60年代学生運動の変遷


- 60年安保から70年安保へ -

<学生運動って、何?>
 もしかすると多くの人は、昭和の学生運動は日本の社会体制を変えるために行われた共産主義革命運動だったと思っているかもしれません。もしくは、日本とアメリカの安保による協力関係に歯止めをかけ、ベトナム戦争を止めさせるのが目的の改革運動だったと思っている場合もあるでしょう。
 しかし、実は学生たちの運動への参加はもともとそこまで大それた目的を持っていたわけではなかったと思います。(もちろん、革命を目的にしていた人もいたのは確かですが・・・)学生たちが変えたかったのは国家体制ではなく、もっと学生生活に密着した学校の体制でした。
 例えば、当時、急激に増えていた大学進学者により、多くの大学は教室が不足し、授業内容も授業方法もレベルが低下していました。そのくせ、経済の発展とともに授業料はどんどん高くなっていました。そして、そうした状況を民主的に進めることを良しとしない古い体質の学校のシステム。そうした問題点を指摘する学生たちの運動を阻止するために行われていた学内の管理強化。(1960年から1967年までの間に大学数は245から369に増え、学生数は67万人から116万人に増加しています)
 こうしたことに反発する学生たちが、学内で授業をボイコットしたり、教室内にバリケードを築いて学校の封鎖したりすることから、学生運動は始まり、多くの学生たちはそこから運動に参加し始めたといえます。あの東大における安田講堂立てこもり事件も、もとはと言えば、東大医学部におけるインターン制廃止を訴える学内における改革運動から始まっています。
 でも、彼らはそうした運動に参加しているうちに、より大きな目標を持つようになります。それはなぜだったのでしょうか?

<安保の時代>
 僕は1960年の生まれです。当然、60年安保のことはまったく覚えていませんし、70年安保の時もまだ小学生でした。しかし、小学校のクラス担任が組合活動バリバリの新人教師だったために、授業では安保、学生運動、社会主義についてしっかりと学んでいました。小学校の5年生でも当時は、学生運動予備軍だったといえます。テレビで中継されていた安田講堂の立てこもり事件でも、僕は心の中で応援をしていました。親の手前、声に出しては応援できませんでしたが、当時はまだ大人たちの多くは学生たちに同情的でした。
 今思えば不思議なのですが、安田講堂陥落の翌年、僕は春休みに母親と東京に旅行に行き、その時、わざわざ東大まで行き、安田講堂を見てきたのです。なんで、わざわざ北海道から観光に行って、東大に行ったのか?先日、母親に確認してみました。すると、その旅行には僕と弟も含め、母親の友人の子供3人(みんな男)も一緒で、どの親も息子を将来東大に入れたかったようです。(結局、みんな東大には入れなかったのですが・・・)しかし、そんな親たちの思いとは別に、僕は英雄たちの夢の跡を見て密かに感無量でした。当時、そんな思いをもつ少年はけっして珍しくはなかったはずです。なぜなら、クリスチャンだった僕の祖母だって、あの頃国会議事堂までデモに出かけてきたほど、多くの人が安保反対の運動に参加していたのも事実なのです。その意味で、「60年安保」は日本における最初の「大衆運動」だったといえるのでしょう。(それまでの運動は、すべて政党もしくは組合の主導による運動でした)
 
 ここで取り上げている60年、70年安保の後には「浅間山荘事件」と「総括」があり、そこで日本における学生運動は終焉を迎えることになります。そちらについては、別のページで取り上げていますので、そちらも併せてご覧ください。
 僕が思うに、1960年代は日本にとって最も「熱く」て「混沌」とした時代でした。まるで「ジャム・セッション」のように社会全体がグツグツと煮えたぎっていた時代を振り返ってみようと思います。そんな時代にギリギリ参加できなかった僕には、懐かしくかつ新鮮な世界がそこにはありました。
<60年安保の時代> 
 60年安保の時代は、日本史において初めて反政府運動が「大衆運動」へと変化した時代でもありました。それは、なぜ起きたのか?先ずは1959年まで歴史をさかのぼります。
<1958年6月12日>
 総選挙が行われ第二次岸内閣誕生。安保条約の改定に向けた布石を打ち始めます。その反対組織のひとつ日教組に対しては、「勤務評定」を導入。さらに「警察官職務執行法」の改正では、警察が怪しいと疑いさえすれば、手続きなしで取り調べができるように変更しようとしていました。この変更は与党内でも反対意見が多く、廃案となりますが、岸内閣への批判はどんどん高まることになりました。

<1959年11月27日>
 日本とアメリカの間に交わされていた日米安全保障条約の延長を阻止するため、霞が関にある国会議事堂のまわりには、24000人の人々が集まっていました。そのデモの主催者は安保改定阻止国民会議で、彼らのデモに対し警官隊5000人が集められていました。当初は、静かに整然と行われていたデモでしたが、全学連のメンバーがデモ隊から離れ、国会の敷地内に侵入し、警官隊を衝突してしまいます。それまでの、安保反対の運動はおおよそ平和的なもので、横に並んだデモ隊の人々が手をつなぎ静かに行進を行う「フランス・デモ」と呼ばれるスタイルが主流でした。
 しかし、ここで初めて学生たちの運動は、あえて警官隊と衝突するという暴力的ともとれる道を選択したわけです。そして、ここから運動は急激に盛り上がりをみせることになります。

<1960年4月26日「4・26請願行動」>
「今こそ国会へ行こう。請願は今日にも出来ることである。・・・北は北海道から、南は九州から、手に一枚の請願書を携えた日本人の群れが東京へ集まって、国会議事堂を取り巻いたら、また、その行列が尽きることを知らなかったら、そこに、何物も抗し得ない政治的実力が生まれて来る・・・」
清水幾太郎(雑誌「世界」より)
 憲法16条に記されている国民が政府への請願を行うことができるという権利を行使した安保反対の請願書を提出するため、国会までデモ行進を行う行動が17万にもの参加者を集めて行われました。しかし、その請願にはなんの法的拘束力もなかったため、5月19日から20日にかけて国会では岸信介内閣による強行採決が行われました。(この時、請願署名は2000万人分が集められていたいいます)
 この時、強行採決を阻止しようとした社会党の議員たちは議事を妨害するため、議長の清瀬一郎を議長室に閉じ込め座り込みを始めます。それに対して政府は国会内に警官隊を導入。妨害する議員を排除して強引に採決を行いました。この時、傍聴席には義人党(実質はヤクザのグループ)と自民党学生部、さらには本物の暴力団もいて強烈な野次を飛ばしながら乱闘に備えていたといいます。

<1960年6月4日「6・4ストライキ」>
 国鉄(現在のJR)が始発から2時間に渡り電車を動かさず、駅では線路に多くの学生たちが座り込みを行いました。このストライキには全国で560万人が参加したといわれます。

<1960年6月15日「6・15事件」>
 運動の過激化は学生側ではなく、自民党が裏で糸を引く右翼グループによって始められました。その重要なターニング・ポイントとなったのが、この事件でした。この日のデモに対しては、「維新行動隊」を名乗る右翼グループがクギを打ち込んだプラカードで殴り掛かり、多くの学生たちが流血させられることになりました。さらに国会敷地内に乱入した学生たちに対して警官隊が棍棒を用いて殴り掛かります。そのため、まだヘルメットを用いていない学生が多かった学生たちは次々に頭から流血。そして、その中で女子大生の樺美智子が死亡。運動の中で初めての死者が生まれることになりました。
 彼女の死は、60年安保の象徴的存在となり、警察は大きな批判にさらされます。運動にその象徴的存在を与えてしまったことは、警察にとっても誤算で、その後、警察側は学生たちの中に死者を出すことを恐れ、ジュラルミンの楯を用いて守りを重視するなど、より慎重に動くようになり、それが逆に学生側の攻撃を過激化させることにもつながります。
 デモの後、岸総理は記者会見でこう語った。
「私は諸君たちとは見方が違う。デモも参加者は限られている。都内の野球場や映画館は満員で、銀座通りもいつもと変わりない」
 6月23日、外相官邸にて批准書が交換され、安保はあっさりと批准されました。安保騒動の盛り上がりは、批准と岸総理の退陣によりあっさりと終わりを迎えます。
 7月14日、自民党総裁選が行われ、4人の立候補者(大野伴睦、石井次郎、藤山愛一郎、池田勇人)の中から政治よりも経済を優先する方向性を示した。池田が選ばれました。
こうして、日本人は政治よりも経済優先を選択。岸内閣の時代は終わりました。

「・・・安保騒動は、戦後の憤懣をもすべて吹き飛ばしたいわゆるガス抜き、”戦後日本”のお葬式であった、と見られなくもないのです。・・・」
半沢一利「昭和史後篇」より

そして、「デモは終わった、さあ就職だ」の時代へ・・・

<60年安保の終焉>
 結局、安保条約は自動承認となり運動も自然に終わりを迎えました。今振り返ると、60年安保が本当に盛り上がったのは、1958年末の改定交渉開始の時点でも、1960年1月の条約調印時点でもなく、条約批准が確実視されていた1960年5月に入ってからのことでした。つまり、60年安保闘争は初めから成功しないことを確約された不毛の闘いだったのです。ある意味、学生たちは闘うことそのものに満足を感じていたのです。そして、その満足感を与えたものは、たぶんある種の肉体感覚だったのではないか?「60年代のリアル」の著者佐藤信さんは考えました。
 
 そう考えてみると、ぼくはこんなふうに思うのだ。学生、若者たちは、手ざわり感のある、肉体感覚のある、そうした暴力のみを「正しい」ものだと考えたんじゃないか。彼/彼女らは武力革命ではなくリアルを求めて運動していたがゆえに、その暴力もリアルな暴力というかたちを取らざるを得なかったんじゃあるまいか、と。

 この考えを証明するような当時の運動参加者の証言もあります。

「・・・それから、シュプレヒコールを叫びながらデモにくり出すんですけど、何千人かの呼吸が合うと、ほんとうに気分がいいんですよ。デモの隊列がまるで多細胞生物のようになった、モスラの幼虫が東京の街をくねくね歩いているような摩訶不思議な感覚になる。
 正直に言って、僕はなんのためのデモかなんて関係ない。何千人かの呼吸が合ったデモをすること自体が、ものすごく気持ちよかったんです。それが、「共同体的に身体を使う」ということの僕にとってのい原体験ですね。」

内田樹・成瀬雅春「身体で考える」より

 さらに著者は、当時の学生運動はなぜ赤軍派以外は暴力革命を目指さなかったのか?という意外な疑問にも迫っています。

 それは60年代の運動における暴力の本質が「革命」などという大それた目的のためになったわけではないからにちがいない。むしろ彼/彼女らの「暴力」はやはり、自らの皮膚をざわめかせるためにあったのではないだろうか。その皮膚の感覚を通じて、他者を認識しながら相互理解を求めるためにあったのではないだろうか・・・

 その後、運動に関わった多くの学生たちは、学校を離れ社会に出ると、それぞれが「革命」を広めるための「帰郷運動」にかける者もいましたが、彼らの理論は大衆に受けいれられず、多くは運動に挫折してしまいました。そんな中、戦後復興の象徴となった東京オリンピックの開催が近づき、日本は科学技術の発達により高度経済成長の時代へと突入し始めます。そうした日本の変化を支える理工系の技術者を育てるため、教育界は理系学生の増加を目指すようになって行きました。

 そして、その理系自体の持つ性格は、まさにこの時代に効いていたわけで、理系化は(一方で地方を都会化することで国をまとめながら)国民の感情的な裂け目をも修復してしまったのだ。安保に賛成でも反対でも、科学技術の発展にあらがおうとする人はメッタにいない。
 大衆の「団地生活」への憧れや、大都会「東京」への憧れは、その影響だったともいえます。
<70年安保の時代>
 60年安保から10年、再び安保条約延長の時が訪れます。それにより、再び学生運動が活発化し始めます。
 この時代の学生運動の特徴について、「60年代のリアル」の著者はこう記しています。

・・・つまり、60年代という理系化の時の中で、その限界をまず初めに肌で感じた理系学生たちが、画一化され均質化されてしまったツマラナイ日常からの脱出を図ったように見えるのだ。
 彼/彼女らが中心になってつくったお手製のテント村・・・それはもしかしたらコンクリート化されていく都市からの避難場所だったのかもしれない。


 さらに東大闘争については、70年安保の当事者たちをリアルに描いた名著「マイ・バック・ページ」(映画化されました)で、当時「週刊朝日」の記者だった川本三郎がこう書いています。

「東大闘争は理工系の学生たちによって開始されたことがひとつの特色だった」
川本三郎「マイ・バック・ページ」より

「全共闘はシンパ(周辺的同調者)も入れて約二割、アンチ全共闘が約二割、残りの大学生の六割はいわゆるノンポリはいわゆるノンポリだった」
(2007年2月20日の朝日新聞より)

<1967年10月8日「第一次羽田事件」>
 佐藤栄作首相の南ベトナム訪問を阻止するために羽田空港にデモ隊が終結。機動隊と衝突し、混乱の中で京都大学の学生が死亡。
 この頃からから機動隊はジュラルミンの楯を用いるようになり、それまでの肉弾戦とは異なる飛び道具による争いになり出します。それは、「格闘」から「戦争」への変化だったといえます。放水と催涙ガスの使用が本格化したのがこのころです。こうした闘争方法の変化は、必然的に学生たちの指揮を下げることになります。

<1968年10月21日「国際反戦デー」>
 新宿駅を中心に全学連と警官隊が市街戦を展開。

<1968年11月12日「あかつき部隊」>
 東大の民青支援のために作られた外人部隊ともいえる他大学生からなる「あかつき部隊」が暴力を用いて全共闘に攻撃を行いました。民青とは共産党の下部組織の学生団体で、党の指示に従うグループでした。したがって、党派とは異なる独自の活動を続ける全共闘とは「反政府」という点では方向性が同じにも関わらず、常に対立関係にありました。そして近親憎悪ともいえる対立が、ついに暴力による攻撃に至ったのです。これは保守派から見れば、愚かなる内部分裂の始まりでした。

<1968年11月22日「日大・東大闘争勝利全国総決起集会」>
 東大本郷キャンパスに日大全共闘が応援にかけつけました。日大全共闘の中心は日大芸術学部の全共闘「芸闘委」でした。マスプロ大学の代表だった日大の中で、「芸術」を指向する彼らは東大生が医学部(理系)中心の学生運動だったのに対し、異なる視点をもっていたといえます。エリートの東大に対し、日大は肉体的な存在でもありました。二つの異なるグループの合流は運動において画期的な瞬間であり、60年安保における最も幸福な瞬間の一つでもありました。
「あの、東大の、貴族的な、闘いを・・・圧倒的な、日大生の、エネルギーをもって・・・革命的な、闘争に、推進させよう」
日大全共闘のアジテーションより

「とめてくれるな おっかさん 背中のいちょうが 泣いている 男東大どこへ行く」
橋本治(東大駒場に貼られた駒場祭のポスターより

<1969年1月18,19日「東大安田講堂占拠事件」>
 東大において、医学部のインターン制廃止を求める運動から始まった学生と大学の対立は、大学における自治の問題についての全面対決に至ります。学生側は、学内の机や椅子を用いてバリケードを築くことで学内を封鎖し、授業ができないようにして、立てこもりを開始。その中心となったのが、有名な安田講堂でした。
 大河内一男学長が辞任し、加藤一郎総長代行が交渉を行うものの、事態は変わらず、学校側は警察・機動隊による学生の排除に踏み切ります。
 結局、大学側は機動隊に出動を要請し、放水車による放水やガス攻撃により、学生たちは排除されてしまいます。この安田講堂における攻防戦はテレビでも生中継され、機動隊によって安田講堂が陥落した場面の視聴率は72%に達していたといいます。まだ小学生だった僕もこの場面はしっかり見ていました。僕も含めて、多くの人にとって彼らは英雄だった気がします。
「砦の上に我らの世界を」

<1969年9月5日「全国全共闘結成大会」>
 全共闘運動の再興をかけた大会に赤軍派が登場。初めて公の場に現れた彼らは、暴力による革命によって社会変革を目指して組織された「軍隊」と呼ぶべき存在でした。この赤軍派の登場により、学生運動は一気に過激化することになり、これが重要なターニング・ポイントとなりました。それは「運動」から「戦争」への変化であり、60年安保の終わりの始まりだったのでした。

「ともかく、生活の既成的現在を解体し<民兵>的に再形成すること、そして暴力を、暴力それ自体を、赤軍=解放軍本隊として形成すること、これである。生活と闘争の民兵的形成によってこそ、革命伝統は持続し得るし、革命経験は蓄積されるのだ。・・・」
滝田修(竹本信弘、当時の京大経済学部助手)

「間接民主主義のもとでは、革命は実現できない。権力を倒すためには既存の方式ではダメであり、組織された暴力を行使する以外に方法はない。・・・」
村田能利(社学同委員長、早稲田第一政経)

 「銃」的暴力は安田講堂攻防戦の時から肉体感覚をゲーム的な感覚に置き換えていたわけだけれど、連合赤軍においてはその変容は組織のあり方にまで及んでいたのかもしれない。彼/彼女らが「兵士」を名乗ったことが象徴するように、彼/彼女らはもはや情動的な塊の一部というより、冷徹なバラバラの銃弾になったのだ。
 ふと、銀座の大通りで手をつないでデモしていた60年を思い出す。なんと遠くまで来てしまったことか!!
 遠くに来てしまったという意味では、もうひとつの「山」も同じ。浅間山荘に至るまで彼/彼女らが渡り歩いていた「山」はもちろん、60年代の大衆運動の舞台になった「都会」と対峙する存在なのだ。


 こうして70年安保における学生運動は、1972年の「総括」そして同じ年の「浅間山荘事件」という二つの悲劇へと一気に押し流されて行くことになります。
「60年代のリアル」
 「1960年代」を、1988年生まれの政治学の修士課程の学生が21世紀の視点から振り返った本があります。でも、同時代を生きた当事者でもなく、歴史学者でもない学生が書くことにどんな意味があるのでしょうか?
 「歴史」というものが、「今を生きている人」のためにあるのだとすれば、その当事者である「今を生きる人」にとって、どう見えるのか?という「歴史」の意味は大きいはずです。

<著者の立ち位置>
・・・言ってみれば、ぼくらは高度経済成長を知っている世代、もしくはバブルの恩恵を享受した世代のツケを払うべくこの「国」に産み落とされたのだった。
 これまでの60年代論は、当時を体験した人たちの主観的記述が中心で、そうでなくても当時の運動に共感するか、しないか、それを前提にした上で60年代を論じるものが多かった。でも、ぼくはむしろ「彼/彼女ら」と同年代の者として、共感できるのか、できないのか、その狭間に立って「あの時代」を追体験してみたいと思う。


 彼は、「40年という距離」を置くことで、60年代を新鮮な視点で見つめ直し、運動の背景となった時代にも注目しています。
 著者は「なぜ60年代の若者たちは、あんなにも熱くなれたのか?」という素朴な疑問について考えています。そして、そのキーワードとして、「リアル」、「肉体」、「ジャズ」などの言葉を選んでいます。
<リアル>
 考えてみれば、そんな「リアル」と政治との関係が当然に存在していた時代もあたんだと思う。でも、戦後の自民党の一党優位のなかでだんだんとそんな感覚は失われてきた。政治はどこか遠くに去っていってしまった。60年代の若者の暴力(若さ)が政治に向かったのは、きっとその手触りが逃げていく過程のことだったにちがいない。だとしたら、ぼくらが今政治に向かおうとしているのは、政治の皮膚感覚みたいなものを再発見しようとする過程なのかもしれない。リアルでなくなり、能率で計られるようになってしまった政治を、ぼくらはまた捕らえなおそうとしているのかもしれないのだ。・・・

<肉体感覚>
・・・現代において、(ネットを含む)情報の海の中からヒトが「個」を特定していくためには、ぼくらは他者と自己とを区別し、同時に他者を理解するチャンネルとしての皮膚を認識を認識する必要があるのだけれど、でも、その皮膚の実感には潜在的な他者との触れ合いが要請されるのだ。そしてその触れ合いにおいては、触れる相手が潜在的な他者であるがゆえに「ざわめき」が生まれる。この「ざわめき」こそが、ぼくがぼくとして生きていると信じるために必要なものに他ならないのだ。・・・


<ジャズ>
 そう。きっとキーワードは「ジャズ」ということなのだと思う。もちろん、60年代後半を代表する音楽がフォークであることはみんなが知っていることだろう。けれど、ぼくから言わせればフォークソングをみんなが大合唱、というような雰囲気は(現在でさえ)まだ残っているわけで、現在との比較という観点から見るなら当時を特徴づけているのはジャズの方なんじゃないかと思うのだ。
60年代学生運動用語集
「アジる」  「アジテーション agitation」とは英語で「(心を)動かす、興奮、動揺、論議、扇動・・・」(政治的主張を観衆の前で叫ぶこと)
「オルグ」  「オーガナイズ organize」とは英語で「組織する、編成する、創立する、(催事などの)計画を立てる」(仲間にするための広報・宣伝活動のこと)
僕が高校生だった1978年頃は、まだ休み時間に突然大学生の活動家がアジテーションに現れることがありました。
「デモ」  「デモンストレーション demonstration」とは英語で「論証、証明、実演、示威運動、示威行動」(ここではデモ行進のこと)
フランス・デモは、参加者が横並びになって手をつないで歩く平和的なデモ行進。ジグザグ・デモは参加者が肩を組んで密着して蛇のようにクネクネと歩くデモ行進。
「シュプレヒコール」  「シュプレヒコール sprechchor」とはドイツ語で「セリフなどを全員で唱和すること」(スローガンやメッセージを全員で唱和する際の合図となる号令)
「全学連」  全学連(全国学生自治会総連合)は1948年結成。当初は共産党の統制下にある学生組織だった。1958年12月執行部を共産主義者同盟(ブント)として結成。共産党から離れ、その下部組織である民主青年同盟(民青)とは別に安保反対運動を展開することになります。 
「バリケード」  「バリケード barricade」とは英語で「防柵、妨害物」
(当初学園紛争では教室内の机や椅子がバリケードに用いられたため、その後、大学内の机や椅子はほとんど移動できない固定式になった)
「セクト」 「セクト sect」とはラテン語の「セクタ secta」(宗教上の分派)から派生した用語。(学生運動においては、新左翼の様々な分派のことを指す)
<日本における共産主義の歴史>
 つまり、日本の共産主義運動の歴史を乱暴にまとめてしまうと、まず、共産党中央の主張することだけを良しとする「従来型の左翼」と、それには飽き足らない「新左翼」という、大きな二つの流れが生まれた。そして新左翼の一部が過激化して、いくつかの過激派が生まれていった。その過激派が昭和史に事件を刻み込む。大雑把にいえば、そういう流れだったといえます。
「立花隆の本棚」より
「ゲバ棒」 「ゲバ棒」とはドイツ語の「ゲバルト gebalt」(暴力)から来た言葉。(「ゲバ棒」と「ヘルメット」は当時の学生運動を象徴する物でした)
「朝日ジャーナル」 1959年創刊の左翼系情報雑誌。当時の若者の常識は「「右手にジャーナル、左手にパンチ(またはマガジン)」
「ノン・ポリ」 「ノン・ポリティカル」政治に興味なし派
「ノン・セクト」 流派(セクト)に属さない活動家
<参考>
「60年代のリアル」
 2011年
佐藤信(著)
ミネルヴァ書房
(1988年生まれの著者は東大法学政治学研究科修士課程在籍中にこの本のもとになる原稿を執筆しました。)

「昭和史 戦後篇」 2006年
半藤一利(著)
平凡社

マイ・バック・ページ My Back Page ある60年代の物語」 1988年(初版)2010年(改訂版)
川本三郎(著)
平凡社

20世紀事件簿(日本編)   トップページへ