- アレサ・フランクリン Aretha Franklin -

<貴婦人OR肝っ玉かあさん>
 R&B界最高のリズム・ギタリスト、マット・マーフィーを尻にひく、映画「ブルース・ブラザース」でのあのパワフルなかみさん役を見た人にとって、アレサ・フランクリンのイメージは、まさに「ソウル界の肝っ玉かあさん」といった感じに違いないでしょう。しかし、実際の彼女は、少なくとも過去においては、まったく対照的な物静かで常に憂いをたたえた女性であったようです。それこそ、「レディー・ソウル(ソウルの貴婦人)」という呼び名にぴったりだったのでしょう。もしかすると、それは、今でも変わらないかもしれません。

<アメリカの文化とゴスペル>
 僕は中学生の頃、海外ホームステイというやつで、アメリカ西海岸に行ったことがあります。その時、LAとサンフランシスコの間にある田舎町にしばらく滞在しました。時は、1974年春のことです。
 滞在先のファミリーは、ある日曜日、僕を教会に連れていってくれました。実は、僕が育った家庭も、クリスチャン・ホームで、専門的にいうとプロテスタントの長老派に属しています。それは、質実剛健で地味なドイツ系の流れ(ルター派)であり、禁欲を重んじる日本人向けの宗派と言えるのかもしれません。
 しかし、その時、僕が連れていってもらった教会は、それとは別のタイプ、バプテスト派と呼ばれる宗派でした。そうあの「ブルース・ブラザース」で、ジェームス・ブラウンが牧師を勤めていた教会の雰囲気です。(正確に言うとあれは、バプテスト派ではなくホーリネス派という分派でしょう)もちろん、あんなに凄い礼拝のわけはなかったのですが、それでも普段から慣れている教会の礼拝とはまったく違い、そこには神への感謝と生きる喜びが満ちあふれていました。アメリカと日本、宗教が違うのは当たり前の話しですが、同じキリスト教でもあそこまで違うということに、僕はずいぶんと驚かされました。

<アレサと偉大なる父>
 アレサの父親、クラレンス・L・フランクリン氏は、まさにそのバプテスト派の牧師でした。しかし、彼は単に自分の教会で礼拝を行うだけでなく、地方への遊説も行っていて、毎回数千ドルの献金を集める売れっ子牧師でした。それだけではありません。彼の説教を録音したLPは、なんと70種類以上も発売され、どれもかなりの売れ行きだったというのです。
 そんな偉大な父親の元で育ったにも関わらず、彼女の少女時代はけっして幸福ではなかったようです。五人の子供を産んだ彼女の母親は、彼女が6歳の時に家を出て、10歳の時にはこの世を去っていました。そのうえ、多忙な父親はほとんど家を空けていたため、子供たちは雇い人たちの手で育てられたも同然でした。そして、そんな寂しい少女時代の彼女の唯一の楽しみが、教会の聖歌隊で歌うことだったのです。

<天才少女歌手のデビュー>
 こうして、彼女は12歳で早くも教会の聖歌隊のソロをとるようになり、レコードへの吹き込みも行いました。その後、彼女は父親に本格的に歌手としてデビューすることを認めてもらい、「ビリー・ホリデイ以来最高の歌手」という鳴り物入りでコロンビア・レコードと専属契約を結びました。
 デビュー作品は、1960年の"Today I Sing The Blues"で、その後10枚のアルバムを発表しました。しかし、彼女をヒット・パレード向きのポップなアーティストにしようとしたコロンビア・レコードの方針が裏目に出て、まったく彼女のアルバムは売れませんでした。父親譲りのソウルフルなヴォーカルは、型にはまったポップ路線には不向きだったのです。

<アトランティックからの再出発>
 コロンビアのやり方に失望したアレサは、契約が切れた時点で、以前から彼女と契約したがっていたアトランティックと契約をかわしました。ジェリー・ウェクスラー率いるアトランティックは、当時サザンソウルを中心とするブラック・ミュージックの最高峰として、飛ぶ鳥を落とす勢いの人気レーベルでした。そのうえこの時期は、オーティス・レディングがあの名作の数々をMG'sらとともに発表し始める黄金時代の始まりでもあり、アレサはその勢いとともに、ソウルの最前線に再び飛び込むことができました。

<アトランティックでの成功>
 アレサを高く評価していたジェリー・ウェクスラーは、彼女のためにマッスル・ショールズのフェーム・スタジオ所属の一流ミュージシャンたちやメンフィスのホーン・セクションを、わざわざニューヨークまで呼び寄せ、今までにない時間と環境を与えました。アトランティックの本拠地である南部での録音にはなじめなかった彼女も、こうした気配りに、その才能をしだいに発揮し始め、効果がすぐに現れました。まず最初のシングル「貴方だけ愛して」がいきなりトップ10入りのヒットとなったのをきっかけに、「チェイン・オブ・フール」「シンク」(映画「ブルース・ブラザース」で再演)、「愛する貴方を失くして」など、ヒットを連発しました。この当時の彼女は、アトランティック・レーベルとともに、まさに絶好調で、文句なしにソウル界最高の女性ヴォーカリストでした。

<不幸との闘いと神の救い>
 しかし、レディー・ソウルと呼ばれるほどの大成功をおさめながら、彼女はけっして幸福ではありませんでした。彼女のマネージャーも勤めていた夫、テッド・ホワイトは、平気で暴力を振るう男で、結局結婚生活は失敗に終わりました。そのうえ、父親のC.L.フランクリン牧師は、1979年に強盗に撃たれ、昏睡状態に陥ってしまいます。そんな私生活での不幸の影響のせいか、彼女の音楽活動は、しだいにその輝きを失って行きました。それに追い打ちをかけるように、ディスコ・ブームによって、ソウルの時代はいっきに終焉をむかえてしまいました。幸せからも、時代からも見放されてしまった彼女は、再びゴスペルの世界へと戻って行きました。
 1987年の二枚組アルバム「ワン・ロード、ワン・フェイス、ワン・バプティスト」は、そんな時代の彼女の傑作ゴスペル・アルバムと言われています。

<女王復活なるか?>
 90年代も終わりになり、彼女は再び元気を取り戻したようです。1998年発表のアルバム「ア・ローズ・イズ・スティル・ア・ローズ」では、久しぶりに女王の貫禄を感じさせてくれ、あの「ブルース・ブラザース」の続編「ブルース・ブラザース2000」を見る限り、彼女の貫禄はいよいよ女王のそれに見えます。でも、やはり人は見かけによらないものなのでしょうか?
<追記>(2014年5月)
 オバマ大統領就任式に出席した彼女の貫禄はさすが、帽子がまた素敵でした。歌手としてもまだまだ活躍を継続中。
<追記>(2018年)
 2018年8月16日、膵臓癌により、この世を去りました。ご冥福をお祈りします。
 さらば「クイーン・オブ・ソウル」!

<締めのお言葉>
「傷つくのを恐れることは、実際に傷つくよりもつらいものだと、おまえの心に言ってやるがよい。夢を追求している時は、心は決して傷つかない。それは、追求の一瞬一瞬が神との出会いであり、永遠との出会いだからだ」 パウロ・コエーリョ「アルケミスト」より

<参考資料>
「ロック伝説」ティモシー・ホワイト著(音楽之友社)
「アトランティック・レコード物語」ドロシー・ウェイド&ジャスティン・ピカーディー著(早川書房)
「リズム&ブルースの死」ネルソン・ジョージ著(早川書房)

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