世界を変えた1960年代英国文化革命


「スウィンギング・ロンドンの主役たち」

- マリー・クゥワント、ザ・ビートルズ、マーガレット・サッチャー・・・ -
<1960年代ロンドン・カルチャー>
 世界の歴史を大きく換えた混沌の1960年代。このサイトでは、音楽・映画・政治など、アメリカの60年代に関する情報を数多く取り上げています。しかし、それに比べると、他の国の60年代に関する情報はそう多くはありません。
 このページでは、アメリカの60年代カルチャーに大きな影響を与えたイギリスの60年代についてまとめてみました。参考にしたのは、小関隆さんの「イギリス1960年代 ビートルズからサッチャーへ」という著作です。その中で、著者は1960年代という自由な時代こそが、後のサッチャー政権を生み出したと書いています。この問題については僕も同感で、同じことがアメリカのレーガン政権誕生にもあてはまる気がします。ただし、その部分については、ここでは最後に少しだけ触れることにして、基本的には60年代ポップ・カルチャーのについてまとめます。
 先ずは、その作品で著者が使用している「文化革命 Cultural Revolution」という言葉についてから始めます。
<文化革命とは?>
 文化革命とは、1960年代のイギリスで生じた文化のヒエラルキーの動揺ないし転倒を意味する。新しいファッションや音楽、写真や映画が次々と目覚ましい成果をあげ、こうしたポピュラー・カルチャーはハイ・カルチャーよりも価値が低い、という自明視されてきた上下関係を根底から揺さぶった。文化の価値観の大転換が起こったのである。

<ロッカーズ&モッズ>
 1979年の映画「さらば青春の光」(フランク・ロッダム監督作)で描かれたロッカーズとモッズという若者たちのカルチャーこそ、60年代カルチャーの先駆となる存在です。彼らが広めた文化が、イギリスにおける価値観大転換の原点といえます。
 そんなロッカーズの前にイギリスでは、1950年代後半に「テッズ」(テディ・ボーイズの略)がロックンロールのブームと共に登場しています。丈の長いジャケット、リーゼント・ヘアー、そしてロックンロール。彼らのアイドルは、エルヴィス・プレスリーマーロン・ブランドジェームス・ディーンでした。
 1950年代末、テッズの後継的存在として登場したのが「ロッカーズ」でした。レザー・ジャケットに身を包み、デニム・パンツをはき、リーゼントの髪型でバイクに乗るのがその定番的スタイルでした。
 同じように、1950年代の終わりに登場し、1960年代半ばには全国へと広まり若者文化の中心的存在となったのが「モッズ」でした。彼らは不良っぽくはあっても、マッチョではなく、洒落者で、イタリア風の細身のスーツにイタリア製のスクーター(ヴェスパをカスタマイズしたもの)が定番スタイルでした。そして、彼らが聞く音楽は、リズム&ブルース、スカ、ジャズでした。その中心は、アート系の学生などお金はなくてもファッションにこだわりのある若者たち。彼らのアイドルはキース・リチャーズ、チャーリー・ワッツなどローリング・ストーンズのメンバーやピート・タウンゼントなどのミュージシャンたちでした。ロッカーズが人種差別的で保守的な性格だったのに対し、モッズはそれとは対照的なタイプだったといえます。
 1960年代も後半に入ると、彼らのファッションはさらに派手なものになり、ヴェルヴェットの生地でストライプ柄のスーツに花柄やペイズリー柄のフリル付きシャツ。幅の広いネクタイやスカーフなどを加えたカラフルでフェミニンなファッションが大ブレイクすることになりました。これが、ビートルズやストーンズによる「ブリティッシュ・インベイジョン」の波に乗りアメリカへと伝わり、サイケデリック・ムーブメントのファッションになったのです。

<政治的反体制派>
 モッズやロッカーズは、音楽やファッションを中心とした若者たちのグループでしたが、それ以外にもイギリスには、それまでとは異なった価値観を持つ若者たちのグループが登場しています。
 1957年、イギリスは初の水爆実験に成功。それにより、イギリスもまた核戦争の当事国となりました。そのことに対して、イギリスでも核兵器の保持についての反対運動が活発化し始めます。
 1958年、核武装解除運動(キャンペーン・フォー・ニュークリア・ディスアーマメント、略してCND)が設立され、核兵器研究施設へのデモ行進が実施されます。ロンドン-オルダーマストン間のデモ行進には、1961年、1962年と続けて15万人が参加。彼らの主張は、一方的な核武装の解除でしたが、1960年代後半に入ると、その主張は核兵器の削減ではなく、ヴェトナム反戦運動へと向かうことになりました。
 こうした運動に関わった若者たちは、それまでの大人たちのもつ価値観に反対し、「怒れる若者たち」と呼ばれるようになりました。そんな「怒れる若者たち」が生み出した象徴的存在の一つに文学がありました。
 「怒れる若者たち」のイメージを作り上げたジョン・オズボーンの戯曲「怒りをこ込めて振り返れ」(1956年)はその代表作。それ以外にも、キングズリー・エイミスの「ラッキー・ジム」(1954年)、ジョン・ブレインの「年上の女」(1957年)、アラン・シリト―の「土曜の夜と日曜の朝」(1958年)「長距離走者の孤独」(1959年)などの作品が生まれています。

<世界の中心がロンドンだった時代>
 世界史において、様々な文化の面で、ある国のある街がトレンドの発信源として大ブレイクすることがありました。そうなるのには、もちろん理由がありました。その街が平和で経済的に繫栄していることも条件の一つ。しかし、そうした状況がピークを迎え、それがバブルの崩壊を向かいつつある状況こそが、最も重要な要素だと思います。そうした混沌とした状況が、優れた芸術家や革命家らを集め、新しい文化の創造へと向かわせていた歴史が過去にもありました。
 例えば、19世紀末のオーストリアの首都ウィーン。1920年代禁酒法を逃れたアメリカの芸術家とヨーロッパ文化が融合したパリ。ヒトラーの台頭による混沌を前にした1930年代のドイツの首都ベルリン。戦後の混沌から抜け出しつつあった1950年代イタリアの首都ローマ。バブル崩壊を前にアメリカ文化の買占めとアニメ文化が爆発していた1980年代の東京など。

アメリカのタイム誌1966年4月号で芸術評論家のビリ・ハラズノはこう書いています。
「今世紀のあらゆる年代にそれを代表する都市があった。・・・今日ではロンドンだ。伝統に根ざし、変化の只中にあり、豊かさによって解放され、水仙とアネモネに彩られた都市である。・・・若者が支配する時代にあって、ロンドンは開花した。ロンドンはスウィングする。ロンドンが舞台なのだ」
 この文章によって、「スウィンギング・ロンドン」という呼び方が世界中に広がることになりました。

<ファッションの街、ロンドン>
 1960年代のロンドンは「スウィンギング・ロンドン」と呼ばれる文化の発信基地でした。そして、その発信源の一つとなったのがモッズなどの若きファッション・リーダーたちでした。伝統を重んじる英国のファッション界で、歴史上初めて若者男性ファッションに革命が起きたのです。その中心となったのは、「モッズの女王」とも言われたファッション・デザイナー、マリー・クゥワントです。
 マリー・クゥワント Mary Quant は、1930年2月11日生まれ。ロンドン大学でイラストなどを学んだ後、21歳で若者たちの街ロンドンのチェルシー、キングスロードにブティック「バザー」をオープン。すぐにロンドンのトレンドの中心となる店となり、「ブティックの時代」の先駆となりました。
 当時のファッション界の主流だったフランス的なエレガンス、エスタブリッシュメントの大人のセンスに対し、動きやすいライン、派手で奇抜な柄、原色を強調した色使い、安っぽい素材の使用などから、彼女のスタイルは「チェルシー・ルック」と呼ばれました。

「私が嫌いだったのは、ファッションと呼ばれる服装のセクシーさの欠如、楽しさの欠落、フォーマルな退屈さだった。私がほしかったのは、もっと生活に、生きている人々に密着した、もっと若さと活発さを表現できる服だった」
マリー・クゥワント

 一般的に彼女はミニスカートの発明者と思われがちですが、実際はフランスのデザイナー、アンドレ・クレージュによるデザインです。ただし、その知名度を世界的にしたスーパーモデルのジーン・シュリンプトンが着用していたのがマリー・クゥワントがデザインした膝上10センチのワンピースだったことは確かでした。
 1965年10月オーストラリアで開催された競馬のメルボルン・カップの会場で行われたファッション・ショーにシュリンプトンがストッキングなしでミニのワンピースで登場。公的な場の常識だった帽子も手袋もなしだった彼女は、男物の腕時計だけをアクセサリーとして現れ、会場のセレブや取材陣を驚かせました。セレブの間から「品がない」と批判された新聞記事が世界的に話題になり、そこからミニ・スカートの一大ブームが世界に広がることになりました。
 マリー・クゥワントは、その時にシュリンプトンが着用していたモデルを量産し、大ヒットさせました。こうして、それまで「ショート・スカート」と呼ばれていた丈の短いスカートはこの時期から「ミニ・スカート」と呼ばれることになりました。
 ちなみに「ミニ」という言葉は、1961年に発表され大ヒットした名車「ミニ・クーパー」からとられたと言われています。「ミニ・クーパー」という小さな車も、それまでの自動車の概念を覆す存在だったといえます。
 1967年、チェルシーのキングスロードとソーホーのカーナビ―・ストリートでは、2000店ものブティックが営業していて、その影響はパリやミラノなどファッションの中心地にも及ぶようになっていました。大物デザイナーではなく、若者からの発信によりファッション界が動かされる時代が始まったのです。

 ロンドンに22店舗を展開し「カーナビ―・ストリートの王」と呼ばれたのがジョン・スティーブンです。彼は、グラスゴー生まれで労働者階級の出身、そして同性愛者でした。ピンク、紫、オレンジなどの原色を使ったファッションを展開し、メンズ・ファッションを大きく変えました。それまでのマッチョで伝統に忠実な英国ファッションは、一気に時代遅れにされてしまいました。
 ロック・ミュージシャンの象徴ともなった「長髪」もまた「両性具有の1960年代」が生んだファッションの一つと言えます。

<ヘア・ファッションの街、ロンドン>
 今もなおその名を知られるヘア・スタイリング界の大物、ヴィダル・サスーンもまたこの時代のロンドンから現れています。ロンドン東部ユダヤ系貧困層出身の彼は、ヘア・スタイリング界で革命を起こしました。
 彼のヘア・スタイリングの特徴は、手の込んだヘア・スタイルではなく、ナチュラルでシンプルなショート・ボブ(ファイブ・ポイント・カット)を打ち出し、スウィンギングなヘアとして世界的にブレイクしました。時の流れに合い、動きやすく洗いやすい髪型としてショート・ボブは大流行しましたが、彼の店ではその割合は4分の1程度だったといいます。ヴィダル・サスーンの目指していたのは、その人の個性に合わせたスタイリングだったのです。
 1960年代は、様々な流行はあったものの基本的に個性重視であったことは重要です。そして、ファッションを少数のエグゼクティブから大衆のものへと展開した「ファッション民主化のブレーク・スルー」もまたスウィンギング・ロンドンの特徴でした。
 流行の波に乗っていることが優先され、価格も品質もチープですぐに古くなる商品。大衆消費時代にぴったりのファッションだったことも重要です。

<ファッション・カメラマン>
 この時代を象徴する人気カメラマン、デヴィッド・ベイリーミケランジェロ・アントニオーニの映画「欲望」のモデルとなったカメラマン)、テレンス・ドノヴァン、ブライアン・ダッフィ、3人はいずれも労働者階級出身のカメラマンです。彼らがカメラマンとしての活躍しただけでなく、アイドル的存在にまでなったことは、それまでになかったこと。これもまた1960年代のブレイクスルーを象徴するものでした。
 デヴィッド・ベイリーは、ファッション・カメラマンのジョン・フレンチの助手から仕事を始めました。すぐに彼の才能は高く評価され、1960年にファッション雑誌「ヴォーグ」(イギリス版)の専属カメラマンとなりました。ジーン・シュリンプトンをトップ・モデルにしたのも彼で、彼自身もまたスター・カメラマンとなりました。1965年には、なんとカトリーヌ・ドヌーヴと結婚しています。
 彼の最初の写真集は「ボックス・オブ・ピンナップス」(1965年)。その中には、ジョン・レノン&オノ・ヨーコ、ミック・ジャガー、ツイギー、アンディ・ウォーホル、テレンス・スタンプ、ベイリー自身のポートレイト写真などが収録され、大ヒットとなりました。
「構図とか、その種のことは気にしない。ただ一つ、写真から人物のエモーションが伝わってくるようにしたい・・・たとえ自分が不作法にそれを強いてでも、なにかを人物から引き出したいんだ」
デヴィッド・ベイリー

<テレビ・ドラマの革新>
 1960年代にはテレビ・ドラマの世界でも大きな変革が起きていました。
 1922年に国営のラジオ放送局として誕生したBBCは、1955年まではテレビ放送を独占していました。しかし、1960年に民放局が誕生し、視聴率競争が始まります。
 イギリス初の民放として1955年に開業したITVが北イングランドの労働者コミュニティを舞台に展開するコメディ・ドラマ「コロネーション・ストリート」を放送開始。
 1960年12月から放送が始まった番その組は、その後、数多く制作されることになるソープ・オペラの原型となりました。
 BBCは、それに対抗して娯楽番組に力を入れ始め、1964年からテレビドラマ「ウェンズデイ・プレイ」を放送開始。
 中絶、ホームレス、核問題、植民地問題など、社会派のテーマを扱うドラマとして大きな話題となりました。1960年にBBCの会長に就任したヒュー・カールトン・グリーン(作家グレアム・グリーンの弟!)は、それまでタブーとされてきたキリスト教批判などを容認。それまで数多くあった規制を緩めることで、番組を後押しし続けました。こうした流れの中から生まれたのが、ケン・ローチの演出による番組「キャシー・カム・ホーム」(1966年)でした。史上最高のテレビ・ドラマとも呼ばれるその番組には、その後、ケン・ローチ監督が生み出すことにる作品の原型がすでにあったと言えそうです。

<テレビ音楽番組>
 60年代のロンドン・カルチャーを全国へと広げた最大の貢献者は、テレビの音楽番組かもしれません。当時、イギリスでラジオ放送はまだ自由に音楽を放送できるわけではなく、ロックやブルースの放送は限られた時間枠だけでした。そのため映画「パイレーツ・ロック」で描かれた海賊放送局が誕生し、海上から若者向けのロックやR&Bを放送することになりました。
 そんな中、数少ない若者向けの音楽番組が登場し、多くの若者に当時のロンドンにおけるヒット・サウンドを全国に発信することになりました。
 1963年に放送が始まり、1966年まで続いた人気番組「レディ・ステディ・ゴー」は、民放局ITVの人気番組で毎週金曜日の夜に放送されていました。有名なザ・フーの「マイ・ジェネレーション」のドラム破壊映像もこの番組で放送されました。他にも、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、キンクス、ヤードバーズなども出演しており、残された映像は音源は今や貴重な歴史となっています。スタジオでの撮影ですが、クラブで観客を入れたような雰囲気の演出も斬新でした。さらに1965年以降は、それまでの口パクをやめて、生演奏を披露するようになり、バンドもその気になり大人気番組となりました。ピーク時には全国で1400万人が見ていたと言われ、若者たちの多くは金曜日の夜はこの番組を見てから街へと繰り出していました。
 1964年には、BBCも同様の音楽番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」の放送を開始。これらのテレビ番組によって、それまでロンドン中心だったカルチャーが、音楽だけでなく観客たちが身に着けている新しいファッションと共に全国へと拡大することになったのです。

<ニュー・ウェーブ映画>
 テレビの登場により、映画界はその勢いを失い、1955年から1963年にかけて、映画の観客動員数は一気に3分の1に減ってしまいました。そのため、採算をとりにくい英国製の映画は激減し、映画館ではハリウッド製の映画ばかりが放映されることになりました。それでも低予算の若者向け映画だけはかろうじて製作されていたことから、映画界では若手の映画人が活躍し始めることになります。
 ジャック・クレイトン監督の「年上の女」(1959年)は、そんな時期の代表作でした。モノクロ映像、ロケーション中心の撮影、素人俳優の採用、ドキュメンタリータッチのリアリズム演出など、フランスから世界に発信されたヌーヴェルヴァーグの影響は明らかでした。
 アラン・シリト―原作のカレル・ライス監督作品「土曜の夜と日曜の朝」(1960年)では、舞台俳優としても活躍していた名優アルバート・フィニーが主人公を演じています。
 これら地方出身の労働者が主人公で、性と階級問題などがテーマとなったその時期の映画は、「怒れる若者たち」を描いた小説を原作として数多く撮られ世界的にも知られることになりました。
 トニ―・リチャードソン監督の「怒りを込めて振り返れ」(1959年)、「長距離ランナーの孤独」(1962年)、リンゼイ・アンダーソン監督の「孤独の報酬」(1963年)、「if...もしも」(1968年)、さらにリンゼイ・アンダーソンとカレル・ライスは核武装解除運動のデモ行進を記録したドキュメンタリー映画「オルダ - マストンへの行進」(1959年)も撮っています。
 さらにニュー・ウェーブではなく「スウィンギング・ロンドン」の映画とも言えるのは、ルイス・ギルバート監督マイケル・ケイン主演の「アルフィー」(1966年)、ジョン・シュレシンジャー監督ジュリー・クリスティー主演の「ダーリング」(1965年)、イタリアの監督ですがミケランジェロ・アントニオーニの「欲望」(1967年)は、前述の人気カメラマン、デヴィッド・ベイリーがモデルの作品です。
 そして、ビートルズが主演した映画「ビートルズがやって来るYAYAYA」もまた映画史に残るアイドル映画の傑作と言えます。

<ビートルズによる音楽界の革新>
 「スウィンギング・ロンドン」は、様々な文化の革新から成り立つものでしたが、それを世界中に広めることができたのはなんといっても、音楽の力、それもビートルズの活躍によることろが大きかったことは確かです。彼らこそ、この時代を象徴する最大のアーティストです。

ビートルズは階級を空高くに放り投げた。階級を嘲笑ってなきものにした。そして、私は思うに、彼らほど平等という気分を導きいれることに成功した者はいなかった」
リチャード・レスター(映画「ビートルズがやって来るYAYAYA」監督)

 彼らはデビュー当初はそのファッションから明らかのようにロッカーズのいで立ちでした。しかし、本格的にデビューして以後は、ブライアン・エプスタインによる戦略もあり、革ジャンからスーツへと衣装を変え、モッズへと変身しています。
「いいよ、スーツを着よう。金がもらえるなら、風船だって着るさ。そこまでレザーが好きっていうわけじゃないんだ」
ジョン・レノン

 ビートルズがライブ活動を止め、スタジオで次々と新たな音楽を創造し始めると、その影響はすぐに他のミュージシャンたちへと広がり、その流れは世界へと広がりました。トータル・コンセプトアルバムの先駆作となった「サージェントペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブバンド」(1967年)は、ローリング・ストーンズに「ゼア・サタニスティック・マジェスティ―ズ・リクエスト」(1967年)、ザ・フーには「トミー」(1969年)を生み出させ、次々にコンセプト・アルバムの傑作が誕生。
 彼らはミュージシャンがシングル・ヒットではなく、アルバムで勝負する時代をもたらしました。

<性差別からの自由>
 1960年代は、様々な自由が許されると同時に社会の様々な壁が取り去られる時代でもありました。人種差別問題は特にこの時期、大きく変化しましたが、それに比べると男女の平等はまだまだ実現していませんでした。

 音楽としてのロックはたくさんのことを変えたと思う。豊かなエネルギーを解き放ち、若者に対していくつもの素晴らしいイメージを創造した・・・
 しかし、男女の関係に関わる点では、ロックは徹頭徹尾反動的であって、これは変えられなければならないと私は考える。現時点では、女性がロックという音楽にかかわれるのは、文字通りにではないにせよ、象徴的にはグルーピーであることを通してのみなのだ。

「インターナショナル・タイムズ」より

 1969年に発表されたジェニー・ファビアの自伝的小説「グルーピー」は、大きな話題となりました。グルーピー界のレジェンド的存在だったナンシー・スパンゲンのような存在もいましたが、彼女は例外的な存在で、結局は彼女も恋人のシド・ビシャスも長くは生きられませんでした。
 女性への差別に対するフェミニスト運動や同性愛者への差別に対する運動、障害者に対する差別に対する運動は、1970年代になってから本格化することになります。

<人種差別の復活>
 1960年代、様々な自由の容認は、それに対する反動を導くことになりました。考えてみると、自由とは「自由を認めない運動」をも可能にしたのでした。そんな中、1960年代に本格化した運動として、移民排斥運動の活発化があります。
 1968年4月20日、バーミンガムで保守党議員のイーノック・パウエルは、移民に対する不満と将来の不安について訴え、観衆から大喝采を得ました。後に、彼のその演説は「イーノック・パウエルの血の川演説」と呼ばれることになりました。
「我々は狂気に陥っているに違いありません。文字通り狂気に陥っているのです。・・・まるで、自分の火葬のための薪を積み上げることに勤しむ国を見ているようです。・・・・・
 15年か20年もすれば、この国では黒人が白人に指図をするようになるでしょう。・・・
 未来を見据えると、私は不吉な予感でいっぱいになります。ローマ人がそうだったように。「テベレ川が大量の血で泡立つ」のを見ている気がします。我々が大西洋の対岸から慄きながら眺める手に負えない現象が、・・・まさにわれわれがそれを選択しそれを軽く見ているがために、わが国に到来してきています。・・・」


<モラリズム運動>
 自由の容認に対する反動は、「モラリズムの聖戦戦士(クルセイダー)」と呼ばれた女性活動家メアリ・ホワイトハウスの登場も促しました。彼女は、テレビ番組におけるセックス、暴力の過激な描写を批判・告発。その後は、批判の対象を映画や雑誌にまで広げて行き、それは新たな規制の法律を生み出すことになります。
 1978年「児童保護法」(未成年者を使ったポルノへの規制)
 1981年「ワイセツ物陳列法」(ウィンドウ・ディスプレイや雑誌の表紙などに対する規制)
 1982年「地方自治法改正」(居住地区のセックス・ショップを閉鎖させる住民権限の強化)
 1984年「ヴィデオ録画法」(レンタル・ヴィデオの等級分けによる規制強化)
 1990年「改正放送法」(ワイセツ出版物に適用されていた罰則規定をテレビ放送にも拡大)

 モッズやヒッピーと同じく、ホワイトハウスにも1960年代の産物という面がある。したがって、単に時代の流れに頑迷に逆らった人物としてだけでなく、きわめて1960年代的に行動した人物としても彼女は把握されるべきだろう。「許容」の方向へ変化しつつあった社会は、彼女の凡庸なモラリズムと傍若無人にわが道を行く騒々しい運動をも「許容」したのである。
 そして、同じよう1960年代には、男たちばかりの議会で「許容」によって頭角を表した女性がいました。それが「鉄の女」サッチャーです。

<1960年代とサッチャリズム>
 サッチャー政権と1960年代の関係について、フェミニズム研究家のシーラ・ロウボタムは「夢の約束」(2000年)の中でこう書いています。

 皮肉にも、社会運動によって開かれた突破口は金儲けの機会を提供することになった。スローガンはデザイナーの商標に変形され、小回りの利く「オルタナティヴ」な資本家が混乱に乗じてのし上がった。1960年代のラディカルな夢は死産されてしまう。あれわれが辿りつくのは、かつて想像したような協同的で平等な社会ではなかった。1960年代が代わり導きいれたのは、われわれがそれまで抗議してきた秩序よりもさらに競争的で不平等な秩序であった。・・・
 われわれの希望は横領され、われわれの大志は捻じ曲げられたのだ。


 1960年代がサッチャリムズを生んだ理由についてまとめると以下のようになります。
(1)大衆消費を基盤とする1960年代の文化革命の経験がサッチャリズムの描くポピュラー・キャピタリズムの夢に惹かれる個人主義的な国民を形成した。
(2)「許容する社会」の広がりが、政治の世界でのサッチャーの栄達を可能にする条件を整えた。
(3)「許容」を批判するモラリズムの台頭が、サッチャーへの追い風になった。

 こうして1980年代に誕生するサッチャー政権が行った政策は以下のようにまとめられます。
(1)通貨供給量の引き締めによるインフレ抑制
(2)公共支出の削減(福祉の縮減)
(3)富裕層の減税
(4)国営企業の民営化
(5)経済活動にかかわる規制緩和
(6)労働組合への規制強化
(7)警察力や軍事力の強化

<参考>
「イギリス1960年代 ビートルズからサッチャーへ」 2021年
(著)小関隆
中公新書

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