- 一期一会に燃えたジャズの巨人たち-

チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー、バド・パウエル、マックス・ローチ、チャーリー・ミンガス
Charlie Parker, Dizzy Gillespie, Bud Powell, Max Roach, Charlie Mingus

<ジャズ史にとっての1953年>
 1953年という年は、ジャズの歴史上それほど重要な年ではないのかもしれません。1940年代に盛り上がったビ・バップのブームは一段落した感じで、マイルス・デイヴィスやクリフォード・ブラウン、アート・ブレイキーらがハード・バップと呼ばれる新たなジャズ・スタイルへの挑戦を開始するのは、1954年以降のこととなっています。したがって、この年はジャズの歴史上、これといった重要作がなかった年とも言えるのかもしれません。
(あえて言うなら、この年はウエスト・コースト・ジャズの年なのかもしれません。ジェリー・マリガン、バーニー・ケッセル、ショーティー・ロジャースらが、それぞれの代表作「ジェリー・マリガン・カルテット」「イージー・ライク」「ショーティー・ロジャース&ヒズ・ジャイアンツ」などを発表しています)
 しかし、そんなエアポケットのような年だからこそ生まれた貴重な作品もあるのです。それが1953年5月15日カナダのトロントにあるマッセイ・ホールで行われたコンサートの録音盤「ジャズ・アット・マッセイ・ホール Jazz At Massey Hall」です。

<淋しい観客席>
 エアポケットと言えば、このコンサートが行われた会場の中もまたエアポケットのような状況でした。2500人収容の席を埋めたのは、わずか700人ばかりの観客でした。と言っても、それにはもちろん理由がありました。この日、同じ時間帯にボクシングの世界ヘビー級タイトル・マッチが行われていたのです。当時のボクシング、世界ヘビー級選手権と言えば、スポーツだけでなくあらゆるイベントの中でも野球のワールドシリーズに匹敵する数少ない存在でした。それも、この時の試合は伝説的世界チャンピオン、ロッキー・マルシアノがジャージー・ジョウ・ウォルコットと闘うというものでした。当時、舞台に上がっていたディジー・ガレスピーですら、演奏の途中にステージを降りて試合のテレビ中継を見ていたというのですから、・・・。
 そんなわけで、このコンサートは始まる前から赤字になることが明らかでした。そのため、チャーリー・パーカーは主催者に掛け合いに行き、なんとか出演料を払うという約束を取り付けてきましたが、モチベーションが低くなるのは当然のことでした。

<崩れかけていたメンバーたち>
 他にも悪い条件がありました。
 チャーリー・パーカーは、やっと麻薬をやめられたものの、そのぶん酒に溺れるようになっていました。そして、もともと犬猿の仲として有名だったディジー・ガレスピーとの関係も最悪の状態でした。二人はライブの間にも、観客を前に皮肉を言い合い、口げんかをしていたと言います。
 さらに悪いのはピアニストのバド・パウエルでした。彼は麻薬中毒からきた精神障害のため、この年の2月までロングアイランドの精神病院に入院しており、まだ退院してきたばかりでした。そして、彼もまた精神的なよりどころを酒に求めるようになっており、休憩時間になると彼は会場向かえのバーに行ってしまい、主催者が見つけるまでそこで飲み続けていたそうです。
 チャーリー・パーカーは、この2年後には亡くなっており、バド・パウエルとともに人生の下り坂を転げ落ちようとしていた時期でした。

<貴重な出会い>
 しかし、良い面ももちろんありました。それは、喧嘩腰だろうと酒浸りだろうと、ジャズの歴史を代表する5人の超大物がステージ上にずらりとそろったということです。
 モダン・ジャズの基礎を築いたともいえるバードこと、チャーリー・パーカー。同じくビ・バップ時代のピアニストとしては、セロニアス・モンク以上の重要人物、バド・パウエル。あのマイルス・デイビスも、この世でこの二人だけは「類い希なるミュージシャン」であると別格扱いしていたと言います。
 さらにバップのオピニオン・リーダー的存在として活躍したディジー・ガレスピー。彼とバードの犬猿の仲は、ジャズ界でも有名ですが、この日の二人は、それを楽器によるバトルに持ち込むことで、かえって強烈な演奏を生み出すことになりました。
 そして、バド・パウエル、チャーリー・パーカーらのバックを務め、40年代にもっとも活躍したと言えるドラマーのマックス・ローチ
 最後に、もうひとり唯一これからの存在だった若者チャーリー・ミンガス、彼はこの後ジャズ界を背負って立つ存在になります。
 実に、この5人が舞台上にそろったのは、歴史上唯一この時一度きりでした。まさに一期一会。メンバーもまたこの初めての機会に大いに燃えたのかもしれません。彼らはそれぞれが自らの能力を最大限に発揮し、数々の悪条件が嘘のように素晴らしい演奏を展開してみせたのです。
「いいか!若いの。俺たちゃ、酔っていようが、喧嘩していようが、客が少なかろうが、その気になりゃあ、この程度の音は簡単に出せるのよ!」とバードがチャーリー・ミンガスに言ったかどうは、わかりませんが、・・・。考えてみると、こうした一期一会の機会に燃え上がることこそ、ジャム・セッションから生まれたジャズという新しい音楽にとって、最大の魅力なのかもしれません。

<チャーリーの貢献>
 もうひとつ幸いだったことがあります。それはこのライブが最初からライブ・アルバムとして発表するために録音されていたということです。メンバー内唯一の若手ミュージシャン、チャーリー・ミンガス(当時31歳)は、この豪華メンバーの共演を記録するチャンスを逃がすてはないと、ライブ・アルバムとして発表するための録音準備をしていました。そして、自らの作ったレーベルdbutから発売しようと計画していたのです。(実際には販売ルートを確保することが困難だったため、プレスティッジにその販売を任せることになりますが・・・)こうして、彼のこの先見の明のおかげでこのアルバムは世に出ることになったわけです。

<バップ時代の終わり>
 1953年と言えば、すでに半世紀以上前ということになります。バップの大物たちが最初で最後の対決をした貴重な演奏は、バップとハード・バップの谷間、多くの人々がテレビのボクシングのヘビー級タイトル・マッチが行われている間に秘かに行われていました。
 バップの時代はこうして多くの人々に知られることなく静かに終わりを向かえ、いよいよマイルスやジョン・コルトレーンを中心とする新しいジャズの時代が始まることになるのです。



" Cryin' In The Chapel " The Orioles
「マティルダ」 ハリー・ベラフォンテ
" Money Honey " The Drifters
" Your Cheatin' Heart " Hank Williams

" Django ジャンゴ " MJQ
" Easy Like " Barney Kessel
" Gerry Mulligan Quartet " Gerry Mulligan
" Jazz at Massey Hall " C.Parker,D.Gillespie,B.Powell,Max Roach,C.Mingus
" King of The Tenors" Ben Webster


「思い出のワルツ」雪村いづみ(デビュー曲)

<音楽関連(海外)>
人気DJアラン・フリード主催の「ムーンドッグ・ボール」が定員オーバーで中止になる
人気カントリー・シンガー、ハンク・ウイリアムス死去(1月1日)
<音楽関連(国内)>
雪村いずみがデビューし、美空ひばり、江利チエミとともに三人娘と呼ばれる
エラ・フィッツジェラルドオスカー・ピーターソンらからなるJATP(ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニッック)来日、ルイ・アームストロングも来日しジャズ・ブームが本格化。
ジャズ喫茶の草分け「銀座テネシー」開店。(大橋巨泉、福田一郎らが司会を務めていた)


朝鮮戦争の休戦協定成立
米国、アイゼンハワー大統領に就任(国務長官にはダレスが就任)
米国、マッカーシー旋風吹き荒れる
 (いわゆる赤狩りにより多数の共産党支持者が人生を奪われる)
米国、原子力スパイ事件でローゼンバーグ夫妻死刑となる
エベレスト(サガルマータ山)初登頂成功(ヒラリー卿テムジン
東ベルリンで反ソ連暴動発生(その他東欧全体に広がる)
コペンハーゲン世界婦人会議開催
ユーゴ大統領にチトーが就任
ソ連の指導者スターリンが死亡
中国で第一次五カ年計画始まる
パキスタン民主共和国成立
エジプト共和国誕生(ナギブ大統領)

<芸術、文化、商品関連>
「老人と海」アーネスト・ヘミングウェイ著(ピューリツァー賞受賞)
「見えない人間」ラルフ・エリスン著(全米図書賞)
「失われた足跡」アレッホ・カルペンティエル著(キューバ、ベネズエラ)
NHKテレビが放送を開始
バクミンスター・フラーの「フラードーム」(アメリカ)
シボレー「コルベット」生産開始(アメリカ)


<映画>
この年の映画についてはここから!

<1953年という年>  橋本治著「二十世紀」より
 3月5日、ソ連の独裁者スターリンが死んだ。彼に代表されるように1950年代以降世界各国の独裁者の多くは寿命を全うするまで倒れなかった。
「『戦争の時代』は終わって、既に『思想の時代』になっていた。しかし、世界には思想を問う方法がない。だから、スターリンは倒されない。方法は、武力対決だけだった。・・・」
「『共産主義への恐怖』は、既に19世紀からある。その恐怖は、『私有財産を否定する共産主義は、せっかく得た我々の財産を奪う』という恐怖である。しかし、一方、共産主義は、『他人への痛み』を前提とする思想でもある。世の中には貧困に苦しむ人間がいるーそれはなぜだろうと考えて、共産主義は多くの共感を得た。・・・」しかし
「もし、そこに『他者』というものが存在していたら、それはただ『敵』なのだ。自分を『搾取される貧者』と位置づけたら、『富める他者』は敵になるー『他者』を発見して、共産主義はたやすく『敵』を作った。『他者の発見』は、『愛の発見』であり、『不和の発見』であり、『敵の発見』でもあった。・・・」
<作者からのコメント>
 小学生の時のクラス担任は「共産主義的」な考え方を積極的にクラス活動に導入する先生でした。その理想の高さと情熱に僕は感心させられました。しかし、それをいざ現実に実践するとなると、そこには多くの問題点があることに気づかされもしました。すべてのことを全員で協力し議論しながらすすめることは、時に非効率的であり、また窮屈でもありました。そのうえ、いつしかお互いが監視し合うような雰囲気まで生まれてしまい、いつしか僕は学校に行くのが嫌になっていました。今でも僕は覚えていますが、卒業式の時、多くの友達が泣いている中、僕は卒業できたことを単純にうれしいと思っていました。これで自由になれる!そう思っていました。
 ただし、この時の経験を無駄だとは思っていません。僕自身を大きく成長させてくれたと思います。ただ、その進歩のスピードが早すぎたのです。
 当時の担任の先生とは今でも付き合いがありますが、あの頃のことはかなり反省しているようです。まあ、教師になって最初の子供が僕たちでしたから、熱中しすぎてもしかたなかったのでしょう。
「共産主義の理想は素晴らしいが、それを実践するのは、非常に難しい」
そこには何かが足りないです。そのことは、20世紀の歴史を見ても明らかでしょう。

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