- ブルース、フォークと出会う -

レッドベリー Leadbelly
ブラインド・レモン・ジェファーソン Blind Lemmon Jefferson

<ルーツ・ミュージックを求める旅>
 1920年代から1930年代にかけて、アメリカン・フォーク・ミュージックの研究家として有名なジョン・ロウマックスは、息子であり助手でもあるアランとともにアメリカ各地に残る貴重なフォーク・ミュージックを求めて、南部を中心に旅を続けていました。
 彼らは大きなテープ・レコーダーをかついで、各地のジューク・ジョイントやクラブのようなライブを聞くことの出来る店を訪ね歩いていました。しかし、彼らの訪ねる場所は、それだけではなく音楽が聴ける場所ならどんな所にも出かけて行きました。例えば、聖歌隊の歌が聴ける教会は当然として、家々の軒先や人々が働きながら歌っている畑でも、貴重な音楽と出会う可能性が十分にありました。こうした、彼らの活動はハーバード大学からの援助により国会図書館に収めるためという目的で行われていましたが、この過程で数多くの貴重な音楽が録音保存され、忘れられようとしていた重要なアーティストが発見?されることになりました。

<歌う殺人犯>
 そんなロウマックス親子が1933年のある日、ルイジアナ州にある悪名高いアンゴラ刑務所を訪ねました。かつては、ブルースマンやソウル・アーティストたちが刑務所に入いることはそう珍しいことではなかっただけに、刑務所という場所はある意味掘り出し物に出会う可能性が高い場所だったようです。そしてその日、彼らは驚くべき歌い手に出会うことになったのでした。
 その刑務所に収監されていた殺人犯、通称レッドベリーことハディ・レッドベター Haddie Ledbetter という男の歌をきいて、二人はびっくり仰天します。それは彼がもの凄い数の歌を記憶しており、それを見事に歌ってみせたことがひとつ。さらに彼が歌ったのはブルースだけではなく、歴史上の出来事を伝承したバラッド、奴隷たちや囚人たちが歌っていた労働歌、ギター一本で神の言葉を伝えていた伝道師たちの宗教歌、そして各時代毎の流行歌やダンスナンバーなど、あらゆる種類の歌だったことが彼らを大いに驚かせたのでした。
 それだけではありません。彼は伝説的なブルースマンの一人、ブラインド・レモン・ジェファーソンとかつて行動を共にし、彼から多くのことを学んだというのです。彼はまさに「歩くアメリカ民族音楽記念館」でした。

<レッドベリーの生い立ち>
 レッドベリーが生まれたのは、1889年テキサス州シュリーブポートの街から30マイルほどの所にあるカッドー湖の近くでした。デルタ・ブルースの伝説的存在チャーリー・パットンが1885年生まれと言われていますので、そう世代的に違わないことになります。多くの黒人の子供たちと同様、彼も十代半ばの頃にはギターを弾き始めますが、彼の場合一度か二度聞いただけでどんな歌もマスターしてしまう能力を持っていたそうです。
 そして、16歳になった頃にはシュリーブポートの街にある売春宿にピストルとギターを持って出入りするようになっていたといいます。それらの店の中では、当時大人気だったファンキーなピアニストたちがバレルハウス・ピアノの腕を披露しており、レッドベター少年は彼らの左手が生み出す魔法のような「ウォーキング・ベース」に魅了されてしまいます。こうして、彼は自分のギター・プレイにも同じ様なリズムを持ち込むようになり、それが彼のトレード・マークになります。
 18歳の頃、彼は家を出てギター一本で生活する放浪のミュージシャンとしての活動を始めます。そして、その旅の途中、彼はダラスの街で一人の盲目のブルースマンと出会いました。その人物こそ、後に伝説のブルースマンと呼ばれることになるブラインド・レモン・ジャファーソンだした。この後、二人は数年間に渡って行動を共にし、その間レッドベターは多くのことを盲目の師匠から学ぶことになりました。

<ブラインド・レモン・ジェファーソン>
 ブラインド・レモン・ジェファーソンは、1893年9月24日にダラス近郊の村カウチマンで生まれました。(但し異説もあります)小作農だった両親のもとに生まれた彼は、生まれつき視力がなかったと言われています。実際は、少しだけ視力があったという説もありますが、視力がほとんどなかったからこそ、彼の音楽的感性はより研ぎ澄まされたものになったと考えるべきでしょう。
 彼の母親はバプテスト派の熱心なクリスチャンで素晴らしい歌声を持っていたそうですが、体格的にも100sを軽く越える巨体を受け継いでいました。そのため、彼は目が不自由にも関わらず、一時期その体格を活かしてプロレスラーとしてリングに上がっていたこともあるそうです。もちろん、「盲目のレスラー」としてきわもの扱いだったため、歌手の道を選ぶとすぐにやめてしまったようです。
 盲目というハンデを背負いかつ173センチで110sを越えた美しいとは言えない肉体でありながら、彼は誰よりもセクシーな歌を歌うことで有名でした。「ブラック・スネーク・モーン Black Snake moan」などは、その代表的な曲で黒いヘビのうごめく姿を歌いながら、見事にセックスをイメージ化しており、後のブルース、ロックなどの歌詞に大きな影響を与えることになります。
 その後、彼はどんどん人気者となり、ついには運転手を雇って車で移動できるまでに出世します。ところが、1929年か1930年の冬にシカゴで吹雪に巻き込まれ凍死するという悲劇的な最後を迎えています。

<犯罪者の道へ>
 ブラインド・レモン・ジェファーソンと別れ、再び一人で活動するようになった頃から、彼はしだいに警察のお世話になり始めます。初めは喧嘩程度の罪でしたが、しだいにエスカレートしてゆき、ついには婦女暴行で服役。その上、服役していた刑務所から脱走し、偽名を使って歌っていた時にミュージシャン仲間の喧嘩に巻き込まれて相手を銃で撃ち殺してしまいました。こうして、1917年12月彼には33年という刑期が与えられることになりました。それでも、彼は刑務所内では真面目に務め、自ら特赦を求める歌をつくったことで州知事の心をとらえ1925年に釈放されることができました。
 ところが、その5年後彼は再び殺人未遂の罪で逮捕されてしまいます。度重なる罪を犯したことで彼はついに重罪人が入れられることで有名なルイジアナ州のアンゴラ刑務所に収監されました。もう彼に出所できる可能性はありませんでした。そんな時、現れたのがアメリカ南部を旅していたローマックス親子だったのです。

<ロウマックス親子との出会い>
 レッドベリーの歌、そして彼の語るブルースの歴史に感動させられたローマックス親子は、刑務所に彼の特赦を働きかけ、さらに彼に再び特赦を願う曲をルイジアナ州の知事O.K.アレンあてに作らせました。するとその曲が効いたのか、1934年彼は再び特赦を得ることができました。
 その後、彼に再び犯罪を犯させないためもあり、ローマックス親子は彼を運転手として雇い、一緒にニューヨークの街に住むことにしました。こうして、レッドベリーというアーティストがニューヨークという音楽ビジネスの先進地でデビューを飾ることになったわけです。

<フォーク界のヒーロー誕生>
 彼が歌うことになった店は、それまで彼が歌ったことのあるどの店とも違っていました。その店の観客たちは、銃やナイフを隠し持った連中でも、売春婦やそのヒモたちでもなかったのです。彼が歌うことになった店は、ブルースを聞かせる店というよりは、フォーク・ソングを聞かせる店、当時一大ブームとなっていたフォーク・クラブだったのです。
 そこには白人の進歩的な青年たちが集まってきており、彼らは自分たちの愛するフォーク・ミュージックのルーツでもあるブルースの「本物」を歌うアーティストの登場に拍手喝采しました。こうして、彼はニューヨーク・フォーク界の中心人物となり、彼の周りには数多くのミュージシャンが集まるようになります。その中には、ウディ・ガスリー、ピート・シーガー、ジョシュ・ホワイト、ブラウニー・マギー&サニー・テリーらがおり、1950年代に入り彼らが中心となってフォークの一大ブームが起きることになります。彼らはその活躍の中でレッドベリーが教えてくれた曲を演奏し、その名を世界に広めることになりました。

<レッドベリーの伝えたもの>
 レッドベリーが伝えた曲の数々は、その後も歌い続けられることになります。特に有名なのはウィーバースが歌って全米ナンバー1ヒットとなった「グッドナイト・アイリーン Goodnight Irene」。(この曲は、後にライ・クーダーなど多くのアーティストたちが歌っています)
 イギリスでは、1956年にロニー・ドネガンが「ロック・アイランド・ライン Rock Islnd Line」という曲を大ヒットさせ、それがスキッフル・ブームを生み出しています。ビートルズをはじめとするブリティッシュ・ビート・バンドのほとんどは、このスキッフル・ブームの影響によって生まれることになります。
 その他、CCRなど多くのアーティストがカバーした名曲「C・C・ライダー C.C.Rider」や「ミッドナイト・スペシャル Midnigt Special」。それに最近では1993年にニルヴァーナがカバーした「Where Did You Sleep Last Night」などがあります。

<幸福な最後>
 1949年、レッドベリーは筋萎縮症側索硬化症でこの世を去ります。その翌年1950年に彼の曲「グッドナイト・アイリーン」が、彼の弟子の一人だったピート・シーガー率いるウィーバースによって全米ナンバー1に輝きますが、そのことを彼は知ることはできなかったわけです。それどころか、その後1950年代代にかけて、彼の弟子だったアーティストたちによるフォーク・ブームが巻き起こり、さらに1960年代には、その弟子たちの弟子たち(ボブ・ディランなど)が活躍することで世界中が、フォーク・リヴァイバルのブームに巻き込まれることになりました。当然、そのことも彼は知らぬままこの世を去ったわけですが、多くの信望者たちに囲まれたその死はけっして孤独でも、不幸でもなかったのではないかと思います。

「ブルースとは、心の状態であるとともに、その状態に声で表現を与える音楽なのである。ブルースは捨てられたもののすすり泣きであり、自立の叫びであり、張り切りやの情熱であり、欲求不満に悩むものの怒りであり、運命論者の哄笑である」
「ブルースの歴史」ポール・オリヴァー著より



" Fat Man " Fats Domino
" Goodnight Irene " The Weavers(Pete Seeger) (レッドベリーのカバー)
"I Almost Lost My Mind" アイヴォリー・ジョー・ハンター
"Please Send Me Someone To Love" パーシー・メイフィールド
"Teardrops From My Eyes" ルース・ブラウン
" Tennessee Waltz " Patti Page
「ピンク・シャンペン」 ジョー・リギンズ(ジャンプ・ブルースのヒット曲)

" Bird and Diz " Charlie Parker,Dizzy Gillespie
" クールの誕生 Birth of the Cool " Miles Davis
" The Genius of Bud Powell " Bud Powell
"Night and Day" チャーリー・パーカー


「東京キッド」 美空ひばり
「桑港のチャイナタウン」渡辺はま子
「ボタンとリボン」池真理子

<音楽関連>
後にサン・スタジオと名前を変えるメンフィス・レコーディング・サーヴィスがオープン
アフリカン・ポップスの先駆け、E.T.メンサー、テンポスを率いて活動開始


<海外>
朝鮮戦争勃発
ネール首相ももとインド共和国成立
インドネシアが単一国家として成立(スカルノ大統領)
 (100以上の言語をもつ複雑な民族国家の独立と統一に成功)
台湾(中華民国)で蒋介石が総統に就任
小説「ライ麦畑でつかまえて」(J・D・サリンジャー著)出版
<日本>
警察予備隊発足(後の自衛隊)
共産党幹部の追放、レッドパージの嵐が吹き荒れる
京都にて金閣寺消失事件発生

<芸術、文化、商品関連>
「黄金の腕」ネルソン・オルグレン著(全米図書賞)


<1950年という年>
 6月25日朝鮮戦争勃発。ソ連軍ぬきの北の軍隊に対し、アメリカ軍を中心とする国連軍は圧倒的に強力で、10月には「朝鮮半島の統一」に向けて中国国境にせまります。
 しかし、ここで中華人民共和国が国連軍に向けて、戦闘を開始。事態はいっきに混沌とします。
「世界の共産党は、すべてソ連の支配下に入っている。すなわち、すべての共産主義者は、『ソ連=スターリンの手先』であり、またスターリンにとっても、そうであらなければならなかった。ところがしかし、1949年になると、それが微妙に揺らいで来る。毛沢東の中国ー中華人民共和国の出現である」
「スターリンなら、『自分の支配地域を侵略した!』で怒るだろう。しかし人民中国の戦いは、『我等の存在基盤である社会主義を襲う者は倒せ!』なのである。朝鮮戦争の”困難”は、ここに生まれる。『思想を操って権力をほしいままにする一人の人物』なら倒せるだろう。しかし、『国を成り立たせる思想』は倒せない。・・・」

橋本治著「二十世紀」より
<作者からのコメント>
 朝鮮戦争の後、アメリカはベトナム戦争を始め、その後も湾岸戦争、そしてイラク戦争と同じ過ちを繰り返し続けます。
 「歴史に学ぶ」という言葉がアメリカには存在しないのかもしれません。いやもしかするとアメリカにおいては「歴史は自らつくるものでしかないのかもしれません。



戦争で中断されていた大会が復活(1988年以来)
ワールドカップを初開催した第3代FIFA会長ジュール・リメを記念し、ジュール・リメ杯世界サッカー選手権が正式名となる。
トーナメント方式だった大会を、一次リーグと決勝リーグによるリーグ戦方式に改めた。
戦後の混乱もあり、アジア、南米では予選が開催されず。
インドは裸足でのプレーが禁止されたため、出場を辞退
本大会参加チームは13チーム
ベスト4は、ブラジル、スウェーデン、スペイン、ウルグアイ
地元ブラジルが決勝でウルグアイに敗れる(2-1)
20万人以上入っていたマラカナンスタジアムでは、4人がショックによる心臓麻痺で死亡
ウルグアイの首都モンテビデオでも3人がショック死


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