もうひとつの見解を伝え続けるもうひとつの世界メディア 


- アルジャジーラ Aljazeera -
<アルジャジーラって何?>
 このサイトを20年も続けている最大のモチベーションは「好奇心」です。今まで気になっていたけれど、その正体を知らなかった謎の存在に迫り、それをわかりやすく解説する。それが最大の楽しみといえます。そして、このページで特集する「アルジャジーラ」も、そんな知りたかった存在のひとつです。
 アルジャジーラといえば、2001年の9・11同時多発テロ事件発生後、その首謀者とされアメリカ最大の敵となったウサマ・ビンラディンのメッセージを放送したことで世界中にその名を知られることになったイスラム圏の放送局です。その後も、アフガンへの米軍の攻撃でもアルジャジーラは、次々にスクープ映像を発表し、世界中に衝撃を与えました。
 湾岸戦争以降、米軍によって管理・編集された一方的な映像ばかりを見ていた世界中の視聴者は、新たな視点から見たイスラム世界の映像に驚かされました。
 「アルジャジーラ Aljazeera」という放送局は、いったいどんな放送局なのか?ずっと気になっていた答えを教えてくれる本と出会いました。
 フランスの大学で政治学を教えるイスラム系の女性学者による著作でタイトルもそのものずばり「アルジャジーラとはどういう放送局か」です。
 それでは先ずは、その誕生の歴史からまとめてみたいと思います。

「世界はCNNを見守り、CNNはアルジャジーラを見守っている」
ドーハのアルジャジーラ本社に掲示されたスローガン

<アルジャジーラの設立>
 アルジャジーラの前身は意外なことに英国の国営放送BBCのアラブ向け放送局でした。
 それは1990年代にBBCがサウジアラビアの王族中心の資本と共同で始めたアラビア語の有料ネットワーク向けニュース放送「BBCアラビック・ニュース」です。ところが、その放送局が英国在住のサウジアラビアに対する反体制派の人物を番組に出演させたことから、スポンサーだったサウジの出資者が出資金を引き上げ、あっという間に倒産。250人のスタッフは、番組立ち上げから2年で失業してしまいました。
 一方、1995年にカタールで、皇太子のアルサーニが宮廷クーデターを実行し、父親に代わって国王となりました。彼は、西欧で教育を受けたエリートたちを中心に民主的な改革を実行に移そうとします。その改革における目玉の一つに民主的な放送局の創設がありました。そのためのスタッフを探していた彼は、ちょうど失業中だったBBCアラビック・ニュースのスタッフのことを知ります。さっそく彼はその多くをそのままスタッフに雇うことにしました。
 こうして開局した新しい放送局は、アラビア半島の「半島(アルジャジーラ)」をとって、「アルジャジーラ」と名付けられました。
 「アルジャジーラ」を立ち上げたカタールは、石油生産によって豊かな経済を誇っていたものの、人口はわずか60万人という小国。石油依存のみでは将来に不安があり、政治的にはアメリカに依存する西欧よりの体制が続いていました。場所的にも常に緊張感が漂うアラビア半島にあり、イスラエルとアラブ諸国の対立の緩衝地帯でもあり、両者の橋渡し役的な位置にいました。国内には、スンニー派、シーア派、原理主義者もいて、カタール国内でもバランスをとる必要がありました。
 こうした政治・経済状況の中、アルジャジーラは、「BBC放送」から受け継いだ客観的な報道姿勢と小国ならではのバランス感覚の上に成り立つ放送局としてスタートしたわけです。

「その見解とそれに対立する見解がある」
 BBC学校から引き継いで、独自のアイデンティティにつくりあげたライトモチーフは、いくつものスポットコマーシャルで明らかにされ、多様なほかのスローガンをもつジャーナリストの倫理基準である。
 すべての情報の取り扱い、すべての論争の組織方法、外部の招待客とのすべての話し合いの配置の仕方を支配するのは、このルールにほかならない。このルールの運用は、慎重に選ばれた6000人以上の情報源からなる人物のリストをもつ専門職に託されており、この放送局はかれらを呼び出して発言させることができる。


<アルジャジーラの顔>
 BBC放送時代からの客観的視点はあっても、それはあくまでもキリスト教圏イギリスから輸入したものまねです。それだけでは、アリジャジーラがイスラム圏の大衆の心をつかむことは困難だったはずです。そこには、イスラム圏に住む大衆の支持を得るための「顔」的存在が必要でした。
 それが、イスラム穏健派エジプト出身の思想家ユースフ・アルカラダーウィでした。アルジャジーラは、この思想家をコメンテーターなど重要な役割に採用することで大衆の支持を得ることに成功しました。
 アルカラダ―ウィは、1926年エジプトの小さな村サフト・テュラブで生まれ、名門のアルアズハズ大学を卒業し、ムスリム同胞団の創設者ハッサン・アルバンナの元で働き始めました。しかし、1949年に反体制的な活動によって逮捕され、1961年にはエジプトからの脱出を余儀なくされます。その後、アルジェリアを経てカタールに移住した彼は、カタールを代表するイスラム穏健派の思想家となりました。その思想は広くイスラム圏の大衆の支持を得ていて、アラブ以外、イスラム教以外の文化圏でも信頼される数少ない思想家です。アルジャジーラは、彼の意見を前面に打ち出すことで、その基本姿勢を示すことになります。

 2001年9月11日、同時多発テロ事件からアフガニスタンへの米軍の攻撃にかけて、アルジャジーラは様々な映像を世界中に配信し世界中の注目を集めます。それまで世界各地の戦争映像を独占していたアメリカの放送局を押しのける放送局が登場したことは、アメリカ政府が戦場の映像をコントロールできなくなったということでもありました。当然、アメリカはアルジャジーラを目の敵にするようになります。

 たしかに「対テロ戦争」によって、この放送局は世界的なメディアの領域で確定した地位を占め、124のアラブの衛星放送局のなかでも目立つようになった。経営陣によれば、アフガニスタンのスクープおかげで、アメリカとカナダのネットワークの20万人の契約視聴者に、毎週、2500人の新規の契約視聴者が増加したという。・・・BBCが発表したところでは、アルジャジーラが世界の敵意をかきたてた少なくとも1か月後に、この放送局のヨーロッパの契約視聴者は2倍になった。

<過去のアラブのメディア>
 アルジャジーラの登場以前、アラブ地域のメディアはどんな目的で情報発信を行っていたのでしょうか。
 1876年オスマントルコ帝国の皇帝アブデル・ハーミッドは報道を規制する政令を公布。その政令によって、情報の領域は、皇帝の健康状態と帝国の繁栄に益するものに制限されることになりました。それは植民地化された後も変わらず、1990年代までアラブのメディアは、事実上、その政令を守り続けていました。
 こうしたイスラム圏におけるメディア(報道機関)の存在について、1979年ウィリアム・ルーは3つの分類を行っています。
(1)「動員用の報道機関」
 完全に政権によって操られているメディア(アルジェリア、エジプト、イラク、リビア、スーダンなど)
(2)「体制支持の報道機関」
 反体制派のジャーナリストを迫害する政治体制を支持するメディア(バーレーン、ヨルダン、カタール、サウジアラビアなど)
(3)「様々な報道機関」
 ある程度メディに報道の自由がある国のメディアで、政権批判も可能(モロッコ、レバノン、クエートなど)
「アルジャジーラのおかげで、アラブのメディアにに激変が起きている・・・アルジャジーラはほかのメディアに競合を強制する。それは検閲の壁を粉砕し、アラブ諸国の人々は議論できるテーマのパレットを押し広げる」

ワシントンの平和研究所ジョン・B・オルターマン(2001年)

<汎アラブのメディア>
 客観的な視点を保つために彼らは多くの国でタブーとされているイスラム教の宗教指導者や政府に対する批判的な見解を紹介しています。そのためにアルジャジーラが歩み出した道は、独自であると同時に危険な道でもありましたが、そのおかげで、イスラム圏の多くの国の大衆に受け入れられ、信頼される「汎アラブ的」存在となりました。

 チュニジアの合法的な対立政党の党首は、2004年はじめに、この10年間で同国のTVにでる機会は8分間しかなかった・・・と主張した。これはアラブ世界に、対立する見解の表明に大きな障害があるということである。アルジャジーラは地域の現代史ではじめて、イスラミスト(イスラム化推進者)、ナショナリスト、フェミニストの反対派を目に見えるようにし、耳に聞えるようにした。かれらは主張を明確にし、汚職を告発し、公的な自由を口にできるようになった。・・・
 競合相手が強くなっても、アルジャジーラは伝統的な組織網から完全に解き放たれた情報を連続的に送る、汎アラブ主義のただひとつのメディアでありつづけている。
・・・

 そうした姿勢を保つため、アルジャジーラはスタッフにも多様性をもたせています。様々な立場、国、宗派に属する人を採用することも大事なことでした。

 連続的な情報メディアであるアルジャジーラは、格調正しいアラビア語で放送して、アラブ人とイスラム教徒の二重のアイデンティティーを主張する。それは同時に世界中の亡命者と(パレスチナを中心とする)国外移住者に接触して、全世界に広がるアラブ・コミュニティーを反映し、まら新たに創設する。
 ドーハを本拠とするこの放送局には、カタール人のスタッフは20%しかいない。知られているように、ジャーナリストたちは15カ国以上のアラブのべつの国籍をもっている。アルジャジーラはアラブ・イスラム世界を形成する対立関係を解読し、わかりやすくすると主張する。アルジャジーラのジャーナリスティックな報道の73%以上が、アラブ諸国の問題に集中する。


 アルジャジーラはあらゆる問題に自由に対処可能なメディアとして活動しています。

 アルジャジーラにはタブーも社内検閲もなく、地域の諸国の具体的な政治的・社会的最優先事項を報道する。それはイエメンのTVが報道したことのないカート - イエメンで非常に多用されるニシキギ科の常緑低木アラビアチャノキの葉を使った幻覚剤 - の消費を問題にする。
 この局はモロッコのメディアに禁じられている西サハラの紛争の拡大を報告し、西サハラの部族サラーウィー族に発言の機会をあたえる。
・・・

 アルジャジーラはイスラム教と政治との対立というそれまでタブーとされていた領域にも挑戦しています。

 アルジャジーラはかつては絶対に許されなかった、アラブとイスラム教の現状を報道する。つまり政治的・社会的対立を目に見えるようにし、知的階級と聖職者に発言させて、事前の検閲のない討論に視聴者を参加させることができる。
 アルジャジーラはアゴラ(古代ギリシャ市民の集会場)の役をはたし、イスラム性とアラブ性の多様性を反映して、アラブ世界の公的な空間の国家的管理に反論する。


 アルジャジーラはそれまであり得なかった女性スタッフの採用もいち早く行いました。

 アルジャジーラでは最初から、女性キャスター、レポーター、討論の司会者、戦争の特派員、スポーツ関係と政治関係のジャーナリストあどとして、編集面で重要な位置を占めてきた。その意味でも、このTV局は女性の活動的で積極的なイメージを主張し、宗教的・世俗的なすべての権力による女性の排斥に異議を唱えた。アルジャジーラははじめから、公的・政治的生活に女性を参加させるためいくつもの番組を制作した。

 こうしてアルジャジーラは、イスラム圏だけでなく広く世界全体で多くの視聴者を獲得する影響力の大きなメディアへと成長することになりました。

・・・アルジャジーラは第一次湾岸戦争にさかのぼる、西側の支配的なメディアとアラブ世界との断絶を引きずり、さらに激化した。この放送局は西側のメディアに対抗し、アラブ世界やイスラム世界と、一般に世界についての意味を物語の独占権を競い合っている。アラブの視聴者たちはもう、アメリカの選挙情勢を知るためにCNNを見なくてもすむし、イランの選挙の大きな争点を理解するためにBBCを必要としなくなった。さらにはフランスの学校えイスラムのスカーフを着用が禁じられたことに関する論争を追跡するために、『ル・モンド』を読む必要はなくなった。

 こうしてイスラム圏の国々の多くと対立関係にあるアメリカにとって、アルジャジーラはそれらの国々をつなぐメディアとして無視できない存在となりました。常にアメリカはアルジャジーラの放送内容をチェックし、反米的な内容についてはすぐに抗議を行い圧力をかけ続けるようになります。

「アルジャジーラは確実性のないビンラディンのカセットを放送したことがない。われわれはワシントンの自社スタジオに、アメリカ側の高官とアナリストと、放送された内容にすぐに詳細に答えることのできる論説委員を配置している」
アルジャジーラのワシントン支局長

 2001年9・11同時多発テロ事件後、アメリカは国内の情報を徹底的に監視するようになり、2002年2月には、ペンタゴンに「戦略的影響局」が設立されました。それはアメリカ軍が国内外のメディアに対して情報の歪曲を行う目的で作られた新たな組織でしたが、「報道の自由」を認めるアメリカ議会はさすがにその違法性を指摘し、計画は中止になりました。
 2003年にはアメリカ議会から3500万ドル近い援助を受けてラジオ放送局「サワ(調和)」が開局。
「中東の人たちとアラビア語で庶民的、直接的な接触を経験すれば、長期的に見てアメリカの利益に貢献することになる」
 さらにアメリカは衛星総合TV放送アルフッラの設立にも関わっています。(アラブ連盟22カ国に中継)

 アルジャジーラへの干渉は、様々な形で行われ、ついには直接的に武力による攻撃を仕掛けたと考えられる事件も起きています。

 2003年3月24日、ウォール街にいたアルジャジーラの二人の特派員が認証を剥奪された。26日にはアルジャジーラのアラビア語のサイトが妨害を受け、ページにアメリカ国旗があらわれた。おなじ日に英語のサイトがブロックされ、アメリカのホスティング契約が一方的に解除された。そして、9月まで再開されなかった。4月2日には、チームが宿泊していたバソラのホテルが爆撃された。アルジャジーラの車がバグダッドでアメリカ軍の射撃の的になったのは、4月7日のことだった。翌8日には、庁舎のある一角にあった取材本部が爆撃を受け、もっとも若い報道員のタリク・アイユウブが殺害された。

 アルジャジーラは、カタールという母国の立場とジャーナリストとしての立場のバランスをとりながら、親アメリカの立場と反イスラムという立場のバランスをとり、シーア派やスンニー派などイスラム教の宗派間のバランスもとることで、その地位を確立したといえます。
 ただし、そのバランスは西欧諸国の間で考えられているバランスとは微妙に異なることもおさえる必要があります。あくまでもアルジャジーラはイスラム圏の文化・宗教に基づいてニュースを判断・報道しているのです。彼らの立場は基本的にイスラエルに批判的な立場です。(これは反アメリカ的であっても、世界的には主流派と考えていいはずですが・・・)

・・・最初に明確にしておかなければならないことがある。それはアルジャジーラがアラブのほかのメディアとおなじく、イスラエルによるパレスチナ、シリア、レバノンの領土たいして中立でないことである。アルジャジーラはそれどころか、このレジスタンス運動を強調する。それに局のジャーナリストたちは「テロリズム」と「レジスタンス運動」をたびたび区別するが、これはヨーロッパやアメリカのメディアではほとんど見られない現象である。

・・・アルカラダ―ウィによれば、パレスチナ人は「戦争状態」にあり、どんな方法を使っても「土地、家族、祖国、近親者、血統、宗教」を死守しなければならない。かれは「殉教作戦」を「自爆襲撃」と表現する、アルジャジーラをふくむ衛星TV放送局を批判した。アルカラダ―ウィから見て、すべての「イスラエル社会が軍事社会である」以上、市民と軍人の標的を区別することはできない。アルジャジーラは徐々に用語を調整し、「殉教作戦」と表現することにした。

 それでも彼らはイスラエルを「憎むべき敵」と単純に見なさず、報道の対象として平等に扱うことも忘れていません。そこが他のアラブ系メディアと最も異なる点かもしれません。

 イスラエルとカタールのあいだに良好な関係があったおかげで、アルジャジーラはラマラ支局を開設し、イスラエル特派員をおいて、自社のジャーナリストとスタッフのビザと認証を手にすることができた。この関係はまた紛争の扱いにも反映された。アルジャジーラはイスラエルの右派と左派の責任者たちに系統的に発言させ、連続的に情報を送るはじめてのTV放送局になった。

 カタールの放送局でありながら、彼らは時にそのカタール政府に対し反体制的な立場をとる必要にも迫られています。イラク戦争においては、アメリカの協力する立場だったカタール政府に対し、その逆の立場でアメリカの攻撃を批判する側にまわっているのです。これは大きなジレンマでした。

 アルジャジーラはイラク侵略戦争で、ふたつのパラドックスに直面した。アルサイリヤの米中央軍司令部から、わずか数キロの地点にあったアルジャジーラは、カタールが決定的に戦争にかかわっても、帝国的秩序に対する異議申し立てという路線を維持しなければならなかった。アルジャジーラはまたアラブの住民がほぼ一致して戦争に反対したが、イラクの正当で緊急な民主的要求を考えて戦争を甘受し、バース党の政治体制から住民を解放する準備をしなければならなかった。

 アルジャジーラはまず、戦闘状況を伝えることばを選別した。たとえば「対イラク戦争」を「侵略軍」に変えて報道した。またペンタゴンに近い専門家たちが特別に使う用語を調査し、どれも自社の報道から除外した。そうしたなかには「同盟軍」「地域の安定化」「レジスタンス運動の共鳴者の中立化」などがあった。

 微妙なバランスの上で独自の客観的な視点を保ち続けているアルジャジーラが、今後も同じようにバランスの取れた活動を続けられるか?それとも、そのバランス感覚を失ってどちらかへと傾いてゆくことになるのか?
 21世紀の世界が今後どうなって行くのか?その未来を占う上で、アルジャジーラの立ち位置の変化が重要なヒントになることは間違いなさそうです。
 どちらにしても、世界はアルジャジーラの映像を見続ける必要がありそうです。

<参考>
「アルジャジーラとはどういうテレビ局か」
 2004年
Al - Jazira,mirouir rebellet et ambigu du monde arabe
(著)オルファ・ラムルム Olfa Lamloum
(訳)藤野邦夫
平凡社

世界を変えた大事件へ   トップページヘ