ガラスの英雄ともうひとつの中国


- レスリー・チャン(張 国栄Leslie Cheung) -

<香港近代史とレスリー>
 中国返還後も香港は発展を続けていますが、中国本国との関係は未だに不安定なままで、2014年にも行政長官選挙に民主派が立候補できるよう要求するデモが激化して、国全体を巻き込む騒動になりました。そんな中国と香港の関係は、なかなか日本に住んでいるとわかりにくい問題です。「レスリー・チャンと香港」(松岡環著)という本は、そうした中国と香港の関係がどう変化してきたのかを一人の映画俳優・歌手の人生を通して描いた香港近代史の書になっています。
 著者自らが記しているように、主人公であるレスリー・チャンの大ファンであるがゆえに、彼の死の真相に迫りきれなかったのは残念です。しかし、その分、客観的に香港の近代史をたどりながら、社会がどう変化してきたのかを知るには素晴らしい本といえます。
 この本の主人公であるレスリー・チャンは、あの名作「さらば、わが愛/覇王別姫(はおうべっき)」や「チャイニーズ・ゴーストストーリーズ」などで知ってはいましたが、歌手としての活躍はほとんど知りませんでした。それに彼の自殺の理由についても・・・。とうわけで、ここではレスリーの生涯と共に香港の近代史についても勉強しようと思います。

<レスリーの生い立ち>
 レスリー・チャン(張 国栄Leslie Cheung)が生まれたのは、1956年9月12日。香港の繁華街にある高級紳士服店の10人兄弟の末っ子としてでした。家は裕福で、彼は恵まれた環境で育ったといえます。彼が小学生の頃、香港にビートルズがやって来たことから、香港でもバンドブームが起きました。
 1966年に中国で文化大革命が始まると、紅衛兵たちが叫んだ「造反有理」(謀反には理由があるという主張)というメッセージは香港にも波及。1967年には香港フラワー工場で労働争議が始まると、多くの低所得者層がその怒りを工場や企業に向け始め、それが反英闘争、反政府闘争へと発展します。政情不安と今後への不安が高まったため、この時期、香港から海外へと移民する人が急増しています。(香港は小さな社会である為、一度事件が起きるとその影響はすぐに社会全体に影響を及ぼす傾向があります)
 1971年、レスリーも多くの富裕層と同じようにイギリスの高校、大学に留学します。こうした海外留学は、香港に大学が少なかったせいもありますが、将来への不安、特に50年後の中国返還を見すえての投資でもありました。ところが、留学中に彼は父親が病で倒れ、そのままこの世を去ったことで、彼の人生は大きく変わることになります。
 父親の死で経済的基盤が失われたため、彼は留学を断念。帰国して働き始めることになりました。幸い彼は中学生の頃から、バンドブームに乗って音楽活動を始めていたことから、歌手として生きる道が拓けました。様々な音楽コンテストに出場しながらチャンスを待ち、1977年に麗的電視(RTV)というテレビ局と契約し、デビュー曲「I Like Dreamin'」(ケニー・ノーランのヒット曲カバー)を発表します。当時、テレビ局は映画会社でもあり、レコード会社でもあったので、彼は俳優としてテレビドラマにも出演し始めます。ただし、作品に恵まれなかったこともあり、歌手としても、俳優としても彼は鳴かず飛ばずの状態が続きます。

<テレビ黄金時代と映画新時代>
 1970年代半ば、香港のテレビ界には新しいテレビ局が誕生。経済発展と並行してテレビ製作の現場も急激に活気を帯びるようになり、新しい人材が次々に登場するチャンスが生まれた時代でした。80年代に入り、「香港ニューウェーブ」の中心的存在となる監督たち、ツイ・ハーク、アン・ホイ、アレン・フォンらはこの時期にテレビで働き始めています。この動きは香港だけではなくアジア全体に共通していて、台湾ではホウ・シャオシェン、エドワード・ヤン、韓国ではイ・チャンホやペ・チャンホらが同世代に属しています。
 1970年にショウ・ブラザースから独立してレイモンド・チョウが設立したゴールデン・ハーベストはそうした映画界の中心になった映画会社です。このゴールデン・ハーベストにとって最初の収穫は、なんといってもブルース・リーの大活躍でしょう。1973年に公開され世界中で一大ブームを巻き起こした「燃えよドラゴン」のおかげでブルース・リーの映画はどれも世界中で大ヒット。次いでマイケル・ホイのコメディー映画「Mr.Boo !」(1976年)もまた大ヒット。(日本でも大ヒットしました)
 1978年には新たなスター、ジャッキー・チェンが「スネーキー・モンキー」、「ドランク・モンンキー」のヒットで一躍スーパー・スターの仲間入りを果たします。彼もまたゴールデン・ハーベストと契約し、監督兼俳優として香港映画の黄金時代を築くことになります。

<レスリーの活躍開始>
 レスリー・チャンの映画俳優としての活躍もまたこの時代の変化に乗るようにして始まったといえます。香港ニューウェーブの代表監督のひとりパトリック・タムの「嵐の青春」に出演した彼は、この作品で初めて俳優として演技を評価されます。そこで彼は映画俳優に専念するためにRTVとの再契約を見送ります。
 1982年、RTVとの契約終了後、彼はマネージャーとの間にトラブルが発生。仕事がなく厳しい時期を送っています。翌年、彼は日本の歌謡曲カバーを中心とするアルバムを発表します。(アルバムのタイトル曲は、山口百恵「さよならの向こう側」)ここから彼の歌手活動が本格化します。
 1980年代は日本人アーティストが香港でライブ活動を積極的に行い始めた時代で、日本の歌謡曲が数多くカバーされ、ヒットもしています。レスリーはこうした日本の歌謡曲ブームに乗ることで、歌手としての成功を手にすることになりました。この時期のレスリー最大のヒット曲は、吉川晃司のデビュー曲「MONICA」でした。
 1984年、イギリスと中国の間で香港の返還条約が調印され、1997年7月1日に香港が中国に返還されることが決まりました。しかし、この返還の決定は、香港に住む人々にとっては、政権が資本主義から共産主義へと大転換することと同義ともいえる衝撃でした。

<香港映画の変化>
 香港の人々が将来への不安を感じる中、映画界では、そうした不安感を忘れるためかコメディー映画とアクション映画ばかりがヒットするようになります。ジャッキー・チェン、サモ・ハン・キンポー、ユン・ピョウらのアクション映画。日本でも一大ブームとなった「キョンシー・シリーズ」などは、特に有名です。
 1986年、そうした香港映画界の流れを大きく変えた作品が現れます。「香港ノワール映画」のブームを巻き起こすことになった「男たちの挽歌」(ジョン・ウー監督)です。この映画の世界的大ヒットにより、次々と香港ノワールの作品が作られるようになり、2002年には香港ノワールの最高傑作「インファナル・アフェア」が誕生します。(この映画のリメイク作により、無冠の帝王だったマーティン・スコセッシはついにアカデミー賞を受賞することになります)
 「男たちの挽歌」をヒットさせたツイ・ハークは、チン・シウトンを監督に起用し次なるヒット作を生み出します。1987年公開でレスリー・チャンが主役を演じた大ヒット作「チャイニーズ・ゴーストストーリーズ」です。
 この年、レスリーはキャピタルからシネポリーという音楽出版会社に移籍。この時期から彼はより日本色を強め、日本人の作曲家、アレンジャーなどとともにオリジナル曲を制作するようになります。録音もより洗練された音を追及するための日本のスタジオで行うなどしていました。

<突然の引退発表>
 1987年から1988年にかけて、香港は返還まで10年という区切りということもあり、移民のブームが再び起きました。この時、レスリーもまた移民を決意。カナダに家を購入します。そそて、1989年9月突然引退を発表します。人気絶頂であるにも関わらずなぜ?多くの人が驚きました。その原因の一つとして、この年、6月4日に起きた天安門事件があったと言われます。この年5月、彼は日本で東京歌謡祭に出演していましたが、同時期に中国では各地で民主化に向けた民衆の運動が活発化、北京の天安門広場には数万人の人々が集まっていました。そうした中国での民主化運動にエールを送るため香港でも十数万人規模の抗議集会が開催され、ジャッキー・チェン、アニタ・ムイ、ビヨンドなど多くのスターたちが参加。テレビ中継を見ていたテレサ・テンも会場にかけつけて、「家在山的那一邊」を歌っています。しかし、こうした活動は6月4日、軍隊による攻撃によって悲劇的な結末を迎えます。
 本国で起きた悲劇は香港の人々の心にも大きな影響を与えましたが、さらにレスリーに衝撃を与えたのは友人でもあった俳優ポール・チョンの投身自殺です。30歳という若さでマンションの26階から飛び降りたその死は、レスリーに人生を見直させるきっかけとなったかもしれません。

<映画俳優としての活躍>
 1990年1月22日のラスト・コンサートを最後に引退したはずのレスリーですが、契約上映画に出演する必要がありました。そのうちの1本が、その後世界的な監督となるウォン・カーウェイの出世作「欲望の翼」(1990年)でした。当時、世界的に流行していたMTVの影響を受けて作られたこの作品は、興業的にはヒットしなかったものの批評家からは高く評価されました。香港のアカデミー賞にあたる香港電影金像奨で、この作品は最優秀作品賞、監督賞、主演男優賞、撮影賞、美術賞を受賞しています。レスリーは引退をしてしまったにも関わらず、初めて主演男優賞を受賞。引退してカナダに住み始めていた彼は授賞式に出席しなかったのですが、もう一度映画に出て評価されたいという思いが生まれたのではないでしょうか。すると、再び彼は映画に出演する必要に迫られることになります。
 1991年7月に起きた中国揚子江の大洪水により、華東地方は大きな被害を受けました。そのため、香港では様々なチャリティー・イベントが企画されます。そんな中、ツイ・ハークらが共同監督してオールスター総出演によるチャリティー映画「豪門夜宴」を撮ることになり、彼にも出演オファーが来たのです。こうして、彼はいつの間にか映画俳優として活動を再開。そこに本国中国から出演のオファーが届きます。この時期の中国映画を代表する傑作「さらばわが愛 覇王別姫」です。中国伝統の京劇スターの人生を描いた大作で彼は同性愛の役者を演じていました。この作品は、カンヌ国際映画祭で最高賞となるパルムドールを受賞。いよいよレスリーの名前は俳優として世界的な存在となります。
 1994年、再び歌も歌うようになった彼は映画「君さえいれば」で音楽プロデューサーを演じ、自ら3曲歌っています。この時の曲は当時世界的にブレイクしていたディック・リーの曲でした。この頃からいよいよ彼は歌手活動も再スタートさせます。

<歌手としての活躍>
 1996年、彼は香港最大の会場、香港コロシアムで7年ぶりのコンサートを行い、翌年には来日し、東京、大阪でもコンサートを行っています。この時期の彼は中性的な魅力を意識したラメを多用したシースルーのフィットする衣装を身に着け、男らしさではなく美しさを前面に出した演出で舞台に登場していました。当時、すでにレスリーがゲイらしいという噂にありましたが、もうその噂を彼は気にせず自分の生き方を表に出すようになっていたようです。
 彼のイメージは映画「さらばわが愛 覇王別姫」にも生かされていましたが、1997年のウォン・カーウェイ作品「ブエノスアイレス」では、トニー・レオンとゲイのカップルを演じており、いよいよ彼のゲイ・イメージは定着しつつありました。残念ながら、中国でゲイであることは、「家」の発展において明らかな障害となるため、明らかなタブーとなっていました。当然、中国、香港における彼の人気には陰りが生じるはずでした。

<香港の危機とレスリー>
 1997年、予定通り香港は中国に返還されます。同じ年、7月にタイの通貨が急激に下落したことをきっかけにアジア全体の通貨危機が訪れます。タイ、韓国、インドネシアは特に影響が大きかったのですが、香港にもその影響が及んでいました。そして経済的な落ち込みは、映画界にも波及することになりました。その後も、彼はコンスタントに映画に出演し続けますが、ホンコンの映画界全体がかつての勢いを失い始めていました。
 香港映画にとっては、韓国映画ブームやアジア各国やハリウッド映画の流入も影響は大きく製作本数自体が年々減る状況にありました。そうした厳しい状況の中、レスリーは長年の夢だった映画監督進出を目指しますが、実現しかけていたそのためのプロジェクトに出資するはずだった中国人実業家が公金横領の罪で逮捕されてしまいます。レスリーにとって、このプロジェクトの失敗は大きなショックだったのでしょう。さらにそんな彼の沈んだ気分に追い打ちをかけるように、香港を衝撃的な事件が襲います。
 2002年に中国の広東省で発症していた「SARS」(重症急性呼吸器症候群)が、2003年2月香港のメトロポール・ホテルで発症。(SARSに感染していた広東省の医師がホテルに宿泊していたため)この感染症は一気に香港中に感染。発症者は1700名を越え、そのうち299名が命を落とすという緊急事態となりました。狭い国土に住む人々ゆえの悲劇でしたが、その影響は香港経済全体を揺るがすと同時に国民全体に精神的落ち込みをもたらすことにもなりました。
 当時、すでに精神的落ち込み状態でうつ病だったといわれるレスリーにとっては、厳しすぎるものでした。
 「SRAS」のニュースが世界中に広まる中、2003年4月1日、彼はマンダリン・オリエンタル・ホテルの24階にある会員制クラブの窓から飛び降り、命を落としました。(当日は、SARS対策の為に普段は開けていない窓を換気のために開けていました)

 中国という巨大な国家の一部でありながら、まったく異なる経済・政治体制の都市、香港。あまりに小さな土地であるがゆえに、中国だけではなくアジア各国からの影響を受けやすく、経済的には豊かでありながらガラスのようにもろい。そんな香港の特質は国民の気質にも影響を与えてきたのかもしれません。香港が生んだスーパー・スター、レスリー・チャンは、その意味でも香港を象徴する存在だったのかもしれません。

<参考>
「レスリー・チャンの香港 張國榮的香港世界」
 2008年
(著)松岡環 Tamaki Matsuoka
平凡社

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