- 悲運の天才ブラック・エンターテナー -

ジャッキー・ウイルソン Jackie Wilson

<もうひとりのブラック・ヒーロー>
 1958年と言えば、人種平等を訴えるワシントン大行進が行われた年であり、アメリカのほとんどの場所では、まだ白人と黒人が人種によって隔離されていた時代です。そんな時代に黒人アーティストがスターにのし上がって行くことの困難さは、今とは比べものにならなかったはずです。
 音楽業界内の闘いを勝ち抜きながら、なおかつ人種差別の壁にも立ち向かったサム・クックは苦労の末にアメリカを代表するアーティストの座を勝ち取るものの、弱冠33歳の若さで非業の死を遂げました。
 そんな黒人音楽界最大のヒーロー、サム・クック最大のライバルと言われた黒人アーティスト、ジャッキー・ウィルソンの代表曲が、この年の大ヒット曲「ロンリー・ティアドロップス Lonely Teardrops」です。
 ジャッキー・ウィルソン、その名前を聞いたことがある人はR&Bファンなら多いかも知れません。あのマイケル・ジャクソンが少年時代に目標としていた歌って踊れるアーティストの最高峰が彼でした。(実際、マイケル特有のダンスはジャッキー・ウィルソンから盗んだものです)彼はジェームス・ブラウンに匹敵するダンスの才能をもち、サム・クックなみの歌唱力をもつ数少ない存在でした。しかし、彼ほど悲運なアーティストはいなかったとも言われます。素晴らしい才能を持ちながら、度重なる不運によって、彼はそれを生かすことができず、この曲のヒット以後しだいに人生の歯車は狂い始めることになるのです。

<ジャッキー・ウィルソン>
 デトロイト出身のジャッキーは、ボクサーとしても一流の選手でした。そして、そのボクサーとしての身のこなしの軽やかさとしなやかさが彼の驚異的なダンスを生むことになりました。
 彼は子供の頃から聖歌隊でも活躍していたため、ボクサーでありながらある時ジョニー・オーティス主催のタレント・コンテストに出場。そこで注目された彼は、クライド・マクファーターが別のグループを作るために脱退したばかりのドミノスに参加。リード・ヴォーカルを担当することになりました。しかし、そこで彼は思うように実力を発揮できず、1957年、ソロ・アーティストとして新興のブランズウィック・レーベルと契約します。

<ブランズウィック・レーベル>
 このレーベルは、彼のマネージャーも務めていたアル・グリーンらが中心となって作られたのもで、彼の死後はナット・ターノポルによって引き継がれました。そして、そのマネージャーの存在が、後の彼の不幸最大の原因になるのでした。ナット・ターノポルの存在は、エルヴィス・プレスリーにとってのマネージャーと同じような存在になるのです。エルヴィスは、マネージャーだったトム・パーカー大佐の指示により、大人向けエンターテナーの道を強引に歩まされることになり、しだいに中年肥りのオールディーズ歌手になったことで有名です。
 ジャッキーもまたエルヴィスと同じ道を歩まされることになるのです。それは、当時はラスベガスなどでコンサートを行える歌手は、レコードをどんなに売る歌手よりも儲かると言われていたせいでもありました。

<ベリー・ゴーディー・Jrとの出会い>
 それでも彼が活躍し始めた頃は、彼にもツキはありました。後にあのモータウン・レーベルの生みの親となるベリー・ゴーディー・Jrが彼のために曲を作り、プロデュースもしてくれていたのです。そこから生まれたヒット曲が「ロンリー・ティアドロップス」は、二人にとって重要な出世作でもありました。ベリー・ゴーディー・Jrは、ジャッキーのヒット曲を手がけたことで作曲家、プロデューサーとして認められるだけでなく、自らの会社を興すための資金を得ることもできたのです。
 残念なことに、ベリー・ゴーディー・Jrは、契約問題で会社と対立、結局ブランズウィックとの関係を絶ち、自らのレーベルに専念することになります。それが後の巨大ブラック・エンターテイメント企業モータウンへと成長して行くことになるわけです。この時もしジャッキーがベリー・ゴーディーとともにモータウンへ移籍することができていたら・・・運命は大きく変わっていたことでしょう。しかし、マネージャーのナットはそれを許しませんでした。ここから彼の悲劇は始まったのかもしれません。

<名曲「ハイヤー・アンド・ハイヤー」の秘密>
 後に多くのアーティストがカバーしているジャッキー後期の名曲「ハイヤー・アンド・ハイヤー (
You Love Keeps Lifting Me) Higher And Highyer」(1967年)という曲があります。この曲は、彼のベスト・アルバムに含まれた曲の中で、唯一まるで70年代の曲かと思われる格好いい仕上がりになっていて、以前から僕は気になっていました。ところが、やはりそれには理由がありました。
 この曲の作者は、かつて「ロンリー・ティアドロップス」をベリー・ゴーディーとともに作ったビリー・デイヴィスで、スタジオ録音時のバック・バンドには名前をふせてモータウン専属のスタジオ・ミュージシャンたちが参加していたのだそうです。もし、彼がモータウンに移籍していたら「ハイヤー・アンド・ハイヤー」のような曲が、もっと生まれていたかもしれません。

<音楽ビジネスの現実>
 しかし、ポップチャートの6位にまで上昇したこの曲のヒットがあってもなお、ジャッキーには新しい時代のソウルにチャレンジは許されませんでした。それどころか、彼の新曲に対する会社のプッシュはまったくなくなり、彼に残された道は、昔の曲をステージで歌う懐メロ歌手の仕事だけになりました。
 音楽ビジネスの世界において、アーティストが自らの意志で動くことができるようになったのは、1970年代以降のことでした。当時、唯一黒人アーティストとして自由に活動できていたのは、J・W・アレクサンダーという優れた協力者とともに自らの会社を起こしたサム・クックぐらいだったと言えます。(その後、ジェームス・ブラウンが後に続くことになります)この点でも、サム・クックとジャッキーは対照的な人生を送った言えそうです。(ただし、その死については、どちらも悲劇的なものでした)だからこそ、自ら運命を切り開こうとしたサム・クックは偉大であり、未だにブラック・アメリカンにとっての理想のヒーローとして語り継がれているわけです。

<悲劇の終わり>
 1975年41歳の時、彼はステージ上で心臓発作を起こし倒れます。三ヶ月に渡る昏睡状態の後、かろうじて意識は回復したものの、脳へのダメージはもとに戻らず、寝たきりの状態が続きました。その間、彼のもとには税務署から24万ドル近い税金の追徴通知があり、別れた妻二人からも財産要求の訴訟を起こされます。結局、彼は8年間に渡り病院をたらい回しにされた後、1984年失意のままこの世を去りました。あまりに悲惨な死への旅立ちでしたが、彼が本当に不幸だったのは、歌いたい歌を歌わせてもらえなかった現役時代だったかもしれません。優れた才能を持ちながら、それを生かす場を与えられず、ついには旅回りのオールディーズ歌手として生きねばならなかった彼の人生は、黒人音楽ビジネスがまだ未発達だった時代が生んだ数多い不幸の代表例と言えそうです。



" All I Have To Do Is Dream " The Everly Brothers
" C'mon Everybody " Eddie Cochran
"ディ・ディ・ダイナ" フランキー・アヴァロン Frankie Avalon
" Good Golly , Miss Molly " リトル・リチャード Little Richard
" For Your Precious Love " Jerry Butler
" I Wonder Why" Dion & The Belmonts
" Johnny B. Goode " Chuck Berry
"The Kingston Trio" The Kingston Trio(キングストン・トリオのデビューアルバム)
" La Bamba " Ritchie Valens
"Lonely Teardrops" Jackie Wilson
"Rave On" バディ・ホリー Buddy Holly
"煙が目にしみる Smoke Gets In Your Eyes" The Platters (永遠にオリジナルが最高な名曲)
"スプリッシュ・スプラッシュ Splish Splash" Bobby Darin
"スタッガ・リー Stagger Lee" ロイド・プライス Lloyd Price
" Sweet Little Sixteen " Chuck Berry
" Summertime Blues " Eddie Cochran
"Texas Folk Songs" アラン・ロウマックス Alan Lomax
(フォーク・ソング研究の偉大な人物は、自分も歌っていた!)
" To Know Him Is to Love Him" Teddy Bears(フィル・スペクター自らの全米1位作)
"トム・ドゥーリー Tom Dooley" キングストン・トリオ The Kingston Trio
(全米ナンバー1ヒット、フォーク・ブームを本格化させた代表曲)
"Try Me" ジェームス・ブラウン James Brown(JBブレイクのきっかけとなった曲)

"Blues Walk" Lou Donaldson(ブルー・ノートらしい小粋でファンキーな小品)
"Cool Struttin'" Sonny Clark(当時を代表するポップなジャズの名品)
「ルグラン・ジャズ Legrand Jaz」 Michel Legrand
(超豪華メンバーによるモダン・ジャズ夢の共演、よくぞまとめた!)
"Modern Art" アート・ファーマー Art Farmer
「モーニン Moanin」 アート・ブレイキー Art Blakey and the Jazz Messengers
"Somethin' Else" Cannonball Adderley
(実質的にマイルスの作品とも言われる作品、そして大傑作)
"Soultrane" John Coltrane

"Move It" クリフ・リチャーズ&ドリフターズ(英国産ロックン・ロール第一号)
「想いあふれて」 エリゼッチ・カルドーゾ(ジョビン作記念すべきボサノバ第一号作品)
「ヴォラーレ」 ドメニコ・モドゥーニ Domenico Modugno(全米ナンバー1ヒット)




ワシントンで公民権運動のための大規模デモ開催
中東危機
欧州通貨協定(西欧の通貨交換性の回復)
アラスカ、49番目の州となる
人工衛星エクスプローラー1号打ち上げ成功
フランス連合をフランス共同体に改編、ド=ゴールが首相に就任
教皇ヨハネス23世就任
ソ連の最高指導者にフルシチョフが就任
タイ、ビルマ、パキスタンでクーデター勃発
セイロン、インドネシアで内戦始まる
中国で人民公社の活動が始まる
物理学者ウォルフ・ガング・パウリ死去
特急「こだま」運転開始

<芸術、文化、商品関連>
トルーマン・カポーティーが「ティファニーで朝食を」発表
日清食品「チキンラーメン」発売(インスタント・ラーメンの元祖)


<音楽関連(海外)>
エルヴィス・プレスリー兵役のため音楽活動休止
ニューポート・ジャズ・フェスティバルでの熱唱でマヘリア・ジャクソンの評価高まる
ジェリー・リー・ルイス、13歳の従兄弟と結婚が発覚
ステレオ・レコード登場!
ミュージカル「ウエスト・サイド・ストーリー」のアルバムが大ヒット
<音楽関連(日本)>
第一回日劇ウエスタン・カーニバル開催
出演者は、山下敬二郎、ミッキー・カーチス、水谷良重、平尾昌晃、朝比奈愛子、寺本圭一
すでに行われていたカントリー音楽のイベントから、ロカビリーの祭典へと進化した内容で行われ、一躍日本にロカビリー・ブームを巻き起こすことになった。ある意味日本のロック元年でもある。
 ちなみにプロモーターは渡辺晋。渡辺プロを日本一の芸能プロダクションにする人物。
「ダイアナ」をヒットさせていたポール・アンカが来日公演

<映画>
この年の映画についてはここから!

[1958年という年] 橋本治著「二十世紀」より 
 1957年、大阪に「主婦の店ダイエー」がオープン。翌1958年には神戸の三宮に2号店がオープンし、そのチェーン店化がスタートします。
 昭和30年代は、商店街の黄金時代でもありました。しかし、住宅街が満杯になると、そこから離れたところで団地という集合住宅の建設ラッシュが始まり、そこにはりつくようにスーパー・マーケットが建つようになります。
「スーパーマーケットには何でもある。値段が安い。ここに、安売りを忌避する住民はいない。安売り以外の選択肢もない。『スーパー』と短縮されるスーパーマーケットは、やがて食料品と生活雑貨の他に衣料品を扱うようになり、流通の王者となる。・・・」
しかし
「大量仕入れによる大量販売で、商品のコストを下げたスーパーマーケットは、いつかそれ自体が中流化し、『安売り』から『商品の安定供給』へと目的を移してしまう。・・・」
「・・・やがて消費は娯楽の一種として位置づけられ、消費者は差異化を求める。『激安店』の登場であり、『高級ブランド指向』の一般化である。『バブルがはじけた』と言われる1990年代には、その傾向が顕著になった。その時はまた、ひたすら成長を遂げて来たスーパーマーケット業界が、過剰投資のツケにあう時である。・・・生活にモラルがあったのは、この時代までだった。生活必需品の安定供給が可能になった後の日本人は、消費の道を歩むしかなかった。・・・」
<作者からのコメント>
 2004年に日本のプロ野球界を揺るがしたダイエーと西武の身売り問題は、この時期に大発展を遂げた「スーパーと鉄道会社」の黄金時代が終わったことを遅まきながら告げるものでした。
 「商店街」に店を出している僕にとっては、再び商店街の時代が来ることを願いたいものです。・・・商店街の再生は、地域社会の再生でもあり、地域文化の発展と社会秩序にもつながる重要なことだと僕は思っています。



 第二次世界大戦も終わり、交通の便(飛行機)も良くなり、大会史上初めて世界中の主な強豪がほとんど参加。さらに今大会は大会史上初めてテレビで中継された大会でもありました。
 戦争によって選手強化ができなかったことから戦争に参加していた国のレベルダウンが目立ち始め、逆に戦争による直接被害がなかった国の活躍が目立った。
準決勝 スウェーデン×西ドイツ       ブラジル×フランス
決勝   ブラジル×スウェーデン
優勝   ブラジル(ガリンシャ、マリオ・ザガロそして初登場のペレが活躍)

年代記編トップへ   1959年へ   トップページヘ