恐ろしすぎる殺人者たちの名演技


「アクト・オブ・キリング The Act of Killing」

- ジョシュア・オッペンハイマー Joshua Oppenheimer -
<怖すぎる映画>
 どんなホラー映画よりも怖い大量殺人事件の映画です。
 と言っても、スプラッタ映画ではなく、サディスティックな暴力、性描写の映画と言うわけではありません。
 殺人事件を詳細な調査に基づいて描いたドキュメンタリー・タッチの映画は、過去に何本もありました。(「冷血」から始まり「ゾディアック」まで)しかし、この映画はそれらの作品とは根本的に異なります。それは大量殺戮の映画を撮る現場を追ったドキュメンタリー映画ということになりますが、本物の殺人者が、実際の大量殺人事件を自ら演じてみせるところが異色なのです。さらに驚くべきことに、その殺人者は、裁判所から正式に罪に問われず、今でも普通の生活しているといないのです。いやいや、それどころか、共犯者たちと共に英雄扱いを受けているのです。
 何なの、そんなことあり得ないと思いますよね?しかし、それはインドネシアで実際にあった歴史的事実であり、現時点でもその状況は続いているはずです。
 というわけで、先ずは実際に起きた描かれている「9・30虐殺事件」について知っておく必要がありそうです。(この事件については、ピーター・ウィアー監督の出世作メル・ギブソン主演の「危険な年」でも描かれています)

<「9・30事件」>
 1965年9月30日夜、インドネシアのスカルノ政権が右派のクーデターによって倒されました。左派よりだったスカルノ政権下、党員数を350万人にまで増やしていた共産党に対し、政権を奪った右派のスハルト少将は共産党員に対し徹底的な弾圧を加えようとしていました。しかし、政府が市民を虐殺することは国際社会が許さないはず、そこでインドネシア政府は、「プレマン」と呼ばれる街のならず者集団に虐殺を実行させます。
 プレマンは、共産主義者の疑いがかけられた市民を逮捕しては、その真偽に関わりなく取り調べと拷問、そして殺害を実行して行きます。その対象は、共産主義者だけではなく華僑などの比較的裕福な外国人も標的となりました。中には、拷問、強姦、虐殺の後に放火され焼き払われた村もあり、インドネシア全国で100万人から200万人が犠牲になったと言われますが、詳細は未だ明らかにされていません。
 そのうえ、現在でもプレマンたちの多くは警察から罪を問われることもなく、右派の民兵組織のメンバーとして英雄扱いされています。当然、彼らは当時虐殺を行った街に住み続けていて、同じようにならず者として、虐殺の犠牲になった人々の間で平然と暮らしています。殺人者と共に暮らす日常・・・そう考えてだけで、恐ろしくなってきます。
 この映画は、そんな残虐な殺人者たちの日常を追ったドキュメンタリー映画ではなく、1965年の惨劇の詳細を暴く映画でもありません。1965年の惨劇をその加害者であるプレマン自らが演じる姿を追ったドキュメンタリー映画です。でもなぜ、そんな形の作品になったのか?

<異色のドキュメンタリーになった理由>
 実はこの作品は、当初、人権団体からの依頼によって「9・30虐殺事件」の被害者たちのインタビューを集めた作品になるはずでした。そこから事件の真相を明らかにしようという試みだったのです。ところが、映画の撮影前に当局(政府?)から被害者への接触を禁ずるという指示が出されます。政府側は、事件の真相を知られたくないのですから、当然のことかもしれません。
 普通なら、そこで危険を感じ、撮影中止になりそうなものですが、ナチス・ドイツによる弾圧を逃れてアメリカに逃げたユダヤ人家庭に育った監督のジョシュア・オッペンハイマーは、逆に燃えることになります。だったら、加害者側に取材させて下さい、と方向を転換します。そして、彼らの俳優気取りの立ち居振る舞いに、この映画のアイデアが浮かんだのではないでしょうか?
「あなたたちを主演にした「9・30事件」の映画を撮らせてもらえませんか?」
 そう提案したのです。
 元々、彼らはハリウッド映画を上映する映画館の用心棒だったらしく、すぐに映画化の話に乗ります。昔からギャングや西部劇から、衣装や殺し方を学んだと語る彼らにとって映画に出演するのは夢だったのかもしれません。こうして、本物の殺人者が自ら過去の殺人を演じるという前代未聞の映画の撮影が始まります。

<ロケハン>
 撮影は本格的な撮影を前に、虐殺の現場となった街を歩いた後、大量虐殺の現場を訪れ、その時の殺害方法などを説明するなど、ロケハンから始まります。古いビルのベランダのような場所に被害者を連れてきて、順番に殴り殺していたことを説明した後、あまりに出血がひどく、死体の処理も大変になり、途中からは針金で首を絞める殺し方に変更したと実演までしてみせます。
 かつてユダヤ人を虐殺したナチス・ドイツも、同じように虐殺を繰り返しながら殺害の効率を上げ、ガス室での大量殺戮を行いました。「殺人」という行為は、ある一線を越えると、もはやそれは工場の流れ作業のようにシステマティックな行動の一つになってしまうようです。

 右派の民兵組織のリーダーとなっている殺人者の一人は、街を歩きながら組織の集会を開くのにお金がいると言って、小さな店で華僑たちから恐喝をして行きます。
「俺はあんたの友人だ。そうでなきゃ、最初からお前を殴っているよ。なあ、そうだよな・・・」
 この部分に関しては、再現でもなんでもなく単なる恐喝の証拠映像です。見ていてむかつくし、気分が悪くなってきます。この男は、その後のインタビューで女性たちを強姦した時のことを楽しそうに語っています。
「お前の地獄は、俺にとっての天国だぜ」
 椅子を揺らしながら楽しそうに話す姿を見ていると、「人間」という種族そのものの存在について考えざるを得ません。地球上に「人間」という種族の生きている意味はあるのか?そう思えてきます。
「こいつなら死んじゃってもいいし、地獄に落とすべきだね」
 そう思ってしまう自分もまた「人間」の仲間であると思わざるを得ません。

<被害者たち>
 プレマンたちによる拷問、尋問の場面の撮影中、拷問され殺害される役を演じていた人物が、実は自分の義理の父親は華僑で事件の夜に殺害されたことを明かします。そう語りながら、撮影に協力し、自ら拷問されてみせる彼の表情には、「怒り」「悲しみ」「憎しみ」「恥辱」「悔しさ」・・・様々な感情が入り混じって見えます。
 この映画の公開の2年後、2014年にこの映画のスタッフは、被害者の証言をもとにした姉妹編となるドキュメンタリー映画「ルック・オブ・セイレンス The Look of Silence」を公開しています。

<プレマンを支える人々>
 右派の民兵組織の集会にやって来た大臣は、こう言って彼らを讃えます。
 「政治を行うのは役人だけではできないことがある。プレマンは自由だからこそ必要とされるのだ!」
 国営放送に出演したプレマンのリーダーを女性アナウンサーは、共産主義者から国を守った英雄と讃えます。
 ええ!それってやらせでも何でもないの?インドネシア恐るべし・・・。
 っていうか、「不思議」を通り越して、ブラックすぎる可笑しさです。

<恐るべき虐殺現場>
 実際に虐殺が行われた村を再現し、そこで当時の村ごと焼き払うシーンが撮影されます。プレマンたちに引きずられる男たち、泣き叫ぶ母親とその子供たち。彼らはエキストラとして雇われた人々ですが、その泣き叫ぶ姿は迫真を帯びてきて、カット後も泣き止みません。そりゃあそうでしょ。本物の殺人者がリアルに虐殺を再現しているのですから、もしかすると殺されるのではないか?と思うのも当然でしょう。
 撮影現場のあまりのリアリティーに視察に来ていた大臣が思わず、これはちょっと残虐過ぎないか?と口出しします。さすがに大臣なので、その映像が画面上でどう見えるのかが心配になってきたのでしょう。それに比べると、プレマンたちはどこまで想像力がないのか?いや、想像力がないからこそ、自分たちのやってきたことに疑いも持たないし、隣に被害者の家族がいても平気なのかもしれません。それとも、殺人を繰り返す中で、彼らの精神が壊れてしまったのかもしれません。
 しかし、映画の撮影が進むにつれて、主人公のプレマンに変化が表れます。再び虐殺の現場を訪れた彼は突然、不気味な音を出して吐き始めるのです。僕にはその音が死んだ魂が、口から突然飛び出し始めたように思えました。彼は撮影中、悪夢を見るようになったことを話し出し、時に涙を流しました。
「俺は今、地獄にいるのかもしれない。周りをすべて闇に囲まれている気がする」
 そんな思いを語っています。


「アクト・オブ・キリング The Act of Killing」 2012年
(監)ジョシュア・オッペンハイマー
(共監)クリスティーヌ・シン、(匿名監督)
(製)シーネ・ビュレ・ソーレンセン
(製総)ヴェルナー・ヘルツォーク、アンドレ・シンガー、エロール・モリス(「フォッグ・オブ・ウォー」の製作者)
(撮)カルロス・アロンゴ=デ・モンティス、ラース・スクリー
(音)エリン・オイエン・ヴィステル
 ラスト近く、唯一娯楽映画的に撮られたミュージカルの場面が魅力的です。背景の滝と海?の美しさと登場人物の不気味な衣装が相まって摩訶不思議な世界が生み出されています。
 ヨーロッパ映画賞ドキュメンタリー賞、全米批評家協会賞ドキュメンタリー賞

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