- アベベ・ビキラ Abebe Bikila -

<クールな英雄、アベベ>
 僕の記憶にある最初のオリンピックは1968年のメキシコ・オリンピックです。当時、僕は8歳でした。したがって、アベベが裸足で金メダルを獲得したローマ・オリンピックも、それまで不可能と言われていたV2を達成した東京オリンピックも生では見ていません。それでも、市川崑監督が撮った東京オリンピックの記録映画やオリンピックの名場面集などで見たアベベの走る姿は非常に印象深いものがありました。メキシコ・オリンピックでアベベの後継者として見事に金メダルを獲ったマモ・ウォルデの顔はあまり憶えていませんが、アベベの顔ははっきりと憶えています。(ジョン・シュレシンジャー監督のサスペンス映画「マラソンマン」での英雄もしくは神様のような扱いもまた印象深いものがありました)それはたぶん、アベベの顔が黒光りする石に彫られた威厳を漂わせる美しい彫像のように見えたからかもしれません。同じような印象を受けるマラソン・ランナーとして、女子マラソンのヌデレバがいます。彼女のあの走る姿とクールで美しい表情を見ると誰も彼女には勝てないのではないか?そう思えてしまいます。アベベはそんなヌデレバをさらにクールに力強くしたような存在だったのかもしれません。
 それにしてもなぜ、彼はあんなにもクールな走りをしていたのか?そしてなぜ、あんなにも速かったのか?
 伝説のランナー、アベベ・ビキラに迫ってみようと思います。

<アベベ誕生>
 アフリカの北東部に位置する大きな国エチオピア。その首都アジスアベバから北北東へ130kmのあたりにデブレブラハンという町があります。そこからさらにロバの背中に乗って3時間、標高3000mの高原地帯にある小さな村ジョル。
 1932年8月7日、そこに住むオロモ族の一家、父ビキラ・ワッキラと母ウディナシ・バナバルの次男としてアベベ・ビキラ Abebe Bikila は生まれました。
 オロモ族というのは、エチオピアに住む三大部族、オロモ、アムハラ、ティグレのひとつでしたが、そこでは彼らより人口的には少ないアムハラ族によって支配される歴史が続いていました。当時、独裁君主としてエチオピアのトップに立っていたハイレ・セラシエ皇帝もアムハラ族でした。
 オロモ族の見た目の特徴は、あのアベベの彫りの深い威厳を感じさせる顔立ちによく現れていましたが、彼らの多くは貧しい小作農としてギリギリの生活を強いられていました。アベベの父親もまた小作農で、わずかな農地で小麦を作り、その他に山羊やニワトリを飼いながらなんとか生活をしていました。同じ小作農でも、食べ物には困らない程度の生活ができているだけ、彼の家は恵まれていましたが、父親がアルコールに溺れるようになると、そんな生活も厳しくなります。結局、彼の両親は離婚してしまい、母親は子供たちをおいて出て行ってしまいました。
 そんな父親を嫌い、貧しい生活から抜け出そうと、彼は政府が募集していた皇帝のための親衛隊の入隊試験を受けます。まわりの子供たちより多少恵まれた環境で育ち、高原地帯の厳しい環境で早くから家の仕事を手伝っていた彼は体力的にまわりの子よりも優れており、入隊試験にも見事に合格します。そして、親衛隊に入隊するため、彼は首都アジスアベバへと旅立ちました。

<親衛隊への入隊>
 3000年に及ぶ長い歴史をもつアフリカ最古の国エチオピアは、ハイレ・セラシエ皇帝のもとアフリカでもいち早く独立国家として立憲君主制を導入した誇り高き国です。マーカス・ガーベイのよって確立されたラスタファリニズムの思想において、その中心として崇められていたハイレ・セラシエ皇帝を守るための親衛隊は、そんな誇り高い国において誰もが憧れる名誉ある存在だったといえます。優秀な人材が集められていた親衛隊のメンバーは、スポーツにおいても優れた人材が多く、オリンピック出場選手のほとんどをそこから輩出していました。アベベもまた親衛隊などが参加する陸上競技大会でその実力を認められ、オリンピックなどの国際大会を目指す選抜メンバーに選ばれることになります。ところが意外なことに、当初選抜メンバーに選ばれたアベベは、その中でそれほど目立つ存在ではありませんでした。
 彼は元々、親衛隊に入る目的も村を出たかったことと家を出た母親に会いたかったからではないかといわれており、けっして皇帝に対する熱い忠誠心をもつ人物というわけではなかったようです。スポーツ選手としての活躍も彼自身それほど望んでいたことではなく、除隊後に畑として使える土地がもらえるということだけが唯一の目標だったようです。(実際にはその規定は、有名無実の制度でほとんど実行されることがなかったようです)寡黙な彼はこうした自分自身の心の内を生涯ほとんど話すことがありませんでしたが、彼の後見人だった人物に彼はこんなことを言っていたそうです。
「彼は陸上競技大会で活躍したためにマラソンランナーとして生きることになったが、本当はサッカー選手になりたかったと言っていました」
 エチオピアでもサッカーの人気は高く、小学校でも休み時間にはみんなボールをけって遊んでいたといいます。走るのが速かったアベベはサッカーでも活躍していて、そのシュートは誰よりも強烈だったといいます。彼が入ったチームはいつも勝っていて、本人もサッカーが大好きだったのです。もしかすると彼がサッカーをやっていたら、アフリカのサッカー史が変わっていたかも?といいたいところですが、問題もあったようです。なぜなら、彼は試合中いつもは大人しいのに失敗した選手に大声で怒鳴るなど、以外に短気な面を見せていたともいいます。口数が極端に少なかった彼は、やはり団体スポーツより、個人スポーツの方がむいていたのかもしれません。
 そんなわけで、人一倍練習をするというわけでもなく、黙って練習メニューをこなしてはグランドを一人あとにする彼は、成績もトップ・クラスのランナーに及ばず、それほど目立った存在ではなかったようです。しかし、そんな彼の才能に目をつけた人物がいました。スウェーデンからコーチとして来ていたオンニ・ニスカネンという人物です。生涯アベベと行動を行動を共にすることになるこのコーチは、メキシコ大会のマラソンで金メダルを獲得することになるマモ・ウォルデや先輩のワミ・ブラトに勝てずにいたアベベがもっている頭の良さに気付いていました。他の選手がコーチの指示にただ黙って従い、そのとうりに走り続けるだけなのに対し、アベベは自分で考えて走りを修正することができていたのです。当然、彼は少しずつ成績を伸ばし、ニスカネン・コーチも彼に付きっ切りで指導を行うようになりました。
 こうした彼のスポーツに向かう姿勢が彼独特のクールな姿勢の元になっていたのかもしれません。人種差別か貧困、好きでもない?マラソンへの挑戦・・・彼の人生はクールでなければやっていけないことばかりだったのです。

<アベベの素質>
 国土のほとんどが海抜2000m以上の高原地帯というエチオピアで育ったランナーは、現在では当たり前となった高地トレーニングを子供の頃から行っていたことになります。そうして子供時代から鍛えられた高い心肺能力をもつ選手に、ヨーロッパ直輸入の最先端スポーツ・トレーニングを行わせることで、あの伝説的な走りが生まれたわけです。当時は日本の選手もまだ、誰よりも多く走ることが最高の練習であるという根性主義が当たり前の時代でしたから、日本の選手よりもアベベの方がよほど科学的なトレーニングを行っていたことになりそうです。彼の練習はただ長く走るのではなく、短距離走と長距離走を組み合わせたり、より高い土地でのクロスカントリー走を行うなど、心肺機能を高めるためのメニューがすでに取り入れられていました。
 こうして、1960年に開催されたローマ・オリンピックのマラソン競技にアベベは出場することになりました。しかし、国際的なマラソン大会に出場したことのないアベベは、まったくのノーマーク。ただし、ニスカネン・コーチはアベベがエチオピア国内で出していた記録から、もしかすると優勝も狙えるかもしれない・・・と考えていました。彼の記録は世界記録には到底及ばないものの、高地でしか走っていなかったことを考慮すると、それは世界記録に匹敵する価値がある、そう考えていたのです。

<ローマでの勝利>
 ローマ・オリンピックのマラソン競技前日、ニスカネン・コーチはアベベに対し、初めから飛び出さず、前半は優勝候補のひとりといわれるモロッコのラジについて行くよう指示しました。そして、30km地点を過ぎたところでスパートをかけて勝ちに行けというのが作戦でした。翌日、コーチが描いていた作戦はアベベによって見事に実現されます。
 その日のアベベの勝利はまさに圧倒的でした。彼の走りに驚いた人々は、この時彼が裸足で走っていることにも衝撃を受け、彼のことを「裸足の英雄」と呼ぶことになります。もちろん、エチオピアという国がいくら貧しいとはいえ、彼らが選手のために靴も買えないほど困っていたというわけではありませんでした。たまたまアベベが履いていた靴が、ドイツに来て壊れてしまい、それに代わる靴を探したものの彼の足に合うものがなかったため急遽裸足で走ったとのことでした。といっても、彼はクロスカントリーの練習ではいつも靴を履かずに走っていたようで、裸足で走ることにもともと違和感はなかったようです。
 彼は2位のラジに100mほどの差をつけてゴールインした後、いつものように整理体操を行い、周りを驚かせました。42.195kmを走り終えたランナーにそれだけの体力が残っているなど、到底信じられないことでした。
 そうでなくても表情を変えない彼の精悍な顔つきには、苦行に挑む修行僧を思わせる気品があります。そんな彼が裸足で黙々と走る姿を、かつてインド独立の指導者マハトマ・ガンジーが「塩の行進」を行った時の歩く姿に重ねてみた人も多かったはずです。ガンジーもまた「裸足の英雄」でした。
 またそれとは逆に、同じローマ・オリンピックのボクシングで金メダルを獲得し、その後20世紀を代表する世界ヘビー級チャンピオンとなるカシアス・クレイ(後のモハメド・アリ)が「ビッグ・マウス」によってカリスマ的存在となったのに対して、アベベはしゃべらないこと、感情を表さないことでカリスマ的存在になった正反対の英雄だったといえるでしょう。こうして、ローマで一躍英雄になった彼は、東京オリンピックでも再び金メダルを獲得。一躍「生きた伝説」となりました。

<オリンピックV2の価値>
 アベベの快挙の後、東ドイツのチェルピンスキーが1976年のモントリオール、1980年のモスクワで連続優勝し、オリンピックにおけるマラソンでの連覇を果たしています。これがアベベ以降、唯一のV2ですが、チェルピンスキーのこの連覇は残念ながらアベベのV2に比べ価値がぐっと低いと考えられています。
 モントリオール・オリンピックでは、人種差別を行い続ける国、南アフリカのオリンピック参加に抗議して、アフリカ諸国が大会参加をボイコットするという事態が起きていました。したがって、長距離王国のはずのエチオピアもケニアも参加していなかったのでした。さらに、モスクワ・オリンピックの場合は、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議するため西側諸国の多くが日本も含めて参加しませんでした。したがって、チェルピンスキーのV2の価値はかなり低いといわざるをえないでしょう。(それにその後、明らかになる東側諸国のドーピング問題。もしかすると、チェルピンスキーが薬物を使用していたという可能性もあるのです)
 やはり文句なしにアベベこそ「生きた伝説」と呼ぶにふさわしいといえます。しかし、その偉大なランナーのその後の人生はいかなるものだったのか?ここから先を知っている人は意外に少ないのではないでしょうか。

<その後のアベベ>
 1968年、メキシコ・オリンピックのマラソンに出場したアベベは、当然V3を期待されることになりました。しかし、足に故障を抱えていた彼は、マラソンに出場はするものの、レース途中で棄権。それでも、彼に代わり長年彼の影に隠れていたマモ・ウォルデが念願の金メダルを獲得し、エチオピアは面目を保ちました。しかし、マモが金メダルをとったにも関わらず、相変わらずアベベへの期待は高く、彼自身も1972年に行われることになっていたミュンヘン・オリンピックを目指すつもりでした。長距離走者の寿命が他の競技に比べて長いことを考えれば、1972年に40歳となるアベベにもまだ確かに活躍の可能性は残されていたはずです。実際、そのミュンヘン大会で同じ年齢のマモが3位となっているのです。ところが、アベベは次のオリンピックに出場できませんでした。それどころか、もう走ることすらできなくなってしまったのです。
 1969年3月23日の夜、フォルクスワーゲンを運転し、練習から帰る途中のアベベはカーブを曲がりきれずに路外に飛び出し、車が大破、大怪我を負ってしまったのです。かろうじて、一命はとりとめたものの、もう二度と歩けない下半身不随の身体になってしまいました。
 事故の後、しばらく、その事故は英雄扱いされる彼を恨む者、もしくはオロモ族の活躍を妬む別の種族の誰かが仕組んだものという噂が流れたといいます。それだけ、エチオピアでは部族間の対立が危険な状態にあったということでしょう。しかし、普段から彼が運転が荒っぽいことは知られており、たびたびコーチなどから注意されていたようです。どうやら、いつも大人しい彼は車に乗るとそのストレスを発散させるような運転をしていたようです。そのうえ、当時の彼は足の故障からなかなか復帰できずにいたため、かなりイライラがつのっていたようで運転が荒くなるのは当然だったのかもしれません。

<車椅子の生活>
 マラソン・ランナーとして栄光を獲得した彼にとって、二度と走ることができないというのは、身体にとってよりも精神にとってきついことでした。しかし、彼はそうした車椅子の生活についての不満を漏らすこともなく、その後は障害者スポーツの選手として活躍する道を選びました。事故から4ヵ月後に行われたイギリス、ストーク・マンデビルのパラリンピックに彼はアーチェリーと車椅子競争の二種目に出場しています。(パラリンピックは1948年ロンドン・オリンピックの際、ロンドンのストーク・マンデビル病院で行われたのが最初とされています。実は、それは第二次世界大戦で障害者になった兵士たちのためのスポーツ大会がきっかけでした)
 その後、彼は1971年にノルウェーで行われた犬ぞりレースにも出場し、なんと優勝しています。
 1972年ミュンヘン・オリンピックにゲストとして招待された彼はマモの銅メダル獲得を喜びながらも、自らの境遇がかえってつらく感じられ、落ち込んだ様子だったといいます。そんな精神的なストレスと長旅の疲れのせいか、帰国後彼は急に事故の後遺症に悩まされるようになります。腕のケイレンや頭痛に苦しみ出した彼は、その後入退院を繰り返すようになり、1973年10月25日静かにこの世を去りました。

<混乱の国エチオピア>
 彼の死後、数ヶ月たった1974年2月エチオピアでは社会主義革命が起きます。皇帝ハイレ・セラシエによる独裁体制は国民生活を改善するどころか、かえって悪化させたため、国民の反発をかい、彼はその帝位を奪われました。その後、彼は国外に追放されたとされていましたが、その行き先はわからないままになりました。その居所がわかったのは、1992年のことです。その年、今度は社会主義体制が崩壊、その際ハイレ・セラシエの遺体が宮殿内で発見されたのです。彼は革命の際、その場ですぐに処刑されていたのでした。
 かつてアベベの後継者としてメキシコ・オリンピックで金メダルを獲得したマモは、1992年に誕生した新政権のもと軍人時代に無実の市民を処刑した罪で逮捕され、9年の獄中生活を強いられました。その後、長い獄中生活の後、彼は病に冒され、釈放はされるものの、すぐにこの世を去ってしまいました。世界一のランナーという栄光を手にした英雄ですら、愛する国の政治的混乱により、すべてを失うことになったのです。アフリカ諸国の中でも長い歴史と文化をもつエチオピアは、残念ながら今もなお貧困と混乱の中にいます。そんな国で生まれ「スポーツとは楽しいものである」などとは考えたこともない人々の中で、アベベは自らの未来を賭けて走り続けました。
 「マラソン競技」は人生そのものだ、とはよく言いますが、彼にとってそれは比喩でもなんでもありませんでした。そんな彼だからこそ、悟りをひらいた宗教家のような静かな表情を顔に貼り付けて走らなければならなかったのかもしれません。怒りも喜びも悲しみも忘れ、ただ黙々とクールに運命に従う。これこそが、アベベ・ビキラの「走りの美学」だったのではないでしょうか?それが幸福なことだったかどうかは、別として・・・。

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