- ロックン・ロールの先駆けとなったおじさん -

ビル・ヘイリーと彼のコメッツ
Bill Haley & His Comets

<ロックン・ロール・ヒーロー>
 1950年代後半のロックン・ロール黄金時代、最高のヒーローは誰だったのか?プレスリー、チャック・ベリー、リトル・リチャード、、それにバディ・ホリーにファッツ・ドミノ。このあたりはすぐに名前があげられるでしょう。しかし、ビル・ヘイリーをあげる人は意外に少ないかもしれません。
 1953年に彼が発表した「クレイジー・マン・クレイジー」は、ビル・ボードにチャート・インした最初のロックン・ロール・ナンバーと言われています。そして、1955年に公開された映画「暴力教室」のテーマ曲として、全米チャート連続8週ナンバー1という快挙を成し遂げ、文句なしにロックン・ロール時代最大のヒットとなった「ロック・アラウンド・ザ・クロック」もまた彼の曲です。しかし、その割に彼の名は以外に知られていないようです。まして、彼の顔となるとほとんどの人は知らないのではないでしょうか?

<ビル・ヘイリー>
 1925年7月6日、ミシガン州ハイランドパークに生まれたビル・ヘイリーこと、ウイリアム・ジョン・クリフトン・ヘイリーは、17歳の頃からヨーデル歌手として活動するようになり、ヒルビリーやカントリー&ウエスタンのバンドで歌い旅回りをし始めました。
 1948年には自らのバンドを結成し、ペンシルヴァニア州のチェスターでラジオのDJとしても活躍。いろいろなジャンルの音楽を聴きながら、しだいに黒人たちの間でブームになっていたR&Bの影響を受けるようになります。もともと彼のバンドは、フォー・エイセズ・オブ・ウエスタン・スウィングという名で活動するカントリー系のバンドでしたが、その名をビル・ヘイリーと彼のコメッツと改め、本格的にロックン・ロール・バンドとして活動するようになりました。
 その最初のヒットが「クレイジー・マン・クレイジー」で、この曲はロックン・ロール・ナンバーとして初めて全米チャートの15位まで上昇。その後も、ジョー・ターナーの元祖R&Bナンバーとも言われる曲「シェイク・ラトル・アンド・ロール」をカバーヒットさせるなど、着実に人気を獲得してゆきました。

<映画「暴力教室」>
 そんな中、1955年5月映画「暴力教室 Blackboad Jungle」が公開されました。監督&脚本はリチャード・ブルックス。社会派の監督として、後に「冷血」や「ミスター・グッド・バーを探して」などを撮る実力派です。主役の教師役にはグレン・フォード。反抗的な生徒たちのリーダー役にシドニー・ポワチエは、他にヴィック・モローやポール・マザースキー(映画監督)も出演していました。あえてリアリティーを出すために白黒で作られたこの作品は今見てもなかなか良くできた作品です。この作品は教師と不良学生が対決する学園ドラマの原点であると同時にロック・ナンバーをテーマに用いた最初の映画でもありました。

<ロック・アラウンド・ザ・クロック>
 実は「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は、シングルのB面として1954年すでに発表されていましたが、まったくヒットせづに終わっていました。しかし、この映画のテーマ曲として使われ再発されたとたん、この曲は大ヒットを記録したのです。「ロック・アラウンド・ザ・クロック」にとって、映画「暴力教室」は、長尺のミュージック・ビデオの役割を果たし、それ自体が「ロックン・ロール」という音楽自体のイメージ・ビデオとなって社会全体に強烈なインパクトを与えることになったのです。
 この映画が公開されると、映画館では若者たちが通路で踊り出したり、暴動が起きるなど、それまでになかった「若者たちの反抗」が噴出。全米で問題視されるようになりました。
 さらにこの年には、エリア・カザンの名作「エデンの東」と「理由なき反抗」が公開され、翌年、遺作となった「ジャイアンツ」を残してこの世を去ることになる永遠の青春スター、ジェームス・ディーンが登場。さらには真打ちとも言えるエルヴィス・プレスリーが登場、彼は歌だけではなくダンス・パフォーマンスや生き方も含めて、すべての面で黒人音楽を自分のものにしており、白人青年の新しい文化を見事に体現する存在として活躍することになります。では、元祖ロックン・ロール・ヒーローこと、ビルの活躍はどうだったのでしょうか?残念なことに、彼がエルヴィスのライヴァルになることは、ちょっと無理でした。

<その後のビル・ヘイリー>
 卵形の頭のおでこにキューピーちゃんのような前髪、ちょっとダサいチェックのスーツに、早くも中年ぶとり気味のお腹。この曲を発表したとき、すでに彼は32歳でした。そんな彼に若者たちの反乱のイメージを抱くことは難しかったのです。
 もちろん、ロックン・ロール・ブームの流れに乗って、彼らも一時はアイドル的人気を得ることができました。ついには「ロック・アラウンド・ザ・クロック」というタイトルの映画まで作られ、アラン・フリードやリトル・リチャードとともに彼らは主役を務めました。
 さらに1956年までは次々とヒット曲も出し、当時としては決して一発屋ではありませんでした。しかし、いかんせん彼らにはロックン・ロール以後のスタイルについて行くだけの若さは残されていませんでした。そんなわけで、彼らはそれなりにロックン・ロール・バンドとして活躍し続けるものの、しだいに人気のあるイギリスへのツアーか懐メロ・バンドとしての海外ツアーでしか稼げなくなって行きました。残念ながら、長い目で見ると彼らもまた一発屋の一人ということになってしまうのかもしれません。
 見た目も何も関係なく、良い曲だから流行る。考えてみると、それは音楽にとって実に健全な時代だったのかもしれません。まだラジオが中心で、ファッションも、文化も、すべてが混沌としていた若者の時代の初期には、「オジサン」でもどさくさ紛れにアイドルになることができたのです。
 60年代に入ると、もはやそんなごまかしは効かなくなり、「ダーティー・サーティー汚れた30代」と言われるほど、世代間の対立は明らかになります。

<時代ごとの復活>
 その後、1970年代にジョージ・ルーカスの映画「アメリカン・グラフィッティ」が大ヒットすると、再び「ロック・アラウンド・ザ・クロック」はリバイバル・ヒットすることになります。こうして、10年に一度ぐらいの割合で、ロックン・ロールのリバイバルが起きるたびに、この曲は甦り続けています。それも、けっしてカバー・ヴァージョンではなくオリジナル・ヴァージョンがかかるというのは、実に幸せなことかもしれません。
 「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は、いつまでもビル・ヘイリーの名前とともに残るのです。


" Ain't That A Shame " Fats Domino
"All of You" コール・ポーター
" Bo Diddley " Bo Diddley
" The Great Pretender " The Platters
" Earth Angel " The Penguins
" I'm A Man " Bo Diddley
" I 'll Be Home " パット・ブーン Pat Boone
" Mannish Boy " Muddy Waters
「メイベリーン Maybellene」 チャック・ベリー Chuck Berry
" Mystery Train " Elvis Presley
" Nearer To Thee " Sam Cooke & The Soul Stirrers
「オンリー・ユー Only You 」 The Platters
「16トン」 テネシー・アーニー
" Smoky Joe's Cafe " Robins ( The Coasters )

<アメリカの年間トップ10>
(1)「Rock Around The Crock」ビル・ヘイリーと彼のコメッツBill Haley & His Comets
(2)「バラッド・オブ・デイビー・クロケット」ビル・ヘイズ
(3)「Cherry Pink and Apple Blossum White」ペレス・プラード
(4)「Melody of Love」ビリー・ヴォーン楽団
(5)「テキサスの黄色いバラ」ミッチ・ミラー楽団
(6)「Ain't That A Shame」パット・ブーン(ファッツ・ドミノがオリジナル)
(7)「シンシアリー」マクガイア・シスターズ
(8)「Unchained Melody」レス・バクスター
(9)「Crazy Hot Lag」クレイジー・オットー
(10)「Mr.Sandman」コーデッツ
チャールズ・ベックマン「アメリカン・ポップス」より

<ジャズ>
" Chico Hamilton Quartet In HI FI "
" Hampton Hawes Trio Vol.1 "
" Lenny Tristano "
" Live! at Cafe Bohemia " George Wallington
" Round About Midnight " マイルス・デイヴィス Miles Davis
" Study In Brown " Clifford Brown & Max Roach


「ご機嫌さんよ達者かね」三橋美智也
「この世の花」島倉千代子(デビュー曲)
「別れの一本杉」春日八郎



モントゴメリーでバス内の差別に反したローザ・パークスが逮捕される
これをきっかけに大規模なバス・ボイコット運動が起きる
エメット・ティル殺害事件により人種差別の現状が明らかになる
アジア・アフリカ会議(バンドン会議)29ヶ国の参加で開催
(各国が民族自決を宣言)
東欧11ヶ国によるワルシャワ条約調印
アルゼンチンでクーデター(ペロン大統領失脚)
バグダッド条約成立(後の中東条約機構CENTO)
南ヴェトナムでゴ・ディン・ディエムが大統領に
物理学者アルバート・アインシュタイン死去
<日本>
第一回原爆禁止世界大会開催(広島)
原子力基本法成立

<芸術、文化、商品関連>
「ロリータ Lolita」ウラジミール・ナボコフ著
「寓話」ウィリアム・フォークナー著(全米図書賞)(ピューリツァー賞受賞)
「長いお別れ」レイモンド・チャンドラー著(エドガー賞)
ビート詩人アレン・ギンズバーグが「吠える」を発表
「ペドロ・パラモ」ファン・ルルフォ著(メキシコ)
石原慎太朗「太陽の季節」で文壇デビュー
「旗」 ジャスパー・ジョーンズ
映画「理由なき反抗」のヒットによりT-シャツとブルージンズが人気ファッションとなる
クリスチャン・ディオールによる「A-ライン」発表
シボレーがクロームメッキの「ベルエア」発表(大型化高級化進む)
「レゴ・ブロック」現在のデザインになる(デンマーク)
ロサンゼルスにディズニーランド開園
ソニーがポータブル・トランジスタ・ラジオ「TR−55」発売
東芝が電気釜を発売


<音楽関連(海外)>
ヘルヴェルト・フォン・カラヤンがベルリン・フィルの主席指揮者となる
赤狩りの影響で解散していたフォーク・グループ、ウィーバーズ再結成
ケイジャンの名アコーディオン奏者、アイリ・ルジューンが事故死(27歳)
P・クーテフ率いるブルガリア国立歌舞アンサンブル、パリ公演、初のアルバム録音
ヌムール・ジャン・バチストがカリビアン・サウンドの基礎となるコンパを演奏し始める
<音楽関連(国内)>
渡辺プロ設立(クレイジー・キャッツなどジャズ系アーティストのプロダクションとしてスタート)
作曲家の吉田正がブルー・ノートを用いた歌謡曲を作り、「有楽町で逢いましょう」に代表される「都会派歌謡曲」を生み出す
「ジャンケン娘」で江利チエミ、雪村いずみ、美空ひばり共演。三人娘誕生
春日八郎などによる故郷歌謡がブームになる(田舎から都会への移動進む)

<映画>
この年の映画についてはここから!

<1955年という年> 橋本治著「二十世紀」より
 1954年の日本のヒーローは、ゴジラと力道山と笛吹童子だった。日本人は大人も子供も関係なく熱狂していた。しかし、1955年石原慎太朗が「太陽の季節」を発表。日本には「太陽族」に代表される「若者」という人種が誕生した。
 アメリカでは、1954年にエルヴィス・プレスリー(19歳)、フランスでは作家フランソワーズ・サガン(19歳)がデビュー。そして、1955年「エデンの東」が公開され、ジェームス・ディーンが登場します。
「・・・1955年、ジェームス・ディーンはスターになった。そして、その年の9月、未公開の二本の映画「理由なき反抗」と「ジャイアンツ」を残したまま、交通事故で世を去った。死んだジェームス・ディーンの影響は、世界中の若者に及んだ。その後の男性スターの多くは、ジェームス・ディーンの影響下にいる。彼は永遠なのである。
 彼の見せた『孤独』は、その後も古くならなかった〜ということはすなわち、『若者を受け入れる父達の社会』もまだまだ健在だったことである」
<作者からのコメント>
 ジェームス・ディーンの三作品を僕は中学生の頃、テレビで見ました。その時、すでに公開時から20年近くたっていたことになります。思い出してみると、当時の僕は「理由なき反抗」と10年後の「イージー・ライダー」をそんなに違う映画だとは思っていなかったような気がします。実は「イージー・ライダー」を監督・主演していたデニス・ホッパーは、「理由なき反抗」でジェームス・ディーンと共演しています。彼はその意味ではジェームス・ディーンから最も大きな影響を受けた人物なのです。こうして、ジェームス・ディーンの魂は、デニス・ホッパー、マーロン・ブランド、ポール・ニューマン、そして世界中のロック世代へと受け継がれていったのです。
 思うに、ジェームス・ディーンとデニス・ホッパーの関係は、ロックの歴史におけるバディー・ホリーとジョン・レノンの関係に似ているかもしれません。50年代と60年代、映画と音楽はこうしてつながっていったのです。

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