- 民族音楽の宝庫を生んだこだわりの男たち -

ハリー・スミス Harry Smith

<民族音楽の歴史的名盤>
 この年、ひとりの若者が後の音楽史に大きな影響を与えることになる民族音楽の歴史的名盤を生み出そうとその準備に熱中していました。(発売になったのは翌年)LP6枚組で84曲を収めた「アンソロジー・オブ・アメリカン・フォーク・ミュージック Anthology of American Folk Music」というその作品集を編集したのは、当時まだ29歳のハリー・スミス Harry Smithという若い民族音楽研究家でした。
 発売元は、フォーク・ウェイズ。後にこのレーベルからデビューすることになるフォーク・リヴァイヴァルの代表的バンド、ニュー・ロスト・シティー・ランブラーズ New Lost City Ramblersのメンバー、ジョン・コーエンも、このアルバムの編集に協力したと言われています。
 このアルバムは、その後50年代から60年代にかけて起きたフォーク・リヴァイヴァル、ブルー・グラス・リヴァイヴァル、ブルース・リヴァイヴァルの教科書として多くのミュージシャンたちに影響を与え続けることになります。

<多様な民族音楽の宝庫>
 その作品集に収められているのは、ハリー・スミスが個人的に収集していた78回転のレコードをバラッド(ゴシップ・ネタや殺人事件、戦争の話し、お祭りや結婚、葬儀の情報などから、ロビン・フッドや魔女、妖精、それに伝説的英雄の話しなどを歌ったもの)、ソーシャル・ミュージック(集会所や教会で踊るためのものや礼拝で歌われるゴスペル・ソングなど)、ソング(恋愛の歌など)の三つに分類し選び出した名曲の数々です。そして、そこで歌われている内容は、「恋」や「愛」だけではなく、「列車事故」や「鉱山事故」「タイタニック号の沈没事故」などの事件や社会状況の変化、それにイギリスから伝えられた伝説など様々です。もちろん、それらの曲を歌うアーテイストも白人のバラッド・シンガーから黒人の現役ブルースマン、正体不明のアーティストまで様々です。
 そんな雑多な内容にも関わらず、編集者ハリー・スミスの偏執狂的なこだわりのおかげで、この作品集は量だけでなく質の面でも優れたものとして21世紀になった現在も傑作として扱われています。

<ボブ・ディラン>
 特にこのアルバムを高く評価し、そこから大きな影響を受けたと言われるボブ・ディランは、このアルバムから得たインスピレーションをもとにアルバム「グッド・アズ・アイ・ビーン・トゥ・ユー」(1992年)「奇妙な世界」(1993年)を作っています。
 実は、このアルバムとボブ・ディランについては、他にも逸話が残っています。それはボブ・ディランがまだ貧しい大学生だった頃のことです。(1959年頃のこと)彼の友人にフォーク・ミュージックのファン雑誌を作ったりしていたジョン・パンケイクという人物がいました。彼はフォーク・ミュージックのレコード・コレクターでもあり、ウディ・ガスリーの弟子として有名だったランブリン・ジャック・エリオットのアルバムなどとともに当時すでに貴重盤として有名だった「アンソロジー・オブ・アメリカン・フォーク・ミュージック」も所有していました。
 ところがパンケイクがしばらくの間、部屋を留守にすることがあり、その後部屋に戻ると20枚もレコードが無くなっていることに気がつきました。すぐに部屋によく来ていたボブ・ディランが犯人だと気づいたパンケイクは、ディランを呼び出し彼を殴りつけ白状させました。(映画「ノーディレクション・ホーム」によるとパンケイクはディランのところに押しかけただけで、殴ったりしたのは別の人物だったようです)パンケイクは後に「ボブは音楽に飢えていたので、黙って借りていっただけで悪気はなかったのかもしれない」と言ったそうですが、・・・。そして、その時持ち出されたアルバムの中にやはり「アンソロジー・オブ・・・・」があったようなのです。
 ボブ・ディランは、その盗難事件の後30年もの歳月をかけ、遂に「アンソロジー・オブ・・・・」を本当の意味で自分のものにしたのかもしれません。

<ハリー・スミス>
 ではその「アンソロジー・オブ・・・・」の編集者とは、どんな人物だったのでしょう?やはり彼もまたただ者ではなかったようです。
 1923年にオレゴン州ポートランドで生まれたハリーは、背骨が曲がっていたこともあり社会生活になじめない少年時代を過ごしました。内にこもる性格はかなり病的で、自分は多重殺人者だと主張していたこともあったそうです。
 しかし、民族音楽の収集という趣味のおかげで彼は社会とのつながりを保ち続けることができ、自らの調べた歌詞や主題、データなどをもとにして歴史的作品集「アンソロジー・オブ・・・・」を制作することができました。ただし、この時彼はそれぞれの歌の作者や歌い手にいっさい録音の許可を得ていませんでした。それは究極の海賊版だったのです。(まあ、それを律儀にやていたら、それは永遠に完成せず、世に出なかったかもしれないのですが、・・・)
 それにしても、1950年代すでにこれだけの音楽オタクがアメリカにいたとは!・・・やはりオタクぬきに芸術の発展はないのかもしれません。図書館に残すためロウマックス親子によって数多くの曲やアーティストが発掘、保存されることになったのは有名な話ですが、彼らもまた現場録音にこだわるアウトドア派のオタクだったと言えるでしょう。(彼らが見つけた最高の宝が、レッドベリーであり、マディ・ウォーターズでした)
 ロウマックス親子とハリー・スミス、この二組のおかげでアメリカで生まれ育ったフォーク、ブルースなどの民族音楽はレコードという形で世の中にゆっくりと広がって行きました。そして、その愛聴者の中からピート・シーガーらフォーク・リヴァイヴァルの英雄たちやボブ・ディランらフォーク・ロックの英雄たち、そしてその後に続くロックの英雄たちが生まれることになるのです。

「ブラック・ナイト Black Night」 チャールズ・ブラウン
" Chain of Love " Joe Turner
「ジャンバラヤ」 ハンク・ウイリアムズ Hank Williams
" Our Father " Five Blind Boys of Mississippi
" Peace in the Valley / Jesus Gave Me A Water " Soul Stirrers(Sam Cooke)

<アメリカの年間トップ10>
(1)「テネシー・ワルツ」パティ・ペイジ
(2)「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」レス・ポール&メアリー・フォード
(3)「トゥー・ヤング」ナット・キング・コール
(4)「Be My Love」マリオ・ランツァ
(5)「Because of You」トニー・ベネット
(6)「On Top of Old Smokey」ウィーヴァ―ズ&ゴードン・ジェンキンス
(7)「If」ペリー・コモ
(8)「Sin」エディ・ハワード
(9)「Come on a my House」ローズマリー・クルーニー
(10)「モッキンバード・ヒル」パティ・ペイジ
チャールズ・ベックマン「アメリカン・ポップス」より

<ジャズ>
" DIG " Miles Davis & Sonny Rollins


「テネシー・ワルツ」江利チエミ(デビュー曲)
「僕は特急の機関士で」三木鶏郎、丹下キヨ子、森繁久弥
「上海帰りのリル」津村謙
「トンコ節」久保幸江、楠木繁夫



パキスタン首相アリ・カーン暗殺される
サンフランシスコ対日講和会議
<日本>
日米安全保障条約調印
マッカーサー解任される
ユネスコに加入

<芸術、文化、商品関連>
ジャック・ケルアックが「路上」を書き上げる(発表は1957年)
トルーマン・カポーティーが自伝的作品「草の竪琴」を発表


<音楽関連(海外)>
第一回サンレモ音楽祭開催
アラン・フリードがDJとしてデビューし、R&Bをかけて人気を獲得
<音楽関連(国内)>
日本のジャズ・バンドの草分け的存在、シックス・ジョーズ結成(ピアノは中村八大、ベースは渡辺晋、バイブは安藤八郎、ギターは宮川協三、ドラムスは南広、サックスは松本英彦)渡辺晋は後に日本を代表する芸能プロダクション「渡辺プロ」を設立する。
民放のラジオ放送が始まる

<映画>
この年の映画についてはここから!

<1951年という年> 橋本治著「二十世紀」より
 日本はサンフランシスコ講和条約を結ぶことで、国家として主権を回復。そんな日本について占領軍のトップを首になったマッカーサーはこういった。
「我々は45歳だが、日本人は12歳の少年だ」
この言葉に日本人の多くが反発したが、それがけっして誤りではなかったことは、その後の歴史から明らかでしょう。
「・・・日本人にとって、占領は”屈辱”であったはずだが、しかしその”屈辱”は、どこか安全なものだった。それはほとんど、『重大犯罪を犯しながら、まだ幼くて自分のしたことにピンと来ていない未成年が、少年法の適用を受けた』というのに似ている。『罪を認め、占領を受けた。だからもう自分には責任がない』ーその後の日本人達の戦争責任に対する認識の薄さは、おそらくこのことに由来するのだろう。・・・」
<作者からのコメント>
 戦後50年の日本の国づくりは、すべてこの時の責任感の欠如から始まったと言えます。日本人は昔から同朋意識が強いゆえに、お互いに責任を押しつけ合う「馴れ合い」的生き方しかできなくなってしまったのでしょう。
 「誰かがなんとかしてくれるだろう」は、アメリカのように多人種多民族多宗教国家では、自分の命を縮めかねない考え方です。その点では、日本ほど幸福な国はなかったとも言えるのですが、・・・。

年代記編トップへ   1952年へ   トップページヘ