス界が築いてきた経営システムを日本に持ち込む役割をも果たし、これが日本の音楽界を大きく変えて行くことになるのです。
 アメリカ兵を相手にしたクラブでの演奏を任されるためには、アメリカ式のショーを演出するだけではなく、そのためのマネージメントやバンドを集めたり、維持するためのシステムなど、多くのことを身につける必要がありました。そして、これらのノウハウをマスターした日本人が、その後アメリカ軍の撤退後、日本の歌謡界を動かす位置についてゆくのです。
 渡辺プロの創立者、渡辺晋はまさにその代表的な人物です。彼はバンドマンからバンド・マスターへ、そしてプロダクションの経営者へと転進。その後は、テレビ時代の到来に合わせて、音楽バラエティー番組「シャボン玉ホリデー」を立ち上げ、一躍日本の芸能界を代表する大物企業家へと出世してゆくことになりました。彼のもつ優れたショービジネスのノウハウもまたアメリカ直伝のものでした。
 こうして、優れた作曲家と優れた音楽ビジネスマン、そして優れたアーティストたちが戦後の混乱の中から現れて活躍を始めたのが、まさにこの頃だったのです。そして、もうひとりこの年、日本の歌謡界を代表することになる歌手、美空ひばりが「河童ブギウギ」でデビューを飾っています。いよいよ役者はそろったのです。

<1949年の出来事>
北大西洋条約機構(NATO)成立
東欧六カ国経済相互援助委員会(COMECON)成立
ドイツ連邦共和国、ドイツ民主共和国成立
毛沢東が主席となり中華人民共和国成立
ソ連、米軍が朝鮮半島から撤退
ソ連が核兵器保有を宣言
ビルマ、ラオス、カンボジアなど東南アジア諸国が独立
「東欧の社会主義は支配国ソ連による強制だったが、アジアの社会主義は違う。みのかかわらず、冷戦の時代にはこの二つがごっちゃにされていた」
「ロシアには一人の独裁者がいた。その後進性を新興国のアメリカは理解できずに見誤った。冷戦の時代とは、その結果でしかないのだ」

「二十世紀」橋本治
ポール・ロブソンがピークスキー事件に巻き込まれる

下山事件。三鷹事件、松川事件
1ドル=360円の単一為替レート実施
湯川秀樹がノーベル物理学賞受賞

<音楽>
「クールの誕生」マイルス・デイヴィス
「クール&クワイエット」レニー・トリスターノ、バディ・ディフランコ
「ジャズ・ジャイアント」バド・パウエル
「ジャンゴロジー」ジャンゴ・ラインハルト
「トラブル・ブルース」チャールズ・ブラウン
「マルディグラ・イン・ニューオーリンズ」プロフェッサー・ロング・ヘア
「ブラック・コーヒー」サラ・ヴォーン
「ラブ・シック・ブルース」ハンク・ウィリアムス(カントリー)
「森の歌」ドミートリイ・ショスタコーヴィッチ
ビル・ボードの黒人音楽チャートの名前が「リズム&ブルース」となる(それまでは「レイス・レコード」と呼ばれていた)


「悲しき口笛」美空ひばり
「買物ブギ」笠置シヅ子
「三味線ブギウギ」市丸
「青い山脈」藤山一郎、奈良光枝
「銀座カンカン娘」高峰秀子
「長崎の鐘」藤山一郎
東京キューバン・ボーイズ結成

<文学、思想、演劇>
「1984年」ジョージ・オーウェル George Orwell
ウィリアム・フォークナーがノーベル文学賞受賞
「菊と刀」ルース・ベネディクト
「仮面の告白」三島由紀夫
「闘牛」井上靖
「宮本武蔵」吉川栄治
「細雪」谷崎潤一郎
「きけわだつみのこえ」刊行
木下順次作「夕鶴」初演


<1949年の物故者>
ヴィクター・フレミング(映画監督)
マーガレット・ミッチェル(小説家)
モーリス・メーテルリンク(詩人、作家)
リヒャルト・シュトラウス(作曲家)
レッドベリー(ブルースマン)

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