- オールマン・ブラザース・バンド Allman Brothers Band -

<オールマン・ブラザース・バンドの物語>
 オールマン・ブラザース・バンドは、デュアン・オールマンという天才ギタリストを生んだ元祖サザン・ロック・バンドとして、歴史に名を残しているバンドです。しかし、彼らについて、もう少し掘り下げてみると、彼らをカテゴライズしているサザン・ロックという枠を越えたロックのダイナミックな変動の歴史が見えてきます。そして、オールマン兄弟を中心とする男たちの友情と悲劇のドラマも、まるで映画のように感動的です。だからこそ、当時を知るロック・ファンにとって、オールマン・ブラザース・バンドは、カルト的な人気をもつ、伝説的な存在となったのです。

<オールマン兄弟、ロスでの挫折>
 デュアンとグレッグのオールマン兄弟は、1946年と1947年にテネシー州ナッシュビルに生まれました。デュアンが12歳の頃、家族はフロリダに引っ越し、そのころから二人はギターを弾き始めました。そして、アワー・グラスというバンドを結成し、ミュージック・ビジネスの中心地、ロスに進出しました。彼らはそこでリバティー・レコードと契約し、レコード・デビューを飾りました。しかし、彼らは「南部出身のアイドル・バンド」として売り出され、思うような活動をさせてもらえませんでした。結局、彼らは結果を残すことができないまま、ロスで解散。グレッグ以外のメンバーは、フロリダに戻って行きました。

<デュアン・オールマンのR&B修行>
 フロリダに戻って、活動を続けていたデュアンに、ある日マッスル・ショールズ・スタジオのプロデューサー、リック・ホールから連絡が入りました。それは、ウィルソン・ピケットの録音でギターを弾いてみないか、という誘いでした。こうして、デュアンのR&B界におけるセッション・マンとしての活動が始まりました。ウィルソン・ピケットをはじめ、アレサ・フランクリン、パーシー・スレッジ、クラレンス・カーターなど、アトランタのR&Bを代表するそうそうたるアーティストたちやボズ・スキャッグスなどホワイト・ブルース系ミュージシャンたちのバックを務めながら、彼は当時絶頂期にあったサザン・ソウルのフィーリングを身体で覚えて行きました。

<新たな挑戦、オールマン・ブラザース・バンドの結成>
 しかし、デュアンはスタジオ・ミュージシャンで満足することはなく、すぐにメンバーを集めるとバンド活動を再開しました。こうして、オールマン・ブラザース・バンドがスタートしたのですが、そんな彼らに目をつけた人物がいました。それは、かつてオーティス・レディングのマネージャーを勤め、アトランティック・レーベルを超一流の会社に押し上げた貢献者の一人、フィル・ウォルデンでした。彼は、デュアンのスタジオ・ワークを聞いて感動し、彼のバンドを後押しすると決意。アトランティックの副社長、ジェリー・ウェクスラーの協力を得て、ジョージア州メイコンにキャプリコン・レーベルを設立しました。

<サザンロック時代の幕開け>
 こうして、南部からロックの新しい波を発信する準備が整い、1969年彼らの記念すべきデビュー・アルバム「オールマン・ブラザース・バンド」が発売されました。それは、南部の田舎町から全米の音楽業界に向けて発せられた初めての挑戦状でもありました。なぜなら、当時西海岸と東海岸の一部の地域以外からロック・アーティストが全米デビューを飾るということはほとんどあり得なく、まして、デビュー後もその土地を離れず拠点とするという前例はなかったのです。
 しかし、彼らは見事にそれをやってのけました。そして、それができたからこそ、それまでのロックとはひと味違う南部独特の香りに満ちソウルフルなフィーリングにあふれた新しいロック・スタイル、「サザンロック」が生まれたのです。

<オールマン・ブラザース・バンドの魅力>
 彼らの売りは、けっしてオールマン兄弟だけではありませんでした。デュアンとともに絶妙のツイン・リード・ギターを聞かせてくれるディッキー・ベッツやその後のサザン・ロックのお家芸ともなったブッチ・トラックスジェイミー・ジョンソンによるツイン・ドラムなど、メンバー全員が主役級の連中でした。そして、これら全員の実力が発揮されるライブこそ、彼らにとって最高の実力を見せることのできる場であり、それを証明してみせたのが、ビル・グレアムが運営するニューヨークのフィルモア・イーストでのライブを録音した「フィルモア・イースト・ライブ」(プロデューサーはトム・ダウド)でした。

<全米のトップ・バンドへ、そして悲劇が>
 このアルバムで、彼らは南部から登場したローカルなロック・ヒーローという評価を飛び越え、いっきに全米ロック界のトップ・ヒーローに近づきました。さらに、この頃デュアンが参加したデレク&ザ・ドミノスの「いとしのレイラ」での名演奏もまた彼の名を世界に知らしめました。しかし、そんな彼らに、試練の時が訪れようとしていました。
 1971年10月29日、「フィルモア・イースト・ライブ」に続く新作アルバム「イート・ア・ピーチ」録音中、久しぶりの休暇を与えられたバンドのメンバーたちは、それぞれの時間を楽しんでいました。
 デュアン・オールマンは、スタジオのあるフロリダから故郷のジョージア州メイコンに戻り、ひさしぶりに大好きなバイクに乗っていました。ところが、そこで突然彼の前に飛び出してきたトラックを避けようとして転倒、そのまま帰らぬ人となってしまったのです。この悲劇的な事件が、メンバーに与えたショックは、当然大きかったのですが、バンドのメンバーたちは、アルバムの録音を続行、二枚組の大作「イート・ア・ピーチ」を完成させ、その底力を見せました。ところが、運命が男たちに与えた試練はそれだけでは済みませんでした。その翌年の11月11日、今度はベースのベリー・オークリィーが同じバイク事故で命を落としてしまったのです。それも、デュアンが死んだ場所のすぐ近くだったといいいます。

<男たちの意地>
 しかし、ここでも彼らは男の意地を発揮します。グレッグ・オールマンとディッキー・ベッツを中心とする音作りに、新加入のキーボード奏者、チャック・リーベルの洒落たセンスが加わったアルバム「ブラザーズ&シスターズ」(1973年)は、大ヒットを記録。このアルバムからシングル・カットされた「ランブリン・マン」も全米第二位まで達し、「ジェシカ」というインストロメンタルの名曲も生みました。なんと彼らは偉大なる長男がこの世を去ってしまったにも関わらず、その後さらに高い地点に到達してみせたのです!

<男たちのその後>
 この後、オールマン・ブラザース・バンドは、1976年に解散、シーレヴェルなどに分裂した後、1977年に再結成されるなど、断続的に活動を続けています。危機の時を乗り切った頃のテンションの高さを取り戻すことは当然できませんでしたが、それでも、彼らは一緒に演奏することを楽しんでいるのでしょう。バンドの新しいメンバーには、きっとこんなことを言っているに違いない。
「若造、デュアンのボトルネックときたら、そりゃあ凄かったぜ。あれだけの奴には、いまだにお目にかかれねえぜ!」
 なんだかサム・ペキンパーの西部劇に出てくるガンマンたちが、ビリー・ザ・キッドの思い出を語っているようです。そういえば「フィルモア・イースト・ライブ」の白黒のジャケット写真は、まるでワイルド・バンチの連中がサンフランシスコに出てきて記念撮影をしたかのように見えなくもない。
 「オールマン・ブラザース・バンド(男ばかりの兄弟たちによるバンド)」なんとも出来すぎた名前です。

<締めのお言葉>
「世界中の女をみんな集めたって、いい仲間の一人には敵わない」
映画「我らの仲間」より(ジュリアン・デュビビエ監督、脚本)

<追悼>
グレッグ・オールマンが2017年5月27日69歳でこの世を去りました。肝臓がんだったようです。
ご冥福をお祈りします。

[参考資料]
「アメリカ音楽ルーツ・ガイド」鈴木カツ(監修)音楽之友社
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