
- 黒人たちの民族大移動(Great Migration)
-
<ゆっくりとした事件>
普通「事件」というのは「何年何月何日」に起きた出来事と記されるものです。しかし、中には数十年かけてゆっくりと進行する事件もあります。
20世紀前半、アメリカで起きた黒人たちの南部から北部への大移動(Great
Migration)は、まさにそんな「ゆっくりとした事件」のひとつです。彼らの移動は、地域の社会構造だけでなく文化、経済などをも大きく変え、最終的にはアメリカ全体を大きく変えてしまいました。この民族大移動の原因は何だったのか?この移動が何をどう変えていったのか?を追ってみたいと思います。
<南北戦争の終結>
1863年南北戦争で北軍が勝利をおさめたことで奴隷制度は廃止となり、アメリカに住むすべての黒人には法的な自由が与えられました。しかし、黒人たちにとっての「自由」とは「これからは勝手に生きなさい」とご主人様の家を追い出されることでもありました。
いざ、小作農として自分たちの手で綿花などを作り始めてもそう簡単に自立できるわけではなく、結局は白人の地主から借金をすることになり、奴隷同然の生活に逆戻りする場合がほとんどでした。実際、黒人農民の75%は小作農となり、土地を離れることも許されず実質的な奴隷状態が続くことになりました。そのうえ1877年南北戦争の終結により、北軍が南部から完全撤退してしまうと状況は以前よりも悪化しました。
<北部へ>
こうして、それまでかろうじて生かされていた彼らは情け容赦のない死の危険にさらされるようになり、生き延びるため、住み慣れた南部の地を離れ、仕事を求めて北部へと旅立たざるをえなくなったのでした。幸いシカゴやデトロイトなど北部の工業都市はアメリカの好調な経済発展に支えられて人手が不足していました。そのため、南部からの移住者は苦しいながらも、それまでの何倍もの賃金を工場で稼ぐことができました。特に第一次世界大戦を境にヨーロッパからの移民が途絶えると急激に黒人労働者のニーズが増し、1930年代の不況時代に一時的に鈍ったとはいえ、南部からの移住者は増加を続けました。
北部に移住した黒人たちは、それぞれの街で小さなコミュニティーをつくるようになり、それは後にゲットーGhettoと呼ばれるようになります。さらに、それぞれの地域からはラジオの放送局や新聞、さらには大学などの文化的な施設も少しずつ育ってゆき、都市部ならではの文化圏を形成するようになりました。
<なぜシカゴだったのか?>
1900年黒人人口の90%は南部に住んでいました。しかし、それから50年後の1950年には50%が北部へと移住しています。そして、その移住先として最も多かったのが北東部最大の都市シカゴでした。ではなぜ、多くの黒人たちは移住先としてシカゴを選んだのでしょうか
ジャズ評論家の油井正一氏は3つの理由をあげています。(スイングジャーナル社「ジャズの歴史物語」より)
(1)アメリカ最大の都市ニューヨークが南部の田舎者にとっては、あまりに洗練されていて近づきがたかった。それに比べ、シカゴは農業生産物の集積地でもあり、南部の香りが残っていた。
(2)南部から向かうには、ニューヨークより近く、先ずはシカゴへ行きダメだったら帰ることも可能だったから。
(3)シカゴの街は商業の街ニューヨークと違い工業都市でもあったため、黒人労働者の働き口がいくらでもありました。(これは自動車産業の中心地デトロイトの街にも当てはまります)そのうえ、南部の農場では日給が50セントから2ドルの間だったのに比べ、北部の工場では2ドルから5ドルの賃金がもらえたのです。
<北部への誘い>
この頃、黒人たちの自立にともない彼らに情報を提供する産業が誕生します。1905年にロバート・S・アボットという人物が創刊した「シカゴ・ディフェンダー」という週刊の新聞は、そんな情報誌の中でも特に有名な存在です。この新聞の登場によって、それまで口伝えでしか伝わらなかった黒人たちのための情報が北部だけでなく南部にまで伝えられるようになりました。
実はこの新聞が果たした役割りの中には、北部への大移動に関するものがあります。この新聞は南部の綿花農園で働く黒人たちが一ヶ月働いてやっと得られる賃金を、シカゴの工場なら1日で稼げるということを伝え、そのための就職情報だけでなく、移住に関する情報や仕事を確保するための方法を教えることで、黒人たちの北部への移住を積極的に促進する役目を果たしたのです。
当然、南部の諸州ではこの新聞が発禁処分となりましたが、鉄道の寝台車で働くポーターたちが秘かに配送を助けることで南部の田舎町まで広がるネットワークを築き、いつの間にか20万部もの発行部数を誇る黒人文化の担い手へと成長していたのでした。
さらに凄いことに、この新聞の社主アボットは鉄道会社と交渉を行い、北部へ移住を行おうとする黒人たちのための団体割引料金を設定させました。
<ポーターの活躍>
モントゴメリー・バス・ボイコット事件の主人公ローザ・パークスの友人で彼女の活動をバック・アップしたNAACP(全米黒人地位向上委員会)のモントゴメリー支部長エド・ニクソンも、列車のポーターでした。全米を移動する列車の仕事は各地の状況を知り、その情報を伝えることができるという点で黒人たちにとって最も信頼できる情報源だったのかもしれません。このポーターたちの働きは黒人たちの移動や逃亡の大きな助けとなっただけでなく、勇気を与える存在として精神的支えともなっていたのです。
<北部での生活>
南部の黒人たちはこうして北部からの情報を入手し、先ずは父親がひとりで北部へと向かい、そこで仕事と住む部屋を確保。その後、残りの家族がある夜、秘かに北部へと旅立つというのが基本的な流れだったようです。
当時、北部にやってくる黒人たちのため「ホット・ベッド」アパートというものがありました。それは8時間交替で部屋とそこに置かれたベッドを使う家族が入れ替わるという仕組みのアパートのことで、家賃を安くするための工夫として無くてはならないものでした。(ベッドが常に暖かい状態にあるから「ホット・ベッド」なのでしょう)
着の身着のまま仕事もなくやったきた黒人たちは、こうしたアパートをスタート地点として北部での生活を始めていったのです。
<北部への移住の増加>
その後、第二次世界大戦中には、男たちの出征により工場で働く労働者が極端に不足したため、鉄道やバスの無料券が配られて北部への移住が加速されることになります。さらに、戦後も戦場から戻った黒人兵の多くは故郷の南部へ戻ることなく北部を中心とする都市部に定住しました。若者たちにとって良い思い出のない南部の地は、戻るべき故郷とは思えなかったのです。
さらにもうひとつ、黒人たちの移住を加速させたものがあります。それは自動綿摘み機の発明・実用化です。元々第二次世界大戦中に登場し、いっきに需要が高まった化学繊維によって綿花の価格が下がり、それに対応するため自動化が加速してゆきました。こうした変化により綿花農場に必要な労働力が過剰となってゆきました。そのために、それまで黒人たちが北部へ移住することを妨害していた農場主たちにとっても、黒人たちを農場に引き留める理由がなくなったのです。
<黒人文化の大移動>
ところで、こうして北部へと旅立った黒人たちは農業労働者だけではありませんでした。南部の黒人社会の中心だった農民たちが移動することは、その地域に住む他の職種の人々の移動をも促すことになりました。(場合によっては村の住民すべてが夜逃げ同然に移住する場合もありました)そして、その中には人口の減少によって仕事場を失ってしまった数多くのミュージシャンもいました。
1933年、連邦禁酒法が廃棄され、それまでアルコール類を販売できなかった北部の都市でも公にクラブを営業できるようになりました。そのため、店内で演奏するミュージシャンの仕事場が増えたことも、ミュージシャンたちの移動を加速する原因になりました。
特にシカゴの街はそうした南部から移住してきたミュージシャンたちにとっては最高の土地でした。例えば、ブルース畑ではマディー・ウォーターズ、ハウリング・ウルフ、サニーボーイ・ウィリアムソンU、リトル・ウォルター、エルモア・ジェームス、ウィリー・ディクソン、ジョン・リー・フッカーなどが南部から流れ着きました。彼らはそれぞれがシカゴのブルースに新しい血を注ぎ込み、ついには「シカゴ・ブルース」という言葉を生み出すことになります。
もちろん、ジャズ・ミュージシャンたちもまた北への旅に出ています。1917年、第一次世界大戦が始まって、軍隊の街だったニューオーリンズから兵士たちがいなくなり、そのため売春地区ストーリーヴィルが廃止されてしまいました。かつては栄華を極めたクラブで働いていたミュージシャンたちの多くが、そのために職を失ってしまいました。こうして、彼らは仕事を求めて、アトランタ、メンフィス、セントルイス、そしてスウィング・ジャズ時代にその中心地となるカンザスシティーへと移動して行きました。もちろん、北部の都市、シカゴやニューヨークへも多くのミュージシャンが移住し、その地に永住することになります。そして、そこでブルースやラテン、ボサノヴァなどと融合しながら新しい音楽を生み出して行くことにもなるのです。
<現在にいたる流れ>
かつて20世紀の初めには黒人人口の90%が南部に集中していました。しかし、多くの黒人たちが第二の故郷だった南部を離れてしまった21世紀、南部の主役は白人でも黒人でもなく、ヒスパニック系へと移り変わっています。(中南米からの移民とその子孫たち)
かつて、あの「ルーツ」で描かれた黒人たちの過酷な奴隷として生活の記憶は、遠い過去のものになろうとしているのかもしれません。しかし、21世紀に入って起きたニューオーリンズの洪水災害における差別的な救助作業の遅れはその苦い記憶を再び呼び覚ますことになりました。未だに人種差別という言葉は死語にはなっていないのです。
黒い魂の歴史へ
トップページヘ