- マンボ、世界に羽ばたく!-

ペレス・プラード Perez Prado

<マンボ・ブレイクの年>
 この回のタイトルにしたマンボの代表曲「マンボNo.5」が録音されたのは、実は1949年のことです。しかし、その曲が録音された場所が、ニューヨークでもなくキューバでもないメキシコの首都メキシコ・シティーだったこともあり、多くの人に知られることがありませんでした。この曲は当初アメリカ国内のラテン・コミュニティーや一部のラテン・ファンの白人たちの間でしか知られていなかったのです。
 1952年という年は、「マンボNo.5」の作者ペレス・プラードが自らアメリカに乗り込むことで、マンボ・ブームに火をつけ、アメリカだけでなく日本やヨーロッパまでもがマンボ・ブームの波に飲み込まれるきっかけとなった記念すべき年です。

<マンボ・キング、首都へ>
 マンボを世界中に広めた「ザ・マンボ・キング」ペレス・プラード Perez Pradoことダマソ・ペレス・プラードは、1916年にキューバの港町マタンサスに生まれました。(1916年ではないという説もあります)父親は新聞記者で、母親は公立学校の先生ということで恵まれた環境に育った彼は、幼い頃からピアノを習い、16歳になった時にはすでにピアニスト兼バンド・リーダーとして活躍していました。
 20代の半ばになると、彼はいよいよ首都ハバナに進出、本格的にミュージシャンとして活躍を始めました。この当時、彼はサイレント映画用のオルガン演奏でお金を稼いでいたことがあるそうです。サイレント映画の画面を見ながらの即興演奏は、彼お得意のファンキーなアドリブ奏法の基礎になったとも言われています。その他、いくつかの店をピアニスト兼アレンジャーとして渡り歩きながら、当時世界的ブームだったスウィング・ジャズの要素を取り入れた新しいラテン音楽を作ろうとして模索していました。

<マンボ誕生の地にて>
 彼は「マンボ」を生んだ店としても有名なカシーノ・デ・ラ・プラージャのハウス・バンド、オルケスタ・カシーノ・デ・ラ・プラージャにも所属しています。そこでピアニスト兼アレンジャーとして活躍しながら、マンボ生みの親の一人アルセニオ・ロドリゲスやミゲリート・バルデスらとも共演しました。ただし、彼はこのバンドをアレンジがジャズっぽすぎるとして首になっています。まだまだ時代は、彼の音楽は受け入れられる段階にはなっていなかったようです。
 そんな彼の音楽をいち早く評価してくれたのは、意外なことにジャズの故郷アメリカのレコード会社でした。彼が作ったマンボ・ナンバーの楽譜を見たアメリカRCAヴィクターのハーマン・ディアスという人物が、彼の才能を認め、わざわざハバナにやって来て、彼に自分のバンドを作るよう奨めてくれたのです。

<メキシコにて>
 ハーマンは、さっそくプラードをRCAヴィクターのスタジオがあるメキシコ・シティーへと向かわせ、そこで録音を行わせました。こうして生まれたのがマンボの伝説的名曲の数々「マンボ・ジャンボ」(「エル・マンボ」のこと)、「マンボNo.5」、「マンボNo.8」などの曲です。
 その後彼は、再び一ミュージシャンとしてルイス・アラゴーン楽団に加わり、彼らの中南米ツアーに参加します。ところが、このツアーの途中で彼のもとに電報が届きました。それはメキシコRCAの大物マリアーノ・リベーラ・コンデからのもので、そこにはこう書かれていました。
「すぐに帰れ。マンボは音楽界に革命を起こしつつある」

<マンボの革命性>
 では、マンボのどこが革命的だったのでしょうか?
 ペレス・プラードは、スタン・ケントンなどスウィング・ジャズのバンドなどから学んだホーン・セクションの使い方をさらに進化させ、それまでなかったまったく新しい方法を考えつきました。それは、ホーン・セクションをリズム楽器として用いるという発想です。ジェームス・ブラウンが極めたこの方法は、今ではそう珍しくありませんが、元々ホーン・セクションはメロディー楽器の集合体です。それをひとまとめにしてリズム楽器にしてしまおうというのは、大変な発想の転換だったはずです。
 さらにそのアイデアを具体的に実現するには、それ以上の困難がありました。ホーン・セクションが呼吸を合わせてリズムを吹くことの困難さ、繰り返しそれを続けるための強靱な肺活量、これらを求めるのは、当初かなり無理な要求でした。(元々そういう訓練をしていないのですから、・・・)ところが、そんな困難を救ってくれたのが、実は彼が住んでいたメキシコのミュージシャンたちの能力だったのです。
 メキシコには元々マリアッチという庶民のためのポピュラー音楽がありますが、それにはトランペットが欠かせません。そのため、メキシコシティーにはトランペッターが多く、その上彼らは世界の首都の中でも標高の高いことで有名なメキシコシティーで育っているため自然に強靱な肺活量を身につけていたのです。彼がそんな優秀なトランペッターの多い街でアルバムを作れたのは、偶然がもたらした大きな好運だったのです。(このことは、以前NHKで放映されたドキュメンタリー番組で初めて知りました)

<マンボ、アメリカ上陸>
 こうして、ペレス・プラードはアメリカに上陸、その後1964年までアメリカを本拠地として活躍して行くことになります。(この間1959年にキューバでは革命が起き、彼は故国にもどることはありませんでした)そして、その間にマンボはアメリカを経由して世界中へと拡がり、世界的なブームを巻き起こすことになりました。
 特に1949年にニューヨークのマンハッタンにオープンしたキャバレー「パレイディアム」は、マンボなどラテン系ダンス・ミュージックの発信源として世界中の注目を集めていました。その店のステージには、彼以外にもキューバのハバナなどラテンの本場からやってきた一流のミュージシャンたちが登場し、そこからティト・ロドリゲス、マチート、ティト・プエンテなど「マンボ・キングス」たちが世に出ることになりました。(さらに、その店にはキム・ノヴァクやマーロン・ブランドらのハリウッドの大スターたちも常連客として訪れており、まさに時代の最先端と言える最新文化の発信地だったと言えそうです)

<世界的大スターへ>
 彼の人気は一時はたいへんなもので、ミュージシャンとしてだけでなく映画俳優としても活躍。(アメリカ、メキシコ、イタリアなどで映画に出演しています)これ以降、マンボなどラテン音楽のファンが一気に増えることになる日本にも何度も来日しています。(彼が亡くなった後も、ペレス・プラード楽団は来日しています)
 ハリウッドに大邸宅を構えた彼は、そこで悠々自適の生活を送ることもできたでしょう。しかし、彼は1964年、まだまだ人気があったにも関わらず、あえてアメリカを去り、活動の原点でもあったメキシコシティーに移住。その後、そこを中心に世界各地を駆けめぐる生活を続けました。
 こうして、1989年9月14日、やはりメキシコシティーの街で彼は息を引き取りました。1952年という年は、そんなマンボ・キングが世界に羽ばたいた記念の年だったわけです。



" アンソロジー・オブ・アメリカン・フォーク・ミュージック Anthology of American Folk Music "
(29歳の青年ハリー・スミスが編纂した歴史的ルーツ・ミュージック・アルバム)
" Dust My Broom "  エルモア・ジェームス Elmore James
「マイ・ソング」 ジョニー・エイス
「4分33秒」 ジョン・ケイジ John Cage
「スリー・オクロック・ブルース」 B・B・キング
「ローディー・ミス・クローディー」 ロイド・プライス

" Modern Jazz Quartet " MJQ(ミルト・ジャクソン)


「赤いランプの終列車」春日八郎(デビュー曲)
「リンゴ追分」美空ひばり
「お祭りマンボ」美空ひばり
「こんな私じゃなかった」神楽坂はん子


イギリスがモンテベロにて原爆実験を行う
エリザベス2世誕生
ヨーロッパ防衛共同体条約EDC調印される
ポーランド人民共和国憲法公布
リビア独立(イタリアより)
エジプト革命により国王が退位、共和国制へ移行
(ガマール・アブドゥル・ナセルが大統領に)
米国が対インドシナ軍事援助を増強(ベトナム戦争への静かな歩みが始まる)
韓国にて新憲法公布
最新型コンピューターUNIVACがアメリカの大統領選挙で大活躍(コンピューター時代始まる)

<芸術、文化、商品関連>
「ケイン号の叛乱」ハーマン・ウォーク著(ピューリツァー賞受賞)
「ゴドーを待ちながら」サミュエル・ベケット著(英)
「まっぷたつの子爵」イタロ・カルヴィーノ著(伊)
やし酒飲み」エイモス・チュツォーラ(著)(ナイジェリア)
「地上より永遠に」ジェームス・ジョーンズ著(全米図書賞)
米国アカデミー賞授賞式の放映権をNBCが獲得。授賞式の演出がショーアップされはじめる。
黒人作家ラルフ・エリソンの「見えない人間」が発表される
作家ウイリアム・バロウズ William S. Burroughsが「ジャンキー」を発表
ビート・ジェネレーションの中心の一人)
「老人と海」アーネスト・ヘミングウェイ(ノーベル文学賞受賞)
手塚治虫の「アトム」が月間「少年」で連載開始
テトラパックの生産開始(スウェーデン)


<音楽関連(海外)>
ペレス・プラードがマンボを引っさげてアメリカ上陸
フォーク・グループ、ウィーバーズが赤狩りにより解散に追い込まれる
ハワイのアーティスト、アルフレッド・アパカ Alfred Apakaアメリカで人気者になる
ジョルジュ・ブラッサンス Georges Brassensデビュー、フランスを代表する歌手、詩人となる
カバセレが、アフリカン・ジャズを結成する
<音楽関連(国内)>
美空ひばりが歌謡界史上初の歌舞伎座公演開催
ジーン・クルーパー・トリオ来日、初の米国ジャズ・ミュージシャンの来日で本格的なジャズ・ブーム到来
米軍の撤退が始まり、日本人ジャズ・バンドが米軍基地から外に出始める

<映画>
この年の映画についてはここから!

<1952年という年> 橋本治著「二十世紀」より
 1952年の3月、破壊活動防止法と労働法規改正案が国会に上程され大騒ぎとなる。4月には「砂防法反対・労働法規改悪阻止」のゼネストが起こり、『血のメーデー事件』へと続く。
「この時期の日本のど真ん中には、かつての軍国主義者を平然と復帰させる、一向に反省のない『現状維持の思想』があった。その陰には、日本を『社会主義からの防波堤』にしようとするアメリカの思惑があった。・・・」
「流血は起こり、その”危険”を口実にして、破壊活動防止法は成立する。敗戦からの立ち直りだけを目指す日本人は”中心”の現状維持をよしとして、追放された人間達を堂々と復帰させる。アメリカともスターリンのソ連とも、現状維持を第一とする日本のエスタブリッシュメント達とも一線を画した『この国のあり方』を考える思想は、日本のどこにもなかった・・・」
<作者からのコメント>
 かつて日本も社会主義国家へと向かう可能性を持っていた時期がありました。もちろん、それがどの程度の可能性だったのかはかなり疑問であり、たぶんそうなる前に日本は韓国のように分断されることになっていたでしょう。
 これからも、現状維持が大好きな日本人が新たな政治体制を実現させるとは到底思えません。しかし、日本人はかつて世界的にも有名な「明治維新」という驚異的な革命を成し遂げています。けっして、改革は不可能ではないはずです。

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